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「木林灯」の、限界(5)

 週明け。月曜日。


 葉柄はついに一昨日のゆかりが作ってくれた小テストをもって、今までの授業の復習を終えることが出来た。

 これで今日からは、その日の授業内容を改めて復習していくだけで済む。


「てめぇやっぱ違ったじゃねぇかよっ!!」


 そんな、これからは気持ち的に楽だな、と思いながら教室へと向かっているその途中、目的地から怒号が響いてきた。

 この主は容易に想像できた。というか、ここ最近も聞いたからすぐに思い至った。


 それに、土曜日の小テスト後にゆかりが話してくれていた。

 日比樹をイジメてるヤツの兄がいて、その兄に弟のイジメを止めてもらうよう説得してくれと灯が言っていた、と。


「弟はそのガキをイジメてなんてねぇって言ってんぞコラッ!!」


 何かを蹴飛ばす音が聞こえてくる。聞こえる音の軽さから椅子だろう。


「おめぇどうするつもりだ? お?」


 教室へと着き、中を覗く。

 教室後ろの真ん中の席の近く、カバンを持ったままの灯を真正面から睨みつけている松来の姿。


 入口側にいる葉柄の位置からでは、背中を向けている灯の表情は見えない。

 しかしもし、教室内にいたとしても、その表情が見えたかどうかは怪しい。

 カバンを持つ手が小刻みに震えながらも、ああも俯かれていては。


「弟を疑った責任をどう取るつもりだって聞いてんだよっ!!」


 もし灯が女子でなければその胸倉に掴みかかっていたかもしれない。

 それほどまでの迫力。


「疑っておいて何もないなんてね……」「ね~」


 どこからともなく聞こえる声もまた、松来の味方ばかり。


「せめて一言謝れよな」「そうそう」「っていうかいつも注意してきてるときから思ってたんだけど、自分が絶対に正しいって勘違いしてるよね~」「分かる~。なんかそんな感じしてた」「あとお前らのためを思ってみたいなのなくね?」「あるある!」「あれうっざかったよな~」「お前はオレの先生かっての!」「マジそれウケる~」


 そして集団作用からか、日頃目に付いている灯の態度にまで、その非難は飛び火する。


 灯にとって不利な状況が、出来上がってしまっている。


 周りは全て敵だらけ。

 味方なんてどこにもいない。

 そう、本人に教え込まんばかりに、追い詰めていく。


「…………ぅ」

「あん?」


 ようやく、俯いたまま、灯が言葉を発した。



「違うっ!」



 声を荒げ、顔を上げ、真正面から松来を見る。

 彼と同じように、彼を睨みつける。


「あの子は……日比樹くんは! 私にウソなんて吐いてないっ!!」


 けれどもその声にはどこか、震えが帯びている。

 今にも泣きそうな、自分の言葉に縋ってなんとか立っているような、そんな震えが。


「はぁっ!? じゃあ俺の弟がウソ吐いてるってのか!?」

「じゃないと! 辻褄が合わないじゃないっ!!」

「そのガキの方がウソ吐いてるに決まってんだろうがよぉっ!!」

「だから! それはあり得ないのっ!! 日比樹くんが嘘を吐くなんてことは絶対に! あなたが身内を庇ってる意外にあり得ないのっ!!」

「てんめぇ……! マジ調子乗ってんじゃねぇぞコラッ!!」

「あり得ないったらあり得ないのっ!!」


 当人達を連れてこない以上、真相なんて分からない。

 子供同士の言い分を伝え合ったところで、無駄でしかない。


 最初から、弟に聞いてきて、弟に頼んで、なんて提案は無駄でしかなかった。


 もちろん、完全に無駄じゃないことにだって出来た。

 人徳や人気さえあれば、ココにいる奴等なら味方に引き込めたかもしれない。

 ……が、そんなものが灯にあるはずもなく――


「アイツ、違うしか言ってなくね?」「だよなぁ……あれじゃあ信用できんわ」「っていうか松来の弟の方が信用できるし」「関係のない子供の言い分信じてる方がおかしいって」「言えてる~」「そうやって正義感を振りかざしたいんだろ?」「正しいことをしてます! ってか?」「絶対そういうのだって」「マジあり得ないよね~」「超寒いっていうか~」「ホントソレ」


 ――ただ、周りに敵を作るだけ。

 出来上がっていた不利な状況を、まざまざと見てしまう結果になるだけ。


「違う……! 私は正しいの……っ! 間違えてるのは周りなの……っ!!」

「はぁっ!? おめぇ頭おかしいだろっ!」

「おかしいの! あなた達はっ!!」

「っ……!」


 相手の声も、野次馬の声すらも吹き飛ばす、金切り声。


「正しいのは私……! おかしいのはあなた達なの……っ! だって私は皆のために皆を正してあげてたの! それなのに皆私を疎んで邪魔者扱いしてどう考えてもおかしいの!! 皆間違えてるから私がちゃんとしてあげようとしてるのにどうかしてるよっ!! なんでっ!? なんで私がおかしいみたいに言われなきゃいけないのっ!? おかしいよ! こんなの! おかしいじゃないっ!! 私は皆のために間違えてるところを正してあげてたのに! どうして私がおかしいってっ! 邪魔って扱いを受けて無視されて! 言うことを聞いてもらえなくて感謝もされなくて! 一緒にいてくれなくてっ! 距離を置かれてっ!! 迫害されて! なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんで……!」


