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綾神虚草紙  作者: 鈴河悟
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一幕・綾なすは、継がれた犬と戦姫

「君の意見は対症療法でしかないんだ。根本的な解決にはならないだろう」

「わかっているが、じゃあどうしろと言うんだ。対症療法でも何もやらないよりマシだ」

「根治法を目指さなくては意味がない。でなくては僕たちが集まる意味もないんだからな」

「そうは言うが……ラグファルド、君はどう思う?」

 ビクトリア調に統一された瀟洒なリビングで、四人の青年がテーブルを囲んでいた。ラグファルド、と呼ばれた眼鏡をかけた青年が、他の三人を見渡す。

「……根本的な解決法なら、いつでも答えは決まっている。問題そのものを、取り除くことだ」

 ラグファルドの言葉に、一同がしん、と静まり返る。

「ラグファルド、それは……」

 問い詰めようとした彼の言葉は、軽いノックの音で遮られる。

「お茶をお持ちしました。……お邪魔でしょうか?」

 ティーセットを持って入ってきたのは、十三、四歳の少女だった。透き通るような白い肌に豊かな金髪、見る者を吸い込むような深い碧眼を持つ、見目麗しい少女である。

「あ、いや、そんなことはないよアリス。ありがとう」

「すまないね」

 青年たちは苦笑を浮かべ、少女を招き入れる。少女、アリスもまた、ほっとした顔を浮かべてリビングへ入ってくる。硬かった部屋の雰囲気が、一気に華やいだ。手作りのバノフィーパイを、アリスは青年たちに配って回った。

 ラグファルドは、渡されたパイをじっと見つめる。

「おいしそうだ」

「あ、ありがとうございます」

 唐突にラグファルドに褒められ、アリスは戸惑いながらも笑う。

「……例えばだが、アリス。お菓子を作っていて、完成してから間違いに気づいた時、君ならどうするかね?」

「間違い、ですか?」

「ああ。粉の分量や味付け、なんでもいい。作り終わってから、とても食べられるものではない、と思ったら、どうする?」

 アリスは考え込むが、ややあって苦笑しながら言った。

「そうですね。もったいないですけど、それは捨てて、新しく作り直すでしょうね」

 ラグファルドはじっ、とアリスを見つめた。アリスも、少し怯えながらもそれを見つめ返す。周囲の三人も、小さく固唾を飲んだ。

 ややあって、ラグファルドはにっこりと笑った。

「ああ。私もそうするだろう。でも、君に限ってはお菓子作りを失敗することなど、万に一つもないだろうがね」

 ラグファルドの軽口に、部屋の雰囲気が明るくなる。アリスも、蕾が花開くような、明るい笑みを浮かべた。

 

 それから四十年の時が経過した。

 白衣に身を包んだ初老の研究者、クライン=ラグファルドは、ビクトリア調に統一された瀟洒な部屋に佇んでいた。かつて、アリスや仲間たちと過ごした、ウォリントン郊外の邸宅を再現した私室である。

 現代科学を語る時、クライン=ラグファルドの名をはずすことはできない。ラグファルドは理化学分野のみならず、政治、軍事、思想にも精通し、畏敬をこめて「現代の賢者」と呼ばれていた。

 そして彼が創設し、所長を務める国際研究機関『ウィズダム』は、地球文明の最先端を作り出す叡智の塔であった。ウィズダムの研究は軍用、民生を問わず、幅広い分野で応用されている。彼が後の研究者に与えた影響は計り知れず、科学への多大な貢献は確実に歴史に刻まれるだろう。

 そんな彼の心が、空虚な孤独に占められていることを知る者はいない。

「……残ったのは、私だけか」

 傍らに表示させたホログラムモニターには、若かりし頃のラグファルドと、三人の男性と、美しい金髪の少女の姿が表示されている。彼の拠り所は既に失われており、今やこの部屋だけがその記憶を留めるよすがとなっている。

