変わり始める「転校生」(1)
一時限目開始のチャイムが鳴り響く。
「……初めて、授業サボっちゃったな……」
涙に濡れたままの声で、どこか悔しそうな、ともすれば吹っ切れたような声が葉柄の耳に届く。
場所は一番上の階。屋上へと続く扉前。
最も人気が少なく、また教師も見回りに来ない暗がりかかる場所。
ここでなら小声で会話するぐらいなら見つかることも咎められることもないだろう。
尤も、サボるのが普通な学校である以上、見回り自体あまりされていないのだけれど。
「んなことより、今の問題をどうするかだろ」
いつも葉柄の頭の中に蔓延している眠気がない。
手のひらに出来た傷の痛みだけではこうはいかない。
もしかしたら、死ぬための足掛かりを手にしたおかげで、一種の興奮状態になっているのかもしれない。
「今の問題……水月くんは、本当に私を助けてくれるの?」
「ああ」
「その……でも、どうして? だって水月くんは……」
「ま、交換条件で頼みたいことがあるんだよ」
それよりも、とこの場にいるもう一人に顔を向ける。
「ゆかり、お前もそれで良いか?」
「あたしは葉柄のやることを手伝うだけだよ~」
灯の手を引いて教室から出て行くとき、ちゃっかり後からゆかりがついてきていたのを、彼は見逃していなかった。
灯の助け方をストーカー問題から、今のあの教室での問題へと変えたことについて全く説明しなかったが……それでも、葉柄の考えを悟ってか、反対するどころか協力してくれるようだった。
「というか、お前も教室にいたんだな」
「あたしはいつも葉柄より早くに学校来てるからね~。それに今日は~、最初に持ちかけようとしていたことについて何か分かるかもって、いつもよりさらに早く来てたし~」
感じる視線が何かを調べてくれようとしてたのだろう。
そのことに対して申し訳ない気持ちでいると、
「気にしないで~。あたしが勝手にしたことだし~」
先を読んだのか、あっさりと、それだけで済ませ、さっさと葉柄が行おうとしていることへと話題を進める。
「そんなことよりも~、さっきの教室のアレ、最初から説明した方がいい~?」
「あ、そうか。早くから来てたってことは、詳細を知ってるってことか……ちなみに、最初ってのはどの辺だ?」
「木林さんが教室に入って~、席へと向かう途中で松来くんに呼び止められて~、そっから口論になって~、ってところかな~」
「なんだ。それならいいや。俺もその辺から見てたし」
とっくに口論が始まっていたが、その前のやり取りなんて聞いても仕方ないだけ。
特別聞く必要もないだろうと判断し、すぐさま連れてきた灯へと視線を戻した。
「で、だ。転校生、どうする? 俺に、助けて欲しいか?」
「…………」
しばらく、彼を見て、彼がナイフを掴んだ手を――血は止まりながらも痛々しいソレを見て、考えた後、
「……私に、何をさせるつもり?」
純粋な疑問を投げかける。
しかし、それだけでも十分な進歩だろう。
いや、後退、というべきなのかもしれない。
それだけ弱っているということなのだから。
前までの彼女なら、そんな質問すらしてこなかっただろう。
交換条件でしか助けようとしない葉柄を非難し、自分で何とかすると息巻いて、途中からでも授業を受けろと葉柄たちを無理矢理にでも教室へと戻していたはずだ。
でも、それをしない。
いや、出来ない。
それほどまでに今の灯は、弱っている。
葉柄の手の怪我すら、見ただけで何も言えない程に。
「なに、簡単なことだ」
そう、前置きをして――
「俺を、殺して欲しい」
――そう、キッパリと言った。
「…………え?」
「お前、『前人間』なんだろ?」
「っ」
表情が固まる。
永遠に隠し通すつもりだった秘密がバレてしまったような顔。
言ってから葉柄は、そういえば『前人間』が『前人間』だとバレるのはあまり良くないことだったな、と思い出す。
社会人になってからはなんとなくでバレてしまうが、それでも公言はしないとゆかりとの復習で習ったな、と。
曰く、殺されれば死ぬ、というのは、それだけで弱点だから。
脅されればそれだけで言うことを聞かないといけなくなる。
まして学生なんて若い時分、本能が訴える警戒心を好奇心が勝って殺してしまう事件も多発していると言う。
今回だって葉柄が止めに入らなければ、怒りに任せて殺されてしまっていただろう。
それほどまでの明確な弱点。
それなら確かにバレるのはダメだな、と思った記憶が彼にはあった。
それなのに、忘れて言ってしまった。
早速大きなミスをしたかもしれないと若干後悔。
こっそりとゆかりの表情を確認してみれば、「あっ、こいつやらかしたな」って目をしていた。
ホントに言ってはいけない言葉だったようだ。
なんとか挽回しなければ……。
「いや、それを使って脅そうとか、そういうつもりはない」
「……私、『前人間』じゃないし。そんなデタラメ言うんだったら、助けなんていらない」
助からない自分と天秤にかけてまで、言葉にした葉柄と距離を置こうとしてくる。
こんなものは白状したも当然だが……いや、ココを責めても良い結果にはならない。
明らかに動揺しているのだろうが、気付いていないテイで話を続ける。
「デタラメじゃない。俺とゆかりは、互いに何度も殺し合いをしている。だからなんとなく分かんだよ。他の奴等に対しては平気で殺せそうなのに、お前に対しては殺しちゃいけないって、本能レベルで訴えてきてるってな。他のやつらはなんとなくでしか気付いてねぇが、俺とゆかりはこの本能が殺人を抑え込む良心みたいなもんだって気付いてる」
「…………」
