三幕・誰そ声や、咎を問う声嘆く声
暗い宇宙空間に、三隻の無彩色の宇宙船が航行していた。それらは大きなパラボラアンテナを備えていて、宇宙に浮かぶ大都市、ウィズダムへと向けている。
何の前触れもなく、宇宙を一筋の光線が奔った。光は、あっけなく宇宙船を貫いた。
音も、振動もない、閃光が球状に均等に拡散するだけの爆発。続いて同じ爆発が、断続的に、いくつも繋がる。航行していた宇宙船と同じ数の輝きが、宇宙空間に生まれた。
くすんだ赤い絨毯に、豪奢なテーブルが鎮座している。それを囲む男達は、皆苦渋の汗と表情を浮かべていた。
「……何故事前に察知できなかったんですか?」
官房長官がなじるように言った。
「事故が判明するまで、不審な点はありませんでした」
そう言うと、中央情報調査室局員は、備え付けのモニターのスイッチを入れた。
画面に衛星軌道マップと、各国の衛星リストが表示される。そのことごとくに、ロストと赤い表示が重なっていた。
「本日一○○二時、開発中のヘリアンサスシステムの起動、発射アクションを確認。直後、人工衛星ヘリアンサスより方位70―0―0、軸線距離プラス五十㎞の空域にあった衛星は消滅しました」
「待って下さいよ、それじゃあもしかして……」
「……人工衛星の三十四パーセントが消滅しました。軍事用、民間用を問わず、衛星通信に異常が発生しています」
早口であしらうように答えた。彼は一通り室内を見回すと、スイッチを切り替える。
「現在、ウィズダムに対するアクセスは全て無効です」
その言葉を裏付けるように、ディスプレイには「拒絶」と表示される。
ウィズダム監査委員会次長は鼻白み、嘆くように言葉を投げる。
「いかなる事故が起ころうとも、通常回線、非常回線、緊急回線の全てが封鎖される事態はあり得ない。あり得ない事態が今、起こっている。人為的な操作があったことは明らかだ」
しんとなる議場。それを破ったのは淡々とした声だった。
「原因は?」
「わかりません」
「たいしたもんだ。中央情報機関が聞いて呆れる」
椅子を鳴らし、総務大臣は言った。
「相手は宇宙です。確認は容易ではありません。ご理解の程を」
局員は淡々と言い返す。外務大臣が重い口を開いた。
「この一件、各国政府に責任の所在を問われますよ。あのシステムは……」
「失礼」
局員は視線を机上の装置に移した。日本政府直属の諜報機関、中央情報調査室の職員である彼は、閣僚会議の場であっても、現場から報告を受ける義務があった。
彼は顔を上げて、そこに険を浮かべた。居並ぶ政府高官を見渡すと、言いにくそうに口を開く。
「……地上管制センターから報告です。巡航監視船、中継工作船、中継衛星がウィズダムによって撃墜されました……」
列席した者達はざわめき始める。
「あそこにそんな兵器があったのか?」
「……スペースデブリの自動排除システムか」
答えたのは、押し殺したような首相の声だった。調査室局員は首肯する。
眉を歪めて、首相が先を促した。
「緊急措置としてメインシステムに侵入を試みたのですが、失敗しました」
「その船に、乗員は?」
「……情報調査室、公安委員会、技術庁職員ら、二十四名が殉職しました」
淀みなく答えるが、声にわずかな震えが混じっている。
「今すぐ突入部隊を」
そう言って立ち上がる調査室局員を、官房長官が押しとどめた。
「これ以上人を死なせて、また世論を敵にするつもりですか?」
やたらに険しい目つきをしていた。
外務大臣は、事態の行く末を予想して眉間に深い縦皺を寄せた。
「ヘリアンサスは日本人主導のプロジェクトでした。ことここに至っては、各国が介入するでしょうな」
「……ウィズダムは独立を謳いながら、実質は各国の利権が複雑に絡み合っています。下手に手を出せば、世界のバランスを崩すことになる……」
その場が静まり返る。その言葉が事実だからこそ、反証を見つけられずにいた。
『……善良な方々ですね』
