序幕・陽
冬の大気が凛と啼く。
空は冷たく、青く澄み渡る。
その下に広がる広大な森は、『鳳仙郷』と呼ばれていた。古くは禁足地とされ、現代においても余人を容易に寄せ付けない原始の森である。その最深部には、『鳳仙院』と号された古刹があった。一説には、縄文時代から前身となる祠があったと言われている。森そのものが信仰対象であり、鳳仙院の私有地である。
「鳳仙郷には綾神が棲む」
民話には古くからそう伝えられている。綾神とは、山の神とも、戦の神とも呼ばれているが、真実は遥として知れない。ただ、数十年前にある大学教授が特別な許可を得て鳳仙院を調査した折、興味深い石碑を発見している。
曰く―――倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子爲王 名曰卑彌呼 以事鬼舞 亂平定
曰く―――歿後有亂 相争次王 名曰壱与 以事鬼舞 名曰綾神舞 亂平定
曰く―――治承四年十月 源平争乱ニ参ズル 名ヲ曰ク静 綾神ノ舞以テ平氏平ラゲル
曰く―――慶長五年九月 関ヶ原にて戰有り 綾神は出雲阿国と名乗り平定せん
石碑には他にも多くの文言が刻まれていたが、中でもこの四節が某教授の目を引いたという。
卑弥呼、壱与、静御前、出雲阿国……日本史に名を残す、いずれも巫女、踊り女といった特性を具える女性たちの名が、そこには刻まれていた。それが何を意味するか、真実は誰も知り得ない。ただ、そういった石碑が存在する、というだけである。
鳳仙郷の奥深く、鳳仙院からほど近い森に、櫓舞台が組まれていた。その舞台で今、少女が舞っている。
眼に鮮やかな浅黄の着物。飾り紐でまとめ上げた深黒の髪。面に宿るのは、凍れる花のような美貌。
その舞いは優麗静謐として、無音の空間に緩やかな旋律を描いていく。
風が通り過ぎ、木々の枝葉を揺らした。
艶めかしい睫毛が揺れ、少女は薄く瞼を開ける。
その瞬間、風が緊と張りつめ、突然に止んだ。
少女はゆっくりと手をかざす。氷像の如く、そして柳の如く。その腕は先ほどよりも、速く振るわれる。そして、風を生んだ。
華麗な舞いは、段々と底知れぬ気配を放ち始める。少女の振る手刀が風を生み、生まれた風は力を帯び、鋭く、重く、強くなり、力の塊へと純化していく。大気が緊張に引き絞られていく。
鳥が羽ばたくような流麗な舞いが、一陣の強烈な風を生み、辺りの森を大きく震わせた。
少女の名は、鳳仙院当代、綾神弥雲。彼女の舞は、底知れぬ海の如く、果てのない夜空の如く、深淵を覗き込む畏れを、見る者に抱かせた。
「…………」
弥雲は身を止めて眼を閉じた。森の葉がざわめき、風が止む。
「……ぐっはあぁぁぁぁぁ……、あぁぁぁ~あぁぁ……」
弥雲はぐったりと肩を落とした。
「お見事」
「はいぃ?」
突然の讃辞に、少女はどよんとした眼を向ける。舞台の下にスーツ姿の二人組が立っていた。
「初めまして。綾神弥雲さん、ですね?」
「……はぁ」
「『ウィズダム』特命調査室の者です」
「…………はぁ」
弥雲は数秒、まじまじと彼らを見おろした。男たちも、だんだん不安そうになってくる。
「あの……ご連絡差し上げたかと思いますが……」
弥雲は、きっかり三拍ほど黙考すると、大きく手を打った。
「あぁ、この間お手紙を下さった……」
二人組はようやく胸をなでおろした。
「はは……ではその、よろしいですか?」
笑いを引きつらせつつ、男たちはタブレット型端末を取り出した。
「あ、しばし待って下さい」
弥雲は二人に背を向けた。おもむろに飾り紐をはずすと、長い黒髪が風に遊ばれるようになびいた。風に煽られ、弥雲は櫓舞台から鳳仙郷を一望する。そこには純粋な青空と白墨の雲、深く豊かな緑の森が、限りなく広がっていた。だが弥雲の眼には、その風景に重なって無数の絡まりあう弦、が映っている。
鳳仙院に曰く、「気即弦」とある。
己の内の、また、天の、地の、あらゆる自然の力の流れ―――「気」を、「弦」として見つめる者。
それが、綾神である。