今年の俺の目標
今日は俺にとって大事な日だ。
残業などせず、定時ピッタリに会社を出て妻が待つ我が家へと足早に帰る。帰り際、後輩から飲みの誘いを受けたが、それも断った。今日は酒を飲む気分じゃない……いや、酔ってはいけないんだ。そんな半端な覚悟じゃ、俺は負けてしまう。この先一年間のためにも、俺は今日勝利しなければならないのだ。
誰に勝つかって?
それは勿論、我が妻にだよ。
何の勝負かって?
それは勿論――――、
俺のお小遣いの『予算会議』だよ。
* * *
「では今年度の予算会議を始める」
そう切り出したのは俺だ。
夕食後、妻の食器洗いを俺は夕刊を読みながら居間で待ち続け、今し方作業を終えた妻がテーブルの向かいに座ったと同時に予算会議を始めた。
ウチのお小遣いは予算制。
何故この形になったかと言うと、毎月の給料を『収入』として、その月の使った金額を『支出』とすると、どうしても月によって『収入』と『支出』のバランスが崩れて赤字になってしまう月が出てくる。我が妻は貯蓄グセがあるから、赤字は極力避けようとあれこれやりくりするのだ。
するとどうなるか。仮に赤字になりそうな場合、真っ先に削り取られる部分とはどこか。――言うまでもない俺のお小遣いである。つまり、赤字=お小遣いゼロ。それはイカン。
だから我が家庭では全ての『支出』に対し、予算制で考えるようにしているのだ。まあ、あくまで大雑把な『見積もり』を立てるだけなんだがな。やはり予想外の『支出』ってのは存在する。大事なのは、日々ちゃんとお金の流れを正確に把握することなのだ。……妻がやってるけどね。
「はぁ……。ちょっとは休ませてよ」
「悪いが明日も朝から会議がある。できれば早めに寝たいんだよ」
なーんてサラリと嘘をついてみる。これは作戦だ。勝負に勝つためには、決して敵に楽をさせてはいけない。
「じゃあまずは前年度の『支出』と『収入』ね。一応なんとかプラスになったけどあんまり…………」
「いやその話は後でいい」
「は?」
「まず先に今年度の俺のお小遣いについて決めていこう」
今年こそマジだ。俺は本気で勝利を掴みに行く。もはやお小遣い以外の話なんて興味などない。
「何言ってるの? あなたのお小遣いなんて本来どうでもいい項目なのよ。そこを先に決めちゃったら、その他の大事な予算にお金がいかなくなるじゃない」
どうでもいいとは非道い言われようだ。俺にとっちゃあ命の次に大事なことなんだよ。
ここはきっちりと反論させてもらう。
「だが逆に言えば、俺のお小遣いってのは常に余った金額でやりくりしているようなものだ。俺だって少しは自分のことにお金を使いたい。だからそこを〝どうでもいい〟なんて言われると、ちょっと怒りたくなる」
「…………」
黙った!? あまり強く言ったつもりはないが……だがこれはチャンス! ここはあまりグイグイ行かないで、少しは妻のことを想うそぶりを見せればいけるかもしれない。
「ああゴメンゴメン。別にお前を困らせようって訳じゃない。お前にはこの家の家計を全て任せちゃっているから、その辺は感謝している。……要は、俺の給料も少しは上がったし、マンションのローンも順調に払っているから、ちょっとお小遣いを上げて欲しいってことなんだよ」
「…………ま、提案だけ聞くわ。具体的にどんくらい?」
お! いけるかこれは? よ、よーし。落ち着け俺。シュミレーション通りにやるんだ俺よ。
「ま、まず……前年度のお小遣い予算は24万円だった。月2万円ってとこだな。これを月に3万……いや、2万5千円にして欲しい。つまり予算額は……えーっと……」
「30万円」
「そ、そう! 30万円! 前年度から……6万プラスだ。それくらいならできるだろう? この一年間通してプラスになった額が6万以下って訳でもないし……い、いいだろ?」
そう言うと妻は、前年度の家計簿の紙データ以外にも、次々と紙を出してきた。家計簿同様、なんだか表みたいのが印刷されているけど……何だアレは?