 ラグファルドがふと目線を移すと、大きなホログラムモニターが表示された。そこに映し出されるのは、暗い宇宙空間に浮かぶ青い地球の姿である。

「再会は、望むべくもないな……」

 彼の呟きは、虚空へひっそりと消えていく。

 不意に、ホログラムモニターが開いて、若い女性の声が響いた。

『ラグファルド所長。これでよろしいですか?』

 モニターにデータが転送されてくる。それを一瞥して、ラグファルドは微笑んだ。

「ああ、ありがとう。ミズ・エンフィールド」

『い、いえ。私の研究に興味をもっていただいて、光栄に思います』

 エンフィールドと呼ばれた女性は、僅かに声を弾ませて答えた。

「期待しているよ。これからも研究に励みたまえ」

 ゆっくりと告げ、ラグファルドは通信を切った。


 暗い倉庫に、黒い戦闘服の兵隊達が突入していく。彼らはデータリンクシステムを内蔵し、頭部全体を覆う戦闘用ヘルメットを装着していた。目に当たる部分は左右に走る一筋の赤いスリットでしかなく、無機質なロボットのように見える。彼らは音も無く、一糸乱れぬ動きで次々に突入していく。

 無機質な兵士は、薄暗い倉庫内をアサルトライフルで見渡す。コンテナが積まれた物陰に銃口を留めると、迷わず発砲。くぐもった声があがりガラクタが崩れる。身を潜めていたテロリストが倒れ、絶命していた。物陰から血が流れて広がっていく。

「おああああっっっ!」

 それが引き金となったのか、倉庫内の各所から粗暴な男たちが躍り出て、がむしゃらに発砲を始めた。倉庫の入口、無機質な兵士たちに向けて銃弾の雨が殺到するが、彼らは既に物陰に身を隠している。体を潜め、ライフルの銃口だけを僅かに露出させ、発砲。釘でも打っていくかのように、テロリストたちの頭蓋に銃弾が突き刺さっていく。

 倉庫内の銃撃戦は四十秒で終了し、後には沈黙と、無機質な兵士と、死骸だけが残った。

「……たいしたものだな」

 つぶやく声が重なった。その様子は、カメラによって撮影されたものだった。

 映像は切り替わり、市街地での戦闘を記録したものになった。

「こちらはイスニア共和国内戦での記録です。交戦対象はイスニア正規軍首都防衛隊。こちらの義体兵部隊は二個中隊です」

 無機質な兵士、『義体兵(ぎたいへい)』と、イスニア共和国首都防衛隊が市街戦を繰り広げる。義体兵が冷静沈着に、機械のように正確に、射撃、回避、接近を実行していく。対する首都防衛隊の射撃は疎らで粗雑である。首都防衛隊のばらばらな射撃音と、義体兵部隊の秩序だった厚みのある射撃音が交互に響き、奇妙なリズムを刻んでいく。やがて秩序ある射撃音が明快に響き、ぱたりと沈黙が訪れた。

 およそ三分で、イスニア正規軍首都防衛隊の全滅が告げられた。

「……このように、義体兵の有用性は一目瞭然です」

 照明が明るくなる。その部屋には、スーツ姿の男たちが列席していた。彼らの胸には略綬があり、軍人であることを雄弁に物語っている。

「なるほど……。確かにこれは凄まじい」

「仮にも一国の正規部隊が、ああも容易に全滅させられるとはな」

「……これも、ウィズダムで開発されたものかね?」

 一同の中央に着席した、細く鋭い目をした男の言葉によって、一同にかすかな緊張が走る。モニターは世界地図に変わり、男はそれを背に立ちあがった。

「……今や、地球上の治安は極めて乱れている。それらを止めるためには、力が必要だ。残念ながらな」

 男は薄い唇を、ゆっくりと開く。

「そしてその力は、選ばれし者のみが行使しなくてはならない」

 彼の言葉に応えるように、ホログラムモニターが表示される。『オペレーション・アトランティス』と題された作戦計画書は、一同にさらなる緊張を強いた。


 その会合から二十四時間後、ラグファルドは暗い眼を浮かべていた。

 彼が立っているのは真っ白な、上下左右も判然としない広大な空間だった。ラグファルドの前には大きなホログラムモニターが浮かび、中空に浮かび上がったいくつものキーボードを一心不乱に叩いている。