「っるせぇんだよボケ女がぁっ!!」


 ついに……物へとぶつけていた足が、彼女の腹へと突き刺さった。


「ぐっ……!」


 蹴り飛ばされ、倒れ、座り込む。

 周りを囲っていた野次馬の輪が少しだけ、広くなる。


 その注目の的になっている彼女は蹴られたまま立ち上がらず、俯いたまま、お腹を押さえて嗚咽を漏らすだけ。


「なんで……なんでなんでなんで……! いたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたい!! ……っ!!」


 今まで暴力を振るわれてこなかったせいか。どこか壊れたかのように大声で繰り返した後――


「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー……!」

 ――本当に、壊れてしまった。


 そう思ってしまうほどの悲鳴。

 教室の音全てを奪い取る、その音だけで支配されそうなほどに、大きな。


 ……限界、だったのだろう。


 正しいことを正しいと言って、聞いてくれる人ばかりの場所で育ってきた彼女にとって……反抗してくる奴等ばかりで、言う事を聞いてくれない人しかいないここは、ストレスを溜める場でしかなかった。


 そこに、今までぶつけられることのなかった暴力が降ってきた。


 それは文字通り、彼女の今まで培ってきた土台を、壊す一撃。


 慕ってくれ、感謝してくれるはずのことをしてきたはずなのに……疎まれ、無視され、挙句には暴力を振るわれることになってしまった。


 今までなかった結果がやってきた。

 想定も想像もしていなかったことが。


 この結果は、今まで暴力を振るわれることなく生きてこれた彼女にとって、辛いことだったに違いない。


 灯が、壊れてしまっても、おかしくないほどに。


「…………」


 ……分かる。

 葉柄には。

 一度壊れた、彼だからこそ。


 その辛さを。


 だからこそ、そうして一度壊してから組み立てなおした方が、案外上手くいくものだってことも。


 分かっている。

 

 だからこれは、いい機会なのかもしれない。


 そう葉柄は、考える。


 予定が変わってしまうことになるが、ここで彼女を助けることこそが、自分のためになるに違いない。


 殺してくれと、頼みやすくなるに違いない。


 俺と同じで、彼女自身が、壊れた自分を、修復していってくれるのなら……それが終わったときか、その途中かで……間違いなく。



 間違いなく俺を、殺してくれる。



「……………………」


 ようやく、葉柄は教室内へと、足を踏み入れる。


 彼女の後ろに棒立ちしている野次馬をすり抜け、前へ。


「静かにしろやこのキ○ガイがぁっ!!」


 制服のポケットからナイフを取り出し、逆手に持って彼女を脳天から突き刺そうと振り上げる。


 殺してはいけないと訴える本能を押し留めてしまうほど、怒りに染まっている証拠。


 そんなヤツを前にして彼は、さらに前へ。


 そして……いまだ壊れた声を上げたままの彼女の肩に手を乗せ、狂気に振り下ろされてくるその刃物を、躊躇うことなく掴んだ。


「っ!!」


 今になってようやく、葉柄が近付いてきていたことに気付いたのか。

 それとも、ナイフを掴まれ流れる血を見て、冷静になれたのか。

 自らの得物を見て、滴る赤を見て、驚きの表情を浮かべてる松来。


 大人しくさせるため、あえて刃側そちらを掴んだ判断は正解だったようだ。


「…………………………………………ぇ」


 肩に手を置かれたからか、騒音を鳴り響かせていた元凶の狂気はなりを潜め、変わりに呆然とした声を上げていた。


「……なんだ、オイ。ボッチがなんの用だ? はっ。まさかお前、コイツのことが好きなのか? だからそうやって守ろうと――」

「手、震えてるぞ」

「――っ!」


 遮って、低くするのを意識して、声を出す。


「……殺したらいけないかもしれないって、なんとなく思ってんだろ? それは信じた方が良いと思うぜ」

「……………………ちっ」


 力が抜けたのが伝わったので、掴んでいた手を離す。


 そこまでしてようやく、葉柄は今日始めて灯の顔を見る。


 涙で腫らした、その顔を。


「…………行くぞ、転校生」

「…………えっ……?」

「お前に、言いたいことがある」


 助けてやること。

 それと引き換えにしてもらいたいこと。


 それらを話すために、肩に置いていた手を、彼女の目の前に差し出してやった。

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