卓上通信機を介して、彼ら―――日本政府高官の会話を、アリスは聞いていた。
『誰もがちゃんと約束を守ると思っている。もし本当にそうなら、私もこんなことをする必要はないのだけれど』
アリスの呟きは傲岸不遜だが、一抹の寂寥も込められていた。
表示スケールが最大規模になっているエレクトロスフィアで、地球のネットワーク環境を模したCGからアリスへ向けて、幾本もの触手がうねうねと伸びている。それは即ち、ウィズダムへのハッキング行為の視覚化であった。
『……政府に、企業に、物好きなハッカーまで。ノックも無しに失礼な方々ね……』
触手はアリスに絡みついていく。それをアリスは、冷やかに見つめていた。
『いたずらっ子にはお仕置きが必要ですね』
アリスがすうっ、と腕を上げた。その途端、エレクトロスフィアにノイズの大音声が響く。皮肉めいた微笑を浮かべて、アリスは手を振る。同時、クラシックの荘厳な調べが、エレクトロスフィアを埋め尽くした。
触手は次々に痙攣を始める。そして一斉に硬直したかと思うと、誘爆して燃え上がる。さらに弦楽四重奏が伸び上がったと思うと、地球のネットワーク環境に次々と雷が奔った。
同時刻、地球各地の情報部や技術研究所の、ウィズダムへ侵入を試みたコンピュータに過剰な電力が流れ込み、電子回路を焼き切った。ある研究所では、その影響で爆発が起こった。
エレクトロスフィアで、アリスはふうっ、と息をついた。
『さて、では少し、ご挨拶にいきましょうか』
唐突にウインドウが現れ、データと映像が表示される。それは弥雲と冬弥の戦闘を記録したものだった。
『損害は……義体兵二十一体。これは困りましたわ。想定外です』
アリスは残念そうに片目を瞑った。
彼女の頭上には、巨大なリングが浮遊している。それに引き比べると、彼女は小さい。だが、エレクトロスフィアでは大きさや距離は大きな意味を持たない。
それを実証するかのように、アリスの体はノイズと共にかき消えた。
冬弥と弥雲は、彩花を支えて廊下を歩いていく。三人は一階エントランスに到着した。
「彩花さん。何が起こっているのか、教えていただけませんか?」
弥雲は横目で彩花に尋ねた。彩花は眉をしかめて口を噤む。
『お答えしましょうか?』
美しい、だがどこか非人間的な声が突然響いた。
壁面に設置されたホログラムプロジェクターが、何も無い空間に美しい外見の少女を現出させる。
『初めまして、皆さん。わたくし、アリスと申します』
冬弥と弥雲は、突然の事に考えるよりも見入ってしまった。彩花の表情が一気に険を帯びる。
余裕の微笑を浮かべて、アリスは三人を見渡す。
『あなたは……綾神弥雲さん、ですね』
「私を知っているのですか?」
『ここウィズダムは、全て私の管理下にあります。あなたがSS計画の開発協力者としてこちらにいらしたことも存じていますわ』
そう語るアリスは、ただの物腰の柔らかい少女としか思えなかった。
『そして、そちらの殿方は……あら……?』
アリスは遠い目をするが、困惑して小首を傾げる。
『記録がありませんわね。もしかして、データが破壊されているのかしら? ねえ?』
そう言って、アリスは彩花を見下ろす。
『こちらにおいででしたのね。彩花・F・エンフィールド博士』
アリスはさらに微笑む。
『ダミーを流して攪乱し、ウイルスで制御システムの一部を破壊したのは貴女ですわね?』
「……だったら、何?」
『迅速にして聡明な判断。流石ですわ』
くす、と笑い、アリスは桜色の唇に人差し指を当てた。
『私……電子情報構成生命体を開発なされた、天才ですもの』
ぴくり、と彩花の肩が揺れる。その反応を楽しむかのように、アリスは笑った。
彩花の拳は強く握りしめられ、白くなっている。冬弥は緊張を高め、弥雲はすっと立ち、成り行きを見守った。
「……ヘリアンサスを使って、何をするつもり?」
彩花の問いに、アリスは唇の両端をつり上げた。