 その顔に浮かぶ感情は皆無。だが、彼の眼は一つのホログラムを注視していた。

 それは、人間の胎児の姿をしている。

 狂ったピアニストのように、ラグファルドは指を踊らせる。大きく手を掲げ、そして不意に動きを止めた。          

 ややあって、グラフメーターが全て青に染まった。同時にCOMPLETEの文字が点滅する。

 ラグファルドは首を軽く鳴らし、手元のキーボードに手を置く。大きく息を吐いて、彼はキーを押した。ホログラムの胎児は発光し、見る間に変化していく。やがてそれは豊かな金髪を持ち、愛らしい衣装を纏った少女の姿に成長した。

「……おはよう、アリス……」

『…………おはようございます。ラグファルド卿』

 応え、アリスは艶然と微笑んだ。

   

 国際総合科学研究所「ウィズダム」は、地球衛星軌道上に重層式孤島型宇宙都市を建造し、本部としている。いかなる国家の束縛も受けない、科学者による科学者のための宇宙研究都市、それがウィズダムである。その外観は、孤島型の名称が示す通り、宇宙に浮かぶ巨大な島のようであった。まだ民生化されていない人工重力装置によって、ウィズダムは宇宙にありながら恒常的な居住空間足り得ている。

 ウィズダムに入所することは、それ自体が科学者にとって栄誉だった。ウィズダムが創設されてから三十年、文学賞と平和賞を除くノーベル賞受賞者の七十パーセントは、ウィズダム所属の研究者が占めている。

 そして、ウィズダムに所属する科学者は主に二種類に分かれていた。一つは、基本的に地球と同じでありながら、無重力状態や宇宙空間といった、地球上では再現し切れない状態を容易く再現できるという研究環境に魅力を感じる者。もう一つは、俗世間と隔絶し、自身の研究に没頭したい、という者である。

 どちらにも共通していたのは、研究内容と結果次第で、いくらでも潤沢な予算が下りることだった。畏敬と揶揄を込めて、世界中から「科学者の王国」と称される所以である。

 ウィズダムの空―――宇宙空間を遮断する巨大な超複合外殻の下には、東西南北にメインストリートが真っ直ぐ伸びていた。ビルやグラウンド、緑地がいくつも配置され、大学のキャンパスのように整然と広がっている。その広さは直径十キロに及び、地球上の都市と遜色ない機能と威容を誇っていた。

 そんなウィズダムのメインスペースポートに、一隻の貨物宇宙船が入港していた。無重力を活かし、不釣合いなほど大きい貨物コンテナを三個、連結して牽引している。人工重力を応用した駐機装置に固定されると、貨物宇宙船はジェネレーターを停止させた。

 二人の作業員が、貨物コンテナに近づいてホログラムモニターを開いた。そこにはコンテナの積載物と、送り主と、受取主のデータコードが表示される。

「ええと、これはD-214区画へ、こっちはC-149、と……」

 作業員はデータコードに基づいて、コンテナの確認をする。コンテナから目を離し、モニターに注視した瞬間、作業員の頭に赤い花が咲いた。作業員の体は、急に力を失ってその場に倒れた。

「おーい。確認まだか?」

 のんびりと声を上げたもう一人の作業員は、頭を吹き飛ばされた遺体を見つけ息を飲んだ。その次の瞬間には、同じように後頭部に穴が開き、血を噴き出して倒れた。

 三つのコンテナがゆっくりと開いていく。そこには、赤いスリットバイザーを装着した、黒ずくめの兵士が潜んでいた。彼ら、義体兵部隊二個中隊三百体が次々と、闇が滲み出すように、無音で走り出した。

 

 ガラス張りの壁面に面したベンチに、(さや)()・F・エンフィールドは腰かけていた。大きいブラウンの瞳は美しいが、どことなく胡乱な目つきをしている。薄茶色の髪は伸びるに任せ、後ろで乱暴に括っていた。二十一歳と若年でありながら、世界屈指の電子工学者である彼女は、あらゆる先進的プロジェクトのプログラム開発を任されている。今もまた、「ヘリアンサスプロジェクト」の開発に携わり、最後の一山を越えたところだった。

