転校生の変化していく立場(3)
「…………で、だ」
ダンッ! と入ってきた時と同じぐらい力強く入口を閉め、教室からいなくなった灯の方へと視線を向けながら、珍しく大声を上げてからずっと不機嫌さを露にしているゆかりに、葉柄は改めて疑問を口にした。
「なんでさっきからそんなに不機嫌なんだ? 代わってやろうかって言ったのはあの正義振り回し女なりの優しさだろ? お前を気遣っての。なにもそこまで怒るほどのことじゃねぇと思うんだけど」
「……あたしにだって、分かんないの~」
拗ねた子供みたいに、少し頬を膨らませる。
「ただ~、なんかイヤだったの。葉柄に勉強を教える、って言われたのが~」
「ふ~ん……もしかして、この前話してたアレか? あの、俺が誰かと話してたらすごいイヤな気分になるって言う」
「そう~……なんでか分かんないけど~、やっぱりイヤなんだ~……なんでかさ~」
実は似たようなことが、前にも一度だけあった。
葉柄たち二人がクラスから浮くほんの数日前。
葉柄が、教室でクラスメイトの女子に、ゆかりとの関係を聞かれた日の放課後。
その時も、葉柄が女子と話しているのを見ていると胸がモヤモヤしてイライラしたと、今のように彼に話していた。
その時彼は図々しくも、恋愛感情を抱いてくれてるのかもと思い至り、さり気なさを極力意識しつつもありったけの勇気を振り絞って「それってもしかして好きってことじゃねぇの?」と聞いてみれば、恋愛感情はないと思うとあっさりと答えられた。
だから彼も、本人がそう言うのならそうなのだろう、と恥ずかしさからそう納得するようにした。
以来、このことは考えないようにしてきた。
なんせ葉柄自身も、誰かを好きになったことが無い。
こうして一緒にいるゆかりのことが好きなのかと問われれば、やはり彼女と同じように恋愛感情は無いと思うと答えるだろう。
だからそれ以上、強気に出るなんてこと、出来るはずもない。
「……ま、そんなにイヤなら話しかけなきゃ良いだけだろ?」
「うん~……そうなんだけど~……でも葉柄、たぶん木林さんに何回も話しかけられると思うし~……」
「ま、俺が話しかけられる分には我慢してもらうしかねぇな」
「む~……」
ため息混じりに面倒臭いことを受け入れ始めている葉柄を視線でチクチクとつつきながら、ゆかりは唇を尖らして、小さく呟いた。
「……あたしあの子のこと、なんとなくキライだな~……」
◇ ◇ ◇
学校行事単位での大掃除といえば、いつもは使われていない、もしくは掃除されない場所もするものだろうと灯は思っていた。
それは翌日の六時限目、わざわざ時間が割かれた掃除の日の出来事。大掃除と銘打たれているにも関わらず、あくまでもいつも掃除している場所をさらに重点的に掃除するだけと分かった時の出来事だ。
もっとも、それに不平不満はない。それがこの学校のルールだと言うのなら受け入れるしかない。どうしても気になるんだったら私が個人的に掃除したら良いだけの話だ。
そう考える事でとりあえずの収まりはついた。
でもさすがに、これは違うだろうと思った。
目の前で繰り広げられている惨状たるや。
クラスメイトの半分以上――いや、四分の三以上が窓辺や壁に背中を預け雑談し、残りの四分の一もてきとうに流すような感じなのが丸分かりな腑抜けた表情で掃除している。
せっかく教室の後ろに机を下げたのに意味を成していないほど隙間を開けて床を掃く箒、水で濡れた雑巾で拭いてその後に空拭きがされていない窓、黒板も汚いままの黒板消しで拭いただけ、チョーク置き場も粉だらけ。
なに、コレ。
呆れて物も言えない。
小学生のように掃除道具で遊んでないだけマシと思えってこと? こんなのが本当に大掃除? さすがに不真面目過ぎる。
これが中学生のする掃除?
前の学校が私立だったから、というのを差っ引いてもこの汚さ、掃除のしてなさはおかしい。
はっきり言って異常としか表現できない。
机・椅子・教壇から教卓と、拭ける場所全てを拭いていた前の学校は確かにやりすぎだったのかもしれないけれど、これはやらなすぎだ。
あまりにも我慢できず、灯は何度も大声で注意した。
何度も何度も。
それなのに今回は、全く静かにならなかった。
その理由が、彼女には分からなかった。
正しいことを言っているはずなのに。真面目に普通に掃除するだけで良いからと、譲渡に譲渡を重ねて最低ラインだけを求めているはずなのに。どうしてその程度すらしてくれないんだ。
聞こえていないはずもない。ちゃんと一度は反応してくれた。それなのに無視して、聞こえていない事にして、雑談に戻ってしまう。
どうして、どうして、どうして……。
頭の中ではそんな言葉が、何度も何度も反芻している。
「おい沼上真面目にやれよっ!」
幼稚園のように騒がしい中、一際灯の耳についた声。
いつも騒がしいグループの一人の男子が、独り黙々と掃き掃除をしていた男子を呼びつけていた。
いや、呼びつける、というか、怒鳴りつける、の方が正しいような口調と声量だった。
彼女もそれが分かったからなのか、疑問が解決していないながらも、自然とそちらへと視線が向く。
後ろへと移動させた机の一つに座り、集まっている男子二人と女子三人のグループ。
日頃から何かと騒がしい人たちの集まりが、そこにいた。
そんな彼等に呼ばれた男子――沼上信は、オドオドとしながら、彼等に向けてなんとかといった感じで言葉を返す。