『……人間は有史以来、様々な兵器を開発してきました』
同意を求めるように、アリスは両手を広げる。
『鉄器に始まり、火薬、戦車に飛行機、そして核兵器。その最先端に生まれしもの……』
彼女の言葉に応えて、CGモデルが浮かび上がった。それは画面上で全景を見せつけるようにゆっくりと回転する。機械でできた花のような、巨大な人工物だった。
『その名を「ヘリアンサス」』
アリスは不遜に笑う。対照的に、彩花は下唇を噛んで沈黙した。
アリスの後ろに、CGで表現された地球が投影された。
『地球の総人口は、現在8,247,911,479人……』
無造作に手を掲げると、赤い点が生まれた。赤い点は地球を周回し始める。
『これが、ヘリアンサスの軌道です。そして……」
ヘリアンサスを示す赤い点から、紅い線が地球へ向かって延びた。それが、地表に到達し、白光が弾けた。
地表を撓ませ、CGの地球が形を変えていく。光が着弾した北太平洋が陥没し、日本が姿を消した。その真反対、南大西洋では大きな亀裂が生じ、東西に割かれていった。噴煙が南半球を覆い、そして世界中へ広がっていく。
「…………」
モニターを見つめる三人に声はない。
元の姿は見る影もなく、赤と灰色の無味乾燥な色で地球は染め上げられた。
アリスは満足げに頷いた。
『これぞ人類の最先端兵器、ヘリアンサスです』
「違う!」
彩花は全身から声を絞り上げた。そして、肩で大きく息付く。
「ヘリアンサスは兵器じゃない。美晴さんは……兵器を作ったんじゃないわっ!」
アリスは困ったように眉尻を下げた。
『……さてそれは、誰が決めることでしょうか? ともあれ、私の目的はヘリアンサスを発射することです』
アリスは三人をゆっくりと見回し、言葉を続けた。
『言っておきますと、脱出も連絡も不可能ですよ。もっとも、脱出したところでヘリアンサスが発射されたら、みんな天に召されますけどね』
『……そんな事のために、ウィズダムの人たちを……?」
彩花の声は震えていた。
『ラグファルド卿が命じた事です。私はそれに従ったまで』
ラグファルド、という言葉に、彩花は険しさを深める。アリスはそれを微笑んで見つめた。
『そう……今の貴女は人類の希望……』
アリスが、嫣然と微笑んだ。
『生き残れたら、ね』
冬弥が振り向く。バースト射撃の、腹をえぐるような音が響きわたる。壁と言わずドアと言わず、スコールのように弾丸が降り注ぐ。エントランスは見る間に廃墟と化した。
銃煙がうっすらと晴れていく。義体兵達は死体を確認するため、散開しつつエントランス内に侵入した。
「……あっぶねぇー……」
胸をバクバク言わせながら、冬弥はデスクの下の床に伏せていた。その腹の下には、彩花と弥雲がいる。
「冬弥……痛いです」
「あ、ごめん」
ずっとのしかかっていた冬弥は、慌てて体をどかす。
周りに破片が散乱している。出口は義体兵に塞がれていて、逃げられない。
彩花は身を縮こませ、カタカタと震えていた。冬弥は心配そうにその肩に触れるが、震えは止まらない。
「参ったね。どうしよう……」
「仕方ないですね。彩花さん、冬弥、ここで身を隠していなさい」
「え?」
と冬弥が聞き返すと同時、弥雲が飛んだ。
ふわり、と羽根の様に舞った体は、音もなく地を踏む。
義体兵達は素早く反応し、一斉にトリガーをひく。刹那、弥雲の体がしゃなり、と揺らめいた。
一秒に満たず、弾雨は止んだ。そして、銃弾の食い込んだ壁の前に、弥雲が傷ひとつない優美な立ち姿を披露していた。
すかさず、再びライフルが火を吹く。
弥雲はそれを意に介さず、回りながら、ゆっくりと進んでいく。木の葉のように揺らぎ、時として凍ったように静止しながら、弾の飛んでくる方へ進み、間合いを掌握していく。
華麗に舞っているような動きの前に、銃弾は一発たりともあたらない。義体兵が困惑したようにアイコンタクトをかわす。
間合いが詰まった。空気が張りつめ、時が止まる。