 彼女のいるヘリアンサスメインコントロールセンターの一角は、壁面からウィズダムの全景が一望できる。緑と調和した都市は、人の心を落ち着かせた。生来一つのことにのめりがちな性格である彼女にとって、そこからの風景を眺めるのは数少ない気分転換であった。

 ハンドリスト型のウェアラブルコンピュータを起動させると、ホログラムモニターに彼女が試行錯誤を重ねてきた「作品」の概要が表示される。

「もう少し、なんだけどね」

 その時、右手に着けたIDリングがアラームを鳴らした。

『時間です、ミズ・エンフィールド』

 人工音声に促され、ため息をつきつつ彩花は立ち上がった。


 そこは大学の講堂のようにたくさんのシートが階段上に設けられていた。何人もの研究者、オペレーターが、それぞれの作業をこなしている。中央には巨大なホログラムモニターが浮いていて、プロジェクトの進行状況を示していた。もう一つのモニターには、真っ黒な宇宙空間と、そこを周回する人工衛星「ヘリアンサス」の威容が映し出されている。

 コントロールセンターは緊張した雰囲気に包まれていたが、同時に活気に溢れていた。誰もが明確な目的に向けてひた走る充足感の中にいる。まるで、祭りの準備のような喧騒がそこにはあった。

 その光景を眺め、彩花は嘆息する。彼女は常々、孤高の研究者を目指していたし、それが性に合っていた。後悔したことはない。だが、こうしてビッグプロジェクトの現場にいると、自分の偏屈さを直視せざるを得なかった。彼らは力を合わせて、困難を克服していく。それは、彼女にはとてもできないことだった。

 その時、コントロールセンター直結の個人用エレベーターが到着した。扉があくやいなや、雪坂美晴博士が飛び出してくる。

「ごめん寝過ごしたぁっ!」

 明るい大声がコントロールセンターに響き渡る。スタッフは作業の手を止めず、苦笑いをして、ヘリアンサスシステムの開発者でありプロジェクトリーダーの彼女を出迎えた。

 美晴は周囲に笑顔を振りまき、快活な声をかけながら歩いてくる。そして彩花がいるのに気づいて、

「彩花ちゃ~んっ!」

 と叫んで走り寄って来た。

「ちょ、なによ美晴さん?」

「若いのに何たそがれてんのよ。始まるわよー?」

 美晴は満面の笑顔を浮かべて彩花の手をとった。栗色のセミショートヘアと形のいい唇は、美しさの中に母性を感じさせる。白衣を着ていなければ保母のような雰囲気を持つ女性だった。