「そう不審がるな。俺もゆかりももちろん、口外するつもりはねぇ。むしろお前が死なれたら色々と困るし、少なくとも今回の協力関係が結べなくても、目の届く範囲なら守ってやるつもりだ。さっきみたいにな」
「……私が危ない目に遭うことが、あなたにとってどう困るの?」
「俺が知る唯一の『前人間』である以上、俺が唯一死ねる可能性があるのはお前だからだ」
「……………………」
探るような瞳。
精神的に弱っているのもあるおかげか、葉柄の話をしっかりと聞いている。
さっき刺そうとしたのを止めたのも大きいのだろう。
「……訊いていい?」
「どうぞ」
「どうして、そこまで死のうとするの?」
「それは……」
転校生が助けてもらう立場だと強調して、言わずに取り引きに応じてもらうつもりだった。
が……これは、少しは言わないと取り引きに応じてくれそうにない。
それを悟り、仕方が無いなと諦め、最低限の部分だけに留めるかと、話し始める。
「俺が、姉貴に迷惑をかけてるからだよ」
「迷惑……?」
「ああ」
「……なに? 喧嘩したまま、とか……?」
「そういうのじゃねぇよ。むしろ一度大きな喧嘩をしてからはもう久しくしてねぇな」
泣き腫らしたままの顔で、どこか心配そうな目で彼を見る。
正直、そんな余裕はないはずだ。
それでも心配してしまうのは、やはり彼女の性分なのだろう。
「迷惑ってのは、アレだ。姉貴の夢を、俺が奪っちまったからなんだよ」
葉柄が「お姉ちゃん」と呼んで慕う彼女は、絵が上手かった。
特に風景画は惹き込まれる何かを放っており、五年以上前に一度見た、噴水が中央に据えられた絵は、今でも葉柄の心の中に残っている。
目を閉じただけで思い出せてしまうほど、力強く、それでいて繊細な、大きな存在感を放つ絵。
どう言葉で表しても物足りないような、文字では現せない、正に絵でしか現せない、写真とは違う、また別の世界が、その一枚の紙に凝縮されていた。
お姉ちゃんのそんな絵が、彼は大好きだった。
だから、絵のための美術大学へと行くようになったとき、彼は大いに喜んだ。
あの絵が世間に認められると。
あの絵が、さらに素晴らしいものになるんだと。
でも、今そのお姉ちゃんは、大学には行っていない。
働いている。
葉柄のために。
葉柄を、生活させるために。
「奪った……? なにを?」
彼女一人なら、きっと大学に行きながらも生活できたに違いない。
でも、彼がいるから……いてしまうから、生活のために辞めて、働きだしてしまった。
両親が、行方不明になって……旅行に行くための旅客機が、海に墜落して……そのまま、引き揚げられる事がなくて……死亡認定が、降りてしまって……。
弟を生かすために、生活させるために、働くようになってしまった。
「…………」
だから葉柄は、己を殺そうとしている。
そんな自分が許せないというのももちろんある。
だがそれ以上に、自分が死ねばまた、姉は絵を描いてくれるかもしれないのではと、そう考えてしまって仕方がないのだ。
描かない可能性の方が高いけれど……それでも、自分ががこのまま、生き続けるよりかは……可能性が広がる。
それにもし描かなくても……少なくとも今みたいに、無理して働く必要はなくなる。
残業ばかりでぐったりとして帰ってきて、働きたくもない場所で働いて、いつ倒れてもおかしくないぐらい疲れて……。
少なくともそれだけは、開放してあげることが出来る。
だから弟は……姉のために、死にたがっている。
「? なに?」
「……いや。俺が奪ったのは、姉貴の夢だ」
「夢……?」
「ま、少なくとも俺が死ねば解決するって話なんだよ」
俺のことより今はお前の問題だろ、ともう十分話しただろとばかりに、無理矢理話題を元へと戻す。
このまま話していればきっと灯のことだ。「本当に他に方法はないの?」と今の自分の状況を放って、葉柄のことばかりに気を取られることになるだろう。
弱っているくせに。
「それで、どうすんだ? 俺はお前を助けてやる。代わりにお前は俺を殺す。そういう交換条件だ」
「…………まだ、気になることがあるんだけど」
「なんだ?」
「どうして、私なの?」
「あん?」
「さっき、凍梨さんと殺し合いをしてるって言ったよね? それで生きてるんなら、私が殺しても変わらないんじゃない?」
「『前人間』が殺せば生き返らない」
「え?」
「そんな噂があんだよ。ま、何も本気で信じてる訳じゃねぇ。俺が唯一死ねる可能性がある、ってのは、そういうことだ。とはいっても、本当に尽くせる限りの手を尽くすつもりの、本当だったらめっけもんだな、ぐらいなもんだ」
私は『前人間』じゃないからやっぱり無駄じゃないの、という灯の戯言を無視して続ける。
「もちろん、もし本当に死んでもお前が罪人にならないよう手は回すつもりだ。本当に『前人間』じゃねぇんなら気にすることでもねぇが……ま、万一にも死んだ場合でも大丈夫って訳だ」
とはいえ、そんな都合のいい方法については全くアテがない。
だからといって自分が本当に死んだ後、殺してくれた恩人が人殺しになるなんてのは、さすがに心苦しい。
つまりここでの彼女との取引は、その手段が思いついたときにすぐさま実行に移すための前約束みたいなものだ。
本当はそういうの全てを考えて、クラス内で感じる視線をどうにかする方向へと持っていきたかったのだが……それよりも先にチャンスが巡ってきたのだから、それを先に掴んでおくべきだろう。
「で、だ。転校生、どうする? 俺に、助けて欲しいか?」
「…………」
「…………」
二度目の同じ言葉。
再三の問いかけに……灯は深く考え込んだ後、
「…………ん」
小さく、頷きを返した。