しなった竹が元に戻るように、弥雲の手が跳ね上がった。その手は義体兵の首に吸い込まれていき、まるで巨人の拳に殴り飛ばされたように、義体兵は吹き飛んだ。
ふっ、と弥雲の姿が消え、それまで彼女がいた空間に、弾丸が降り注いだ。
一瞬の銃撃が止むと、弥雲はそこから数メートル離れた所に姿を現した。それはまるで、空間が入れ替わったかのようだった。
薄刃のような手刀を薙ぐ。義体兵は「く」の字に体を曲げ、壁に激突した。
銃撃の合間を縫って、弥雲は舞い踊る。合わせて、弥雲の長い黒髪が縦横に流れる。
その姿たるや、まさに舞姫。動静一体の、美しき舞踊。
冬弥の眼は、その舞いに釘づけられていた。
最後の義体兵が、吹き飛んで崩れ落ちた。
弥雲の動きに一瞬遅れて、黒髪が舞い広がり、舞い落ちる。そして、一呼吸。
「ふっ、んふはあぁぁぁぁぁ……あーぁあー……」
だらけきったような吐息を弥雲はついた。
倒れた義体兵たちの中央で、弥雲は髪を掻き上げると、冬弥たちの所へ戻ってきた。
「もう大丈夫ですよ、彩花さん」
弥雲は彩花を抱き起こした。
銃煙が晴れ、再びアリスが姿を現す。
『……綾神弥雲、さん。貴女っていったい……』
アリスは辞書サイズの本を表示させると、パラパラとめくって弥雲の情報を閲覧する。
『……これは本当ですか? とても人間とは思えないことが書いてあるのですが……』
呆れた、と言った顔をアリスは浮かべた。
『……鳳仙院綾神ノ舞。日本に古来より伝わる舞踊流派。その本質はあらゆる武芸、舞踊の祖、というべき存在である。その脳構造は非常に特殊で、人間の行動の予兆を全て観測し予測し、視覚化している。継承者の証言によれば「気が弦に見える」とのこと。これは脳による情報処理、分析結果の効率的視覚投影化だと考えられる』
冬弥は目を見開いた。アリスは弥雲に視線を向けるが、弥雲は答えない。
『綾神ノ舞の継承者は、重火器の連射すらも視覚化し、回避することが可能。かの「霧哭島侵攻事件」で、局地的に戦闘を収束させた人物が、綾神ノ舞の継承者であることが判明。SS計画の予備実験としてNI試験の協力者として招聘したい、とありますね』
「残念ですが、覚えがありませんね」
『これは義体兵が敵わないわけだわ』
アリスはお手上げ、とばかりに手をひらひらさせる。
『まあ、綾神さんをやっつけるのが目的ではありませんし。良しとしましょう』
不意に、アリスは彩花を見下ろす。
『残り三時間。せいぜい足掻いてみてくださいな』
そう言い残し、アリスは電子の闇に紛れていった。
不可解そうな冬弥と弥雲の前で、彩花一人がその意味を理解し、唇をきつく噛みしめた。
その白人男性は、目の前に出された封筒を千切って数枚の書類を取り出した。鷹の様な目つきで書類を読み下していく。内容は情報部の調査報告だった。
「……クライン=ラグファルド。とんだ狸だな」
嘆息と共にそう漏らすと、手元の小さなパネルのボタンを押した。
一拍遅れて、落ち着いた雰囲気のその部屋に、二人の男達が入ってきた。
「どういたしますか、大統領閣下」
その問いかけに、アメリカ合衆国大統領グラハム・スタンレイは疲れた顔をしながら、側近達に静かに命じた。
「……オペレーション・アトランティス、フェイズ1は現時刻をもって放棄。ウィズダム、そしてヘリアンサスをケースA-01に設定。そしてSTRATCOM(戦略軍)に対応F-31と通達してくれ」
「戦術限定核を?」
「そのための設備だろう」
「議会やUNに突っ込まれますよ?」
「それを恐れて、黙って殺されるわけか、君は」
静かに睨まれて、側近は無言で息を飲む。
居並ぶ側近たちはうなずき合い、くるりと背を向けた。大統領は頭を抱え、呟く。
「多かれ少なかれ、犠牲は必要なものだろう」
側近たちはわずかに歩調をゆるめたが、そのままオーバルオフィスを後にした。
銃撃の痕が残るエントランスに、三人は立ち尽くしていた。