「わ、わかってるわよ。別にたそがれてなんかないわ」

 美晴に手を握られ、彩花は顔を赤くしている。周囲のスタッフも、孤高の科学者と名高い彩花の意外な一面を、興味深そうに眺めていた。

「ちょ、や、やめてってば。っていうか私が立ち会う必要ある?」

「ええ~? 自分が開発したものの起動、見たくないの?」

「これは美晴さんのプロジェクトでしょ。私はプログラム部分を手伝っただけじゃない」

「それもチームの仕事よ。チームの一員は一緒に見るもんよ」

 ようやく手を離し、美晴はコントロールセンターを見渡した。せわしなく、だが活気ある現場を眺め、満足そうに笑った。

「やっぱさ、科学はこうでなくっちゃね」

「はぁ?」

「人の未来を明るくするのよ。最高じゃない」

「……まぁ、そうかもね」

『アプローチ01から794コンプリート・クラスC・射軸設定終了。AL待機』

 その時、合成音声が響き渡った。宇宙空間を表示するホログラムモニターがいっぱいに拡大される。

 研究者たちはモニターに注視した。彩花の小さく頼りなげな手がふいに強ばる。

 その時、まったく誰も予期しないタイミングで、突然の轟音と震動がコントロールセンターを襲った。

「ちょ、ちょっと何? 事故?」

「わ、わかりません。今情報を……」

 とたんに混乱する現場だが、それにまったく無関心に、無機質な赤い文字が画面の片隅に浮かんだ。

 RELEASE(解放)という表示が大きく出現している。

「RILEASE? ちょっと、なによそのコマンド?」

 美晴が訝しげに呟いた。それに応える者はいない。

 瞬きほどの時間を経て、星と見まがう様な輝きが、モニターの中の宇宙空間に生じた。

 輝きは断続的に、いくつも、いくつも生まれ……眼に見えない一帯の流れの存在を顕示した。

科学者たちは、モニターを呆然と見つめていた。

「……ヘリアンサス、が……」

 誰とも知れない、か細い声を引き金に、コントロールセンターはざわめき出した。

 宇宙空間の映像が切り替わり、モニターに金髪碧眼の美しい少女が現れた。

『……皆様初めまして。私はアリス、と申します。どうぞよろしく』

 その愛らしい声に、誰もが声を失う。北欧系の肌理細やかな白い肌、瀟洒な子供服、その碧眼には可愛らしさと、深い知性が同時に宿っていた。

 突然の事態に誰もが呆然とする中、ただ一人、彩花は、

「そんな……どうして?」

と呟いた。

 皆のぽかんとした視線を受けて、アリスは肩を竦めた。

『けれど、覚える必要はないと思いますわ』

 そう言って、アリスは柔らかく微笑んだ。呆然とする研究者たちの背後で、ドアがゆっくりと開き、黒い一団が姿を現した。

               

「……ふわあぁぁぁぁ……」

 綾神弥雲は身を起こすと、自分のいる部屋を見回した。暖かい薄茶色で統一された、上等なシングルベッドルームだ。だが、ベッドはマットレスがむき出しになっている。丁寧なベッドメイクも虚しく、シーツははぎ取られていた。シーツの行く末はというと、床と弥雲の尻との間である。

 本人にそんな気は皆無だが、寝起きの虚ろな瞳は妖艶な光を宿している。少しはだけた浴衣に包まれた、非の打ちどころのない完璧な肢体が、気だるげに官能的にしなだれた。

 弥雲は寝ぼけた様子でのっそり立ちあがると、足取り重く、よろよろとバスルームに向かった。


 ある研究室の一画の、隔壁めいた重厚なドアが傾いだ音を立てて開かれる。そこから、一人の【少年】が現れた。

 適当に切られた黒髪、ぼーっとした眼、何の飾り気もない、黒のズボンとシャツ。端正といっていい顔立ちは、気弱そうな表情を浮かべていた。その反面、体はしっかりと引き締まっている。そのせいか、動きは遅いが鈍重さは感じられない。猟犬を連想させる【少年】だった。

【少年】の視線は定まらず、きょろきょろ辺りを見回している。

 その部屋には幾つかのデスクと、コンピュータが備えられていた。デスクの上には散らかった書類の束。その隣の灰皿には、煙草が堆く積まれていた。コンピュータが青白い光を放ちながら、虚しく電気を消費している。並ぶデスクの向こうに、わずかばかり開いたドアがあった。

【少年】は手で首に触れた。首筋に、硬い感触の物体があるのに気付く。感触を辿ると、それは首を一回りして繋がっていた。

 首輪、のようなものが付けられている。【少年】は暫くそれに触れていた。

待機状態のコンピュータがあげるか細い唸りの他、何の音も無い。

【少年】は手を振り払うと、ドアを目指して歩を進めた。しかし、あまりにドアに集中していたために目の前の机にぶつかった。そして、積まれていた書類が辺りに散乱した。

 落ちた書類群には、人名と、顔写真用のスペースがあった。写真の抜け落ちているものもあったが、殆どが男性である。国籍、人種はバラバラのようだ。その中にあって、異彩を放つ写真があった。