「ぼ、僕は真面目にやってる、し……」
「あぁ!? 聞こえねぇよっ!! いいからこっち来い!」
「えっ? で、でも……」
「いいからっ!」
騒々しい中でも一本矢を通すような一喝。
真正面から受けてしまったせいで沼上は、それだけで身体を萎縮させてしまう。
まるで縄で縛られ引っ張られているかのように、ビクビクと彼等の元へと近付いていくだけ。
無抵抗に。
「ちょっと可哀想っしょ」「残酷~」「酷過ぎだって~」「松来さすがにやりすぎじゃね?」
グループ内の女子三人ともう一人の男子が、沼上を気遣ったそんな言葉を、沼上を怒鳴り呼び寄せた松来英一にかける。
もっとも、その声に本気で止めようとする意思は見られない。もちろん表情からも見られない。
ニヤついている。
言葉で注意するだけで、松来がしようとしていることに乗っかろうとしているのが丸分かりだ。
「やりすぎじゃねぇって。なぁ?」
重い足を引きずりやってきた沼上の肩に腕を乗せる。
「オレはコイツとダチだしよ。別に普通だって。……おい、お前もなんか言えよ」
「え、えと……いつ、松来くんと、友達に……」
「あぁっ!? 何言ってんのか聞こえませ~ん!」
そこで、下品な笑い声が上がる。
「ほら、もっとその贅肉燃やすためにもよ、キリキリ働けっての」
「う、うん……」
「こことか、オレの足元とか汚れてんだろ? ちゃんと掃けよ」
「えっ?」
「なに? なんか文句あんの? まさかオレに掃除しろって言うんじゃねぇだろうなぁ?」
「べ、別にそんなつもりは……」
「だよなぁ。オレはお前のダイエットのためにやってやってんだからよ。それに……最近構ってやれてなかったしなぁ……」
と、チラりと灯を見やる松来。
「そろそろイラついてきてたしよ……また遊ばせてくれよ、なぁ……」
「おい松来それは……」
グループの中の男子までも、遠くでなんとなく見ている彼女を一瞬だけ見た。
「大丈夫だっての。っつかお前らビビりすぎ。イザとなったら殺せば済む話なんだよ。それなのになんでイライラする注意を大人しく聞かなきゃならねぇんだか」
「でもそれがダメな感じがするっていうか……」
「それがビビりなんだよお前はよぉ!」
「っ!」
「……人一人殺すだけで、ビビってんじゃねぇよ。五月蝿くされても一刺しすりゃ仕舞いだ。所詮女一人なんだからよ」
睨みつけるような一瞥を男子にしたあと、再び沼上へとニヤついた笑みを向ける。
「おいおいまだ汚れてんぞ」
「えっ、どこが――」
言い切るよりも早く、沼上が持っていた箒を蹴り飛ばす。
「――えっ」
灯の頭の中で跳ね返り続けていた言葉が、一時的に止まるほどに衝撃的な映像だった。
「ほら、ここがだよ!」
座っていた机から降り、沼上の襟首を掴んで地面に叩き付ける。
「っ!」
その行いに灯は激しく動揺するも、すぐに床と顔がギリギリ接していないのに気付く。
「ほぉら、ちゃんと見ろよ。汚れてるだろ? 分かるか? 汚いだろ? お前と同じぐらい醜いだろ? これはキレイにしないとなぁ。なんせ今日は大掃除だからなぁ。ほら、この前は“自主的に”床を拭き掃除してたけど、今日もそれするか? 汚れが取れてるかどうかすぐに見えるように、前と一緒でデコで雑巾掛けしてもらっても良いんだぜ、おい」
「っ……! がっ、あぁ……ちょっ……!」
肥満体型の沼上を押さえつけるほどの力。
それが首元に集中し、さらには体重までかけられている今、彼はただ呼吸をするのすら困難だろう。
「あぁん? なんだおい。一丁前に抵抗してんのか? お?」
両手を地面に着け、土下座でもしているかのような格好で、必死に力を込めて頭を上げようとしている。
立てた腕がプルプルと震えている。
その腕が折れた瞬間酸素の供給が止まるような気がしている今、彼は間違いなく、文字通り死に物狂いだろう。
けれども、そんな決死の力を物ともせず、松来は沼上を抑え続ける。
「く、苦し……っ!」
「苦しいか? そうかそうか。でもこれはお前が気持ち悪いから悪いんだぞ? もっとオレ達に不快な思いをさせないようにして隅っこでひっそりとしてりゃこんなことにはならなかったんだよ。いや、ひっそりとしてたのかもしれねぇけどさ。なんせお前、デブだからさ。もうそれだけでオレにとっちゃ気持ち悪いわけ。分かる? そうやって毎日毎日イジメられてんの。去年からずっとさ。なんで学校来てんの? いい加減来んなよ。引き篭もれよ。そしたらオレもお前見て気持ち悪い思いせずに済むしさ。それ分かってんのに来るってことは、そうやって来る事でオレに嫌がらせしてんだろ? だったらそれに立ち向かわねぇといけねぇだろ? オレが不快に感じないために、オレはお前を攻撃してんの。何回も言ってるよね? 気持ち悪くなくなってから来いってことをさ」
理不尽な言葉が灯の耳にまで届く。
それを見て、グループの女三人はニヤついているだけだし、男もまた笑いを堪えているだけ。
他のクラスメイトは、またか、といった表情で見ているだけ――
「――……っ! そこまでにしなさいっ!」
純粋な怒りに、ただ見ているだけの周りへの苛立ちすらも乗せた怒号。
先程までしていた注意とは質の違うそれは、耳触りの悪いクラスメイトの雑声すらも止めた。
そうして静まり返る中、灯は苛立ちを露にした足取りで、そのグループへと歩み寄った。