序幕・陰
脳の奥深く、灯る一点の光。
光は徐々に強く鮮やかに、広大な森と空を描き出した。
長い歳月を刻んだ悠久の大地。全てを内包する無辺の空。
あらゆる乱れを抱えながらも、一つの圧倒的な存在として広がる「世界」。
そんな光景に、白い、繊細な手が現れる。手はゆるゆると舞うように揺れ、やがて世界を包んでいく。その掌に、世界の理が包まれていく。森羅万象の全てが弦となって絡み合い、影響し合い、存在し合っている。
一切は空なる相に過ぎず、全て無故に全て有。
圧倒的な深淵と虚無。全てを内包した空虚。光と闇、聖と俗、天と地、生と死、あらゆる矛盾を矛盾のまま受け入れた理が、矮小な脳に注ぎこまれていく。脳神経が異常なまでに活性化し、超高密度の情報が焼き切れんばかりに錯綜し、物理的には存在しないはずの領域で「それ」は炸裂した。
(……誰……)
それが、「彼」の産声だった。
「誰か」という、「自分とは別の、同種の何か」を意識したこと。それが、砂漠で一滴の水を見つけるに等しい奇蹟だという事を、まだ、誰も知らない。
「彼」は細く閉じた目を、うっすらと開いた。
呼吸、心拍、脳波全て正常。平静そのものを保った眼が捉えたのは、非常灯のほの白い光。現実に目の前に広がるのは、薄暗い部屋でしかなかった。
耳は聞こえている。空調の低い機械音がする。
風も感じられる。わずかだが、湿った空気だ。
活動を、呼吸と代謝だけに限定する。
『……許容オーバー、だと?』
暗闇の向こうで声がした。中年の男の声だ。
『は、はい。そのようです。……え? サイドストレージもオーバー、ではなく……破損していますっ!」
また別の声がする。若い男のようだ。
『ダメです。起動領域に原因不明のノイズが大量発生。モニターできません』
『なんだと? それじゃ通常行動にも支障が出るぞ。異常な情報量だ』
『あり得ない……。何なんですかコレ。この提供者、どういう脳構造してるんですかっ!』
『……わからん』
『ああくそ……。ダメです。RAP消失しました』
『廃棄するしかないな、この個体は……』
「彼」の耳は、それらの会話を捉えていたが、「彼」自身は周囲の状況に何の興味も抱いていなかった。観察や把握は、強制された条件反射に過ぎない。
不意にそれが途切れる。脳が、休養を激しく要求してきた。
深いぬるま湯の底へ落ちていくような感覚が、彼の体を抜けていく。