 困惑を浮かべ、【少年】はその書類に視線を落とした。写真の女性は、澄み切った眼でこちらを見ていた。

「綾神……や……く……も……?」

 彼は写真の脇にある文字を発音した。それは【少年】にとって、記憶の奥底に刻まれているかのような、懐かしく、畏れを感じさせる言葉だった。


「……どうもベッドというのは苦手です」

 ぶつくさ言いながら、弥雲はバスルームから出てきた。上質なバスタオルで全身を拭っていくと、床に水滴が落ち、すぐに吸収されていった。

「湯船は浅くて肩まで浸かれないし。宇宙では難しいのでしょうか」

大きくため息をついて、弥雲は着替えを手に取った。潤った肌に木綿の着物を着けていく。葵型の紋をちりばめて、二藍に染められた鮮やかな着物が、美しい肢体を覆っていく。衿をぴんと合わせ、檜皮色の帯を締め、黄金色の帯締をきゅっと結んだ。

「あ、そうそう。これを着けるようにと言われてましたね」

 調度品の上に置いてあった、ブレスレット型のIDリングを手に取ろうとしたその時、木が撓み、割れ行く無粋な音が響いた。

 弥雲が振り向いた先に、二つの影が現れた。

 シルエットは確かに人である。だが、正対した弥雲の眼には、彼らはあまりにも無機質に映った。眼のスリット型バイザーが赤く光り、より機械めいた印象を抱かせた。

 彼ら―――義体兵は、弥雲に機械的に銃口を突き付けた。

 弥雲は、自分を狙う二つの銃口をじっ、と見つめた。


 無機質な廊下はしんとして、気配一つない。

【少年】は辺りを見回すと、ほとんど無音で廊下を進んでいく。幾つかの部屋を通り過ぎ、階段を下りさらに廊下を進むが、人影はない。

 ふと見ると、光が射し込んでいた。少しずつ、彼の歩調が早くなっていく。やがてそれは駆け足になった。

 外まで後一歩、床を蹴って走り、不意に立ち止まる。自動ドアと思しきガラスドアは、一向に反応を示さない。

「……なんだ、これ?」

 手をかざしてみたり、ドアの前をうろうろするが、反応はない。【少年】はドアに手をかけ、力を込めた。ドアは横にスライドし、意外にあっさり開く。開いたその先には、アスファルトの街路だった。

 彼は首をひねり、後ろを振り返った。

「……故障なら故障って、書いとけよな」

 ぼそっともらすと、彼は当てもなく歩き出した。

「うーん……どこだここ?」

 言いながら目で天を仰いだ。靄がかかり、ぼやけている。

「……ん……」

 僅かに靄の晴れた所があった。そこをじっと見つめあげる。そこには明らかに、人工物と思われるものがあった。天井、である。それは広い空を覆っていた。

「あぁ……“重層式孤島型居住空間”か」

【少年】はぼそりと呟いた。

「けど……いったいなんで俺はこんなトコにいるんだ?」

 彼はきょろきょろと辺りを見回した。前を見てみる。誰もいない。後ろを見てみる。誰もいない。その一帯には彼以外誰もおらず、不気味なくらいに静かだった。 

「……独り言、し放題だな。ってゆーか、何で誰もいないんだ? おーい、誰かー」

 彼の声はわずかな残響を残し、大気へ消えていく。

「おっかしいなー……」

 頭をひねり、ため息を吐き終わろうかというその時、街路の砂利を噛むわずかな音がした。

 彼は眼を輝かせて思わず声をあげる。

「あのっ! なんか俺、……て」

 顔を上げた先に立つ音の主たちは、見る者にひどく無機質な印象を与えた。

黒い戦闘服に、ヘッドセット一体型の戦闘用ヘルメット。目には赤い一筋のスリットが走っている。首からつま先まで黒で統一された、ライフルを携行する黒ずくめの二人組―――義体兵だった。