不意に彩花は歩きだす。冬弥と弥雲の間を、無言で通り抜けた。
「……どこへ行くんですか、彩花さん」
弥雲の声が、彩花の背中に投げかけられる。
彩花はふと足を止めると、二人に背中を向けたまま顔を上げた。
「ヘリアンサスを停めるわ」
二人は黙って、彩花の背中を見つめる。
「一人で行くことはないでしょう?」
ぴくっと彩花の肩が震え、不意に力が抜けていく。
「……あなたたちは関係ないわ」
「そんなこと、ないだろ?」
冬弥の言葉に彩花の肩がわななく。
「一人でカッコつけんなよ」
「そんなんじゃないっ!」
叫び、彩花は振り向いた。
眼に涙をいっぱいに溜めて、唇を真一文字に引き締め、その眼だけは、健気なまでに怒りを映している。
「違うのよ……私はっ…………」
ぐしゃっと涙を乱暴に拭く。顔を上げ冬弥を睨むと、
「ヘリアンサスが、あんな風に使われるのが我慢ならないのよ!」
激昂し、大きく震えた肩から、段々と力が抜けていく。
「……美晴さんが造ったものが、あんなことに使われるなんて……絶対に許せない」
唇を噛みしめ、彩花は踵を返した。
途端に、すくんで足を止める。視線の先には、いつの間に前へ回り込んだのか、弥雲が立っていた。
「ヘリアンサスが発射されれば、地球が大変なことになるのでしょう?」
冬弥は頷き、続けた。
「そうだよ。地球には家族とか、友達とか、恩人とか、一族とか、戦友とかがいるんだ」
彩花はきっ、と顔を上げ、
「危険なのよ!」
「貴女もでしょう?」
「あなた達には責任がないわ」
彩花はじっ、と弥雲を睨みつけた。その視線を、弥雲は痛ましげに見つめ返す。
「はなはだ不本意ではありますが、家訓がありましてね」
「家訓?」
「『世の乱るる時、綾神は戦場に舞う』と。どうも、戦乱に縁のある血のようです。それにあなただけでは、ヘリアンサスを止める前にあの兵隊、義体兵、と言っていましたね。彼らに殺されるでしょう」
「それは……」
彩花は言い返せず、口を噤んだ。
「今、ここ、にいるのが俺たちの責任だろ」
事もなげに冬弥は言った。
「……そんなの、ナンセンスだよ」
か細く彩花は呟いた。そのまま首を下げ、押し潰そうとする力に耐えるように身を固くする。
彩花は何も言葉が思いつかないまま、顔を上げた。彩花と、弥雲の目線が結ばれた。
弥雲の瞳に、彩花の姿が映り込む。一点の濁りもない、澄んだ海のような深い眼差し。
「天地神明、森羅万象、全ては綾なす弦の如し。綾神の教えです」
弥雲は諭すように、落ち着いた声でそう言った。
「全ては絡まりあい、関係しあい、影響しあう弦。完全に孤立した事象など、存在しません。貴女が生き残ったこと、私たちが出会ったこと、私たちが今、ここにいること。全て、そうなる様絡まった弦……縁なのですよ」
彩花の、まだ弱々しい拍動が、段々に加速していく。
「そこからどんな弦を辿っていくか、決めるのはいつだって、己自身です」
曇り空から差し込む光のような、優しい弥雲の微笑み。
彩花の眼は星のように、強い意志の光を宿していた。
「よし。じゃあまず腹ごしらえだ! 人間腹が減ってちゃ動けないし、いい考えも浮かばないもんだよ」
ことさら明るく、冬弥は言った。
宇宙空間に広がる六枚の大きな羽根が、太陽をその身に受けるため駆動した。関係者の間で「花びら」と呼ばれていたソーラーパネルは、縦七百メートル、横三十メートルの大きさを以て、一身に太陽光を受け止める。
太陽光は光ファイバーを通して、ヘリアンサス本体へ流れ込む。ヘリアンサス内の反応基盤が、太陽光を分解し、選別し、調整し、電力へ変換していく。変換された電力は、ヘリアンサスの中で圧縮され、物質化寸前の密度へ向かって練られていく。
眼下の地球は、青い輝きを何の憂いもなく放っていた。
そこは広く、テーブルセットがいくつも並んでいた。普段ならば多くの人が食事していたであろうカフェテリアである。