 義体兵が掲げたアサルトライフルの銃口は、【少年】をぴたりと照準する。

 距離はおよそ十メートル。銃弾によって、【少年】は一瞬のうちに肉塊に変わるだろう距離だ。

「……えと……その……」

【少年】の言葉はそこで途切れ、代わりに銃口が夥しい数の弾を吐き出した。

「ぎゃあああぁぁぁぁ!」

 絶叫しながら、【少年】は「前」へ飛んだ。

 一回転しつつ、街路のベンチの陰へ転がり込む。ベンチに弾痕が穿たれると同時、深く体を沈み込ませて「弾をかいくぐるように」【少年】は疾駆する。

 一拍の間に、間合いはわずかニメートル足らずに縮んだ。そこから一息に飛び込み、義体兵の足下へ滑り込む。

 義体兵は下へ銃口を向けた。【少年】は仰向けざま蹴りを放つ。銃口はあっけなく天を仰ぎ、周りのビルの壁面を破壊した。

 空いた懐に、【少年】は間髪入れず手を伸ばす。義体兵の胸元に装備されているコンバットナイフを掴んだ。抜きざま何のためらいもなく、義体兵の首へたたき込む。

「ひいいぃぃぃぃぃ!」

 義体兵は刺さったナイフごと、【少年】の手を掴んだ。【少年】は情けない声と裏腹に、ナイフをねじ込む。神経繊維と頸動脈が絡まり引きちぎられ、体内で破砕する。【少年】は無造作にナイフを引き抜いた。血が弧を描いて降り注ぐ。

 引き抜いた動きから流れるように、もう一体の義体兵へナイフを投げる。背中に首のとれかけた義体兵がのしかかった。その手をとり、照準もつけずにトリガーをひき、斜めに銃口を滑らせる。

 ナイフをかわして体勢を崩した義体兵は、そのまま弾丸の嵐によって弾ける。

 骨の砕ける鈍い音。胴体が倒れるのに一拍遅れて、吹き飛んだ腕が落ちた。

 銃声にこだました空間が、何事も無かったかのように音を消した。

「……あ、あれ……?」

【少年】は自分の掌を見つめ、足下に転がる血塗れの二つの体を見た。その血は暖かく、辺りに臭気をまき散らしていた。

「……なんだったんだ、こいつら?」

【少年】は首に手をやる。首輪だ。【少年】は触れる手に力を込めると、顔をしかめた。

 頭を一つ振って、彼は顔をあげた。そこにはちょうど、公園らしき広場がある。広い階段が据えられ、上へと繋がっていた。

「……ん?」

 上の広場から落ちてきた何かが、小さな金属音をたてた。彼はそれの落ちた所に駆け寄ると、一瞥して呟く。

「……薬夾」

 眉根を寄せて、階段の上を見る。特に変わったものは見えない。

 唾をひとつ飲み込むと、一歩一歩、階段を上り始めた。

 突然【少年】は体を大きく仰け反らせた。直後、彼がいた場所を、黒い大きな何かが吹っ飛んでいった。

 黒いものは階段を転がり、跳ねながら落ちていった。それは下の階まで落ち、重い音と共に倒れた。それは、人型をしていた。

「……さっきの、黒ずくめ?」

 注意深く見つめるが、落ちた義体兵は動かない。

【少年】は呆けていたが、顔をきっ、と引き締めると、一息に階段を駆け上る。

 そこに広がる光景は、彼の足を凍りつかせた。

 噴水とベンチが配され、本来ならば憩いの場であろう空間。そこに、十体近い義体兵が、吹き飛ばされたような形で倒れていた。

 そして、倒れた義体兵たちの中心に立つ人影があった。

人影は長い黒髪をゆらめかせ、【少年】の方へ振り向いた。視線が矢の様に、真っ直ぐ【少年】を貫く。

【少年】は、呼吸すら忘れた。

 二藍の着物。透き通るような肌。漆黒の長い髪。強く大きな瞳が放つ、涼しい輝き。

 それは、職人が魂と引き替えに作り上げた、至高の彫刻の如き乙女―――綾神弥雲、であった。その瞳はいかなるものも捉えて離さない。空のように涼やかで、海のように深い眼が、【少年】をじっ、と見つめていた。