「よ、お待たせ」
彩花はわずかに顔を上げた。冬弥が鍋を持っている。鍋は暖かな湯気を立てていた。
「ま、ありあわせだけど……ほら、お腹すいてたら、まとまる考えもまとまんないよ」
冬弥は鍋を置いた。トマトと豆を煮込んだ、爽やかでまろやかな香りが優しく立ち上った。
「ふむ……いい香りですね」
「そう? 昔に作り方習っただけだから、ちょっと自信ないんだけど……」
「昔?」
「ああ……。そう、昔、だ」
冬弥の声は力なく消えていく。だが、頭を振って笑った。
「いいから食べなって。カブール仕込みのコマルだ。うまいし力が出る」
弥雲はさっそくスプーンを手にし、一口頬張った。
「これは、おいしいですね。冬弥、あなたには料理の才があるかも知れません」
「え、そ、そうかな? あは、あはははは」
冬弥は頬を弛めて笑った。軽く微笑んで視線を移すと、弥雲は視線を彩花に向けた。どこかぽかんとしている彩花を、冬弥も覗き込む。
「……彩花っ!」
冬弥が目の前で、手のひらをひらひらさせた。はっとして、彩花は焦点を合わせる。
「大丈夫か? 何ボーッとしてるんだ?」
「あ……っや、なんか……なんでそんな落ち着いてるのあなたたち?」
冬弥と弥雲は顔を見合わせた。
「まあ、焦ってもしょうがないだろ」
「腹が減っては戦はできませんよ」
困惑しながらも、彩花はスプーンを手に取った。トマト味の豆を口の中へ入れると、もぐもぐと噛んで、こくんと飲み込んだ。
「……おいしい」
「よかった。じゃあ、作戦会議だ。そもそもなんなんだよヘリアンサスって?」
彩花はいくらか逡巡するも、観念したようにリストコンピュータのホログラムモニターを二人に見せた。サーバーにアクセスし、膨大な資料を呼び出す。画面にはカラー写真と各種グラフが掲載された、英語の論文が表示されていた。それを見つめながら、沈んだ彩花の声が発せられていく。
「…………ヘリアンサスは、雪坂美晴博士が提唱して開発を進めていたプラント衛星よ。大気圏外で太陽光を収束しエネルギー変換、超加縮退させて結晶化させる……」
モニターに黒光りする結晶が映し出された。
「太陽エネルギー結晶は、地球上に輸送されて電力に変換される。完成すれば、太陽エネルギー変換効率九十二パーセント、強力なクリーンエネルギーになる……はずだった」
スプーンを握ったまま、彩花は声を飲み込む。
「……それを……」
スプーンを持ったまま、しばらく皿に残ったコマルを見つめる。そして、一息にすくい取った。そのまま口へ運び、もぐもぐと全てを飲み込む。
「それをアリスは地球へ向けて撃つ、って言ってるのよ。本来物質化するほどのエネルギー量がそのまま地表へ向けて照射されるっていうんだから、こんなもの、至近距離で発生するガンマ線バーストよ。それだけで生態系を激変させるわ。火山活動を誘発して、地殻に影響を与え、大気の組成が変わるほどの……大災害だわ」
彩花の説明を黙って聞いていた冬弥は、ぽつりと呟いた。
「……ブラフ、って可能性は?」
彩花はキーボードを叩いた。じりじりと赤く染まっていくリングが表示される。
「ヘリアンサスのエネルギー充填状況。狙いはともかく、ヘリアンサスが起動しているのは動かしようのない事実よ。充填完了まで、あと二時間三十二分」
「なるほどな。ここって、事故や事件が起こった時に備えて何か対策はないのか? 外部から緊急介入ができるようなさ」
「そのためのアリスね。ウィズダムの全システムを掌握して、外部回線ブロック、ハッキング防御をしているわ。そして、宇宙空間で孤立している以上、物理的制圧も不可能よ」
モニターの映像は、彩花の言葉を明確に肯定した。ウィズダム外観をモデリングしたCGが、薄い赤の球体に包まれている。
「スペースデブリの自動排除システムよ。反応領域は最大値、目標は無制限に設定されてる」
「接近すれば即座に排除される、か」
「宇宙空間だから、一撃が致命的ね」
「外部からの介入は不可能。内部には……義体兵か」
彩花は膝の上で、強く拳を握った。表情には翳りが生まれたが、それを見てとったのは弥雲だけだった。
考え得る方策を吐露し、その悉くの不利を悟ると、冬弥は拳銃をテーブルへ置いた。重い音がテーブルをわずかに揺らす。
「……義体兵の装備や戦術はプロの、正規軍精鋭部隊のレベルだ。なんであんな奴らがいるんだよ」
話すにつれ、視線に真剣な光が宿り出す。それを辿り、弥雲も彩花へ眼を向けた。
「……わからないわ、でも……」
彩花は淡々と、事実のみを答えた。同時に、モニターにウィズダム内ネットワークで公開されている「次世代軍事行動ユニット開発計画」の概要が表示される。
「……あれはウィズダムで開発された戦闘用ユニット、のようね。スポンサーには軍需産業もあるから当然と言えば当然だわ。もう各国軍で試験的に運用されているから、誰が操っているのかはもう政治的な問題ね。私にもわからないわ」
向かいに座る冬弥は、大きくため息をつき、テーブルの一点をじっと見つめた。
「アリスが言っていた、ラグファルド卿、っていうのが黒幕なのか?」
冬弥の問いを、彩花はモニターから目線を離さず、口だけを動かして答えた。
「たぶん、そういうことだと思うわ」
「何者なんだ、そいつ?」
「ウィズダム所長、クライン=ラグファルド。現代の賢者とも言われる、天才科学者よ」
「そうか。……ラグファルドを捕まえることは、できないのか?」
「この広いウィズダムの中じゃ、どこにいるのかもわからないわ」
話す声は淡々としているが、彩花は二人と眼を合わせようとしない。
「ヘリアンサスを物理的に止めるには、直接ヘリアンサスへ行くしかないわ。でも、宇宙港は全て封鎖されてる。ネットワーク環境は全て、アリスに掌握されている。何かしようとすれば、すぐに妨害されるわ」
彩花は言葉を切り、きっと前を向いた。
「だから、私がアリスを倒す。コントロールを取り戻して、ヘリアンサスに停止信号を送る」
「可能なのか?」
冬弥が問う。彩花はリストコンピュータを操作していく。
「普通なら無理よ。彼女は『電子情報構成生命体』だから」
「人工知能、っていうことか?」
冬弥が口を挟むが、顔を横に振って彩花は答える。
「有機生命体が三次元空間に存在するように、電脳空間に存在する知性体よ。従来のAIとは根本的に違う構成原理で、プラグラムコードではなく、電子そのものを構成原質として作られているの」
「いや、よくわかんないよ」
「だから……ええと、アリスの構成密度や知性が人間だとすれば、従来のコンピュータプログラムは本みたいなものよ。本はどんなに複雑で知識を蓄積していても、それ以上変化することはない。けれど人間は本を書き換えるし、新たに創造することもできる。あれは、矛盾を内包した複雑系システムということよ」
「つまり?」
「彼女にとって、ウィズダムや、地球の全てのネットワークコンピュータは玩具のようなものね」
そこまで言ったところで、マップ上のある一点が点滅した。
「ここは?」
「スフィアゲート、と呼ばれる施設よ」
それは、今いる場所から二キロほど離れた『レベル4』と題された地区にあった。
「人間が、疑似的に電脳空間に転移できるシステム。つまり、アリスと同じ土俵に立てる場所よ」
「できますか?」
弥雲は真っ直ぐ、彩花に問う。彩花はためらったが、意を決して口を開いた。
「……電子情報構成生命体、その素体を作ったのは、私だから」
「彩花が?」
「そうよ。だから、私はアリスを倒さなきゃいけないの」
まとわりつく感情を振り払おうと、彩花は頭を振った。
「私の造ったモノが、美晴さんの造ったモノを使って、酷いことをしようとしている。技術に善悪をつけるのは、いつも人間なんだから……」
彩花は唇をかみしめ、小さく震える肩を手で抑えた。
「だから私は止めなきゃいけない。ヘリアンサスも、アリスも」