「……あ……」

 空気を吸い込むばかりで、声は出ない。【少年】は混乱しきっていた。

 微風が吹いた。それは【少年】に、鉄に似た匂い―――血の匂いを認識させた。

 その時、【少年】の頭の中で撃鉄を起こす音が響いた。鼓動が一つ、大きく鳴った。

 無意識に拳を硬く握りしめている。拳の血管が浮き立ち、ぴりぴりと肌が粟立つ。

 何故かは分からない。だが【少年】の意志と裏腹に、鼓動が高鳴り熱い呼気が漏れ出ていく。心が強く、「殺せ」と命じている。

「落ち着きなさい」

「…………!」

 虹彩が絞り込まれ、【少年】の視界に幾振りもの日本刀が現れた。それらは悉く、彼の喉元に刃を突きつけている。少しでも動けば首が落ちる。だが、その刃の輝きは凍れる美しさを以て、彼の視線を惹きつけてやまなかった。

「……ずいぶんと殺気立ってますね。少し落ち着いて下さい」

 美しい声と共に、幻影は消えた。【少年】は膝を着き大きく息を吐いた。

 弥雲の殺気は、【少年】に刃を幻視させるほどの密度を持っていた。【少年】の、凶暴で不安定な殺意は、彼女の研ぎ澄まされた殺気によってかき消されている。

【少年】は眼を皿のようにして弥雲を見た。その視界のなか、弥雲はすっと、体をかがめる。

 一瞬の間。彼は硬直したまま、弥雲を見失った。

 ふわっと風がなびく。

「すいませんけど、どうなってるんですか?」

「えうぁっ?!」

 弥雲は、【少年】の目前に現れた。

 距離を無視したような、一瞬の移動。

 弥雲の視線は【少年】のそれより少し低く、下から見上げるように覗き込んでいる。

「え、あうああああう、あの……」。

 間近に迫った弥雲から、ふわりといい香りが匂いたつ。それがまた、【少年】の思考を鈍らせた。

 弥雲は訝しげに首を傾げている。

「あああ、あの……」

 ようやく【少年】が声らしい声を出すと、弥雲はわずかに身を引いた。

「……大丈夫ですか?」

「あ……だ、大丈夫、です」

 突然、弥雲の表情は、冷たい程の静を湛えるものに変わった。

 瞬間、【少年】は身を大きく開き、視線を百八十度変えた。

【少年】の視線の先には、ナイフを携えた義体兵が迫っていた。

 その腹に、【少年】はボディブローをたたき込む。

「え?」

「あれ?」

 同時に、義体兵の顎には白い掌があてられていた。

 弥雲の掌底と【少年】の拳、二点同時に強大な力をぶち込まれた義体兵は、弾かれたように吹き飛んだ。

【少年】はそれを、どこか遠くの出来事のように感じた。

「「あの」」

 二人の声がまた重なった。

「あ……大丈夫ですか?」

「あ、あの……あなたは?」

【少年】は尋ね、直後、はっと気付いて口を開く。

「君は、確か……綾神、弥雲?」

「……私を知っているんですか?」

 弥雲は怪訝な顔をして【少年】を見る。

「不思議ですね、私はあなたを知りませんが?」

「えと……」

「あなたも名乗るのが礼儀ではありませんか? ……それとも、もしかしてすとーかーという輩なのですか?」

「なっ! そ、そんなんじゃないです! 俺の名前は…………」

「あ」の形で、口が止まった。

 あぐあぐと口を動かすが、声が出ない。その先に、繋がるべき言葉が出てこなかった。必死に頭を振るが、それでもわからない。

「どうしました?」

「あ、えと、ちょっと……ど、ど忘れしちゃって……」

「……普通、名前は忘れませんよ」

 それきり押し黙る。【少年】は所在なく、眼を泳がせた。

 弥雲はじっと【少年】を見つめた。対する【少年】は、どぎまぎし、まともに目を合わせられず、ひたすらに目を泳がせる。そして唐突に弥雲は【少年】の頭を撫でた。

「わ! な、なんですか?!」

【少年】はよろけるようにして一歩下がった。

「あ……ごめんなさい」

 弥雲は手を引っ込めて肩を竦めた。自分でもよくわからない、という風に目を丸くしている。ややあって、弥雲は口を開いた。

「私は綾神弥雲。初めまして、でいいんですか?」

 そう言って、彼女は不思議そうに首を傾げた。


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