空になった皿を前に、三人は重苦しく息をついた。どこからか発せられる低い機械音が流れてくる。
「ならばその間、私が貴女を守りましょう」
弥雲はすっ、と立ち上がった。
「俺も、全力を尽くすよ」
冬弥がそれに続いた。
彩花の顔に、わずかな笑みがこぼれ……ふるっと鼻が震えた。ぐっと顎を引き、二人から眼を隠した。
「さあ、参りましょうか」
そう言った時、弥雲の視界には、カフェテリアいっぱいに赤い弦が走った。
十体の義体兵が、カフェテリア入口で銃を掲げる。それに彩花が気付いた時には、既に引き金が引かれていた。彩花の瞳が、鏡のように銃弾を映した。
次の瞬間、彩花は柔らかい風に吹かれて飛んでいた。風だと思われたのは弥雲である。弥雲は彩花を抱えて飛び、銃弾を躱していた。ふわりと着地すると、弥雲は素早く身をかがめる。
「怪我はありませんか?」
「え、ええ……」
突然、弥雲が彩花を抱きすくめた。瞬間、彩花の頭があったところに弾雨が注がれる。
義体兵が油断なくライフルを構えて接近してくる。
「うおおおっ!」
アサルトライフルを連射してけん制しながら、冬弥は弥雲、彩花のもとへ駆けつける。
「早く先へ!」
二人を守りながら、緊迫して声を荒げる冬弥だったが、
「まったく、次から次へと……」
些か不快そうに呟き、弥雲は普段と変わらない足取りで歩き出した。
「え、ちょ、弥雲? 弥雲ってばぁっ!」
冬弥の声を遮って、発砲音が響く。
弥雲は軽く首を振って銃弾を躱した。
視覚化された義体兵の殺気である「赤い弦」が、弥雲を絡めとるように集束している。だが彼女は凛と義体兵を見据えて揺らがない。
すっ、と地面をこするように、弥雲は一歩を踏み出す。しかしその一瞬で、弥雲の体は義体兵に密着せんばかりの位置に接近していた。無機質な義体兵が、突然の事態に反応できず硬直する。瞬く間に、五体の義体兵が吹き飛ばされた。派手に宙を舞い、壁に激突して動かなくなる。
その様を、冬弥は呆然として見つめていた。その顔と裏腹に、肘を一直線に伸ばして流れるように照準する。
乾いた銃声が連続し、同数の義体兵が倒れる。その射撃は、釘を打つように正確だった。
「まずいな。包囲されたら時間がなくなるよ」
銃口を下げ、冬弥は呟いた。駆け出し、倒れた義体兵の傍らでかがみ込む。ベストをまさぐると、予備の弾薬、拳銃を抜き取った。
その体がわずかに身じろぐ。義体兵はビクンと跳ね起きた。赤いスリットバイザーがこちらを向いたのもつかの間、手が殺気を纏い、冬弥の眼に向かって突きこまれる。
穿たれる一瞬を見極め、冬弥は顔をそらした。義体兵の伸びきった腕を掴み、肘を極める。冬弥はそのまま、一本背負いの要領で義体兵を投げ飛ばした。義体兵の体は骨の折れる音と共に円を描き、床面に叩きつけられた。
「……大丈夫?」
冬弥が不安そうな顔で弥雲を見つめた。
「大丈夫ですよ」
そう言って、弥雲は冬弥を突き飛ばす。驚きながらも、冬弥は機械的に伏せる。
破砕音と共に、二人の間の壁に銃痕が刻まれた。
「またかよ……」
カフェテリアの入口から、新手の義体兵が銃撃していた。その中の一体が、前衛として接近してきた。冬弥はそれを見てとり、身を低くして駆け出す。義体兵に向かって。
「冬弥っ?」
冬弥は射線をかいくぐり、義体兵の懐に潜り込む。
コマ落としのような無音動作。一瞬の虚をついて義体兵の首を掴むと、頸動脈を正確に押さえる。そのまま鳩尾に当て身を入れた。義体兵はアサルトライフルを落とす。冬弥は首を掴んだまま、その体を銃撃から護る盾とした。
「行きますよ、冬弥!」
弥雲が彩花を支えて声を張る。その声を受け、冬弥は動かない肉の盾を捨てた。代わりに銃を拾い上げ、通路の陰の義体兵に向かって撃つ。彼らが身を翻して沈黙する間に、その頭上に向かって発砲。瓦礫となって落ちてきた天井は、義体兵の動きを封じる。
その隙をついて、三人はその場を離脱した。