「目的は?」
「え?」
「6万上げる目的はなにって聞いてるの。要は使い先」
ま、まあこれは予想の範疇だ。ある程度は妻に突っ込まれるだろうと予測していたため、それらに対する解答もちゃんと用意してある。
「お、主に飲み代だな。お小遣いが足りなくて折角誘われた飲みを何回も断ったし……。先輩や上司、部下など人脈を作るにはやっぱ飲みは欠かせないんだよ。しかし飲み代ばかりだと俺の趣味の方へお金をまわせなくなる」
「趣味って、あのアイドルグループのライブのこと?」
「あ、ああ。結構チケット代もバカにならないんだよな。――でも、そっちの方はある程度我慢はできるんだけど、やはり会社の飲みを断るのは色んな意味でキツイものがある。俺だって出生はしたいし、出世して給料が良くなればお前にももっと楽してあげられるし……」
さりげなく仕事として大事なことを混ぜた上に、ちゃんと家庭のことも考えているよとアピールしてみる。
我ながら良くできたアピールだと思ったが、妻にはあまり響いていないようで、妻の感想はたった一言、
「それだけ?」
だった。
「え? そ、それだけって何が?」
「増やしたい理由は飲み会に出たいってことだけなの?」
疑っているのかな? ……いや、ちゃんとここでそう言っておけば大丈夫なはずだ。
「本当にそれだけさ」
「あなたお酒苦手じゃない」
「酒に弱いのと、飲みに行くのとは関係ない。さっきも言った通り、人間関係と信頼を築くためだよ」
よし。我ながら完璧な理由だ。
単に自分が飲みたいだけじゃなく、ちゃんと仕事のことも考えた、最高の言い分だ!
だが、我が妻は、私の言葉を一切信用していなかったようだ。その証拠に、
「ふーん。つまり、飲みに誘われても、飲みに行けない日が多くて困っているってわけ?」
そう耳をほじりながら言ってきたのだ。完全に「あっ、そう」という態度。
「ま、まあそうだが……」
「それにしては家に帰ってくる時間が遅い日、多いわよね?」
「ッ!?」
なんだその笑みは……。お前は一体なにを言っているんだ? 何を考えている?
「な、なにを言っているんだ……? か、帰りが遅いのは当然、残業しているからだよ」
それらしい理由を言うが、我が妻はこちらが予想だにしなかったことを口にした。
「あら。給料明細にのってるあなたの残業時間と、あなたが実際に家に帰ってくる時間を比較しても、明らかに家に帰ってくるのが遅い日が多いのよね。勿論、移動時間も考えてね」
「なっ!?」
「因みにあなた以前、勤めている会社は100%残業がつくって言ってたわよね? それが理由で転職したんですもの。それに、誤魔化しが一切できない会社だとも言ってたわ」
「…………ッ!!」
お、お前、まさか気付いて……、
「私に残業代の計算ができないと思った? あなた、ここ数ヶ月私に黙って夜な夜な遊びに行ってるでしょ。――〝接待代〟と称してね」
「!!!!!!!!」
「お小遣いをアップして欲しい理由……つまり、その使い先は、その〝接待代〟で遊んでいるお金がもっと欲しいって意味でしょ?」
ま、まずい! 完全に見抜かれている!! 俺が最近『とあるお店』にすごくハマっていることがバレている!
だ、だが、どんな『店』にハマっているかまでは掴めていないはずだ。ここは、素直に謝るフリをして、気付かれないように騙すしかあるまい……。
「まさか風俗じゃないわよね?」
「ばっ、違えーよッ!! ガールズバーは決して風俗じゃ――――、あ…………」
やっべ……。つい、口が滑ってしまった……。
「がーるずばー? なにそれ? ちょっと詳しく聞かせなさいよ」
「あ、いや……ゴメン。今のは言い間違いで…………ほんとは……そう、〝カンガルーバー〟っていうところで……。カンガルーがその、あれだよ……ピョンピョンって跳ねてさ…………」
「ふざけないでっ!! 白状しなさい、ほら!!」
「いや、だから…………」
「言・い・な・さ・い!!」
「……………………はい」
その後俺はガールズバーとは一体〝何ができるのか?〟ということを、延々と説明する羽目になった。
妻は完全にヤらしい風俗と勘違いしていたので「カウンター越しに女の子とお喋りをするただの飲み屋ですよ」と何十回も説明したが、妻にはあまり信じて貰えず、俺の行為はほぼ浮気の一種とされてしまった。
それにより妻は、俺の今年のお小遣いを『ナシ』の方向へ進めていこうとするので、次の俺の一年間がかつてのフリーター時代よりも地獄を見そうな気がしてきた。
このままではアカン。
よって、怒り狂う妻に誠心誠意を込めてこれまでの愚行を謝罪し、何としてもお小遣いゼロを回避するため、全力で妥協案を提示していった。
話し合いは2時間にも及んだ。
そしてようやく、一つの結論が出た。
「じゃあ、あなたの今年のお小遣いは12万円ね」
「…………はい。分かりました」
半分っ!!
そう、俺のお小遣いは半分に減らされてしまったのだ。しかしこれでもかなり頑張ったほうである。それは日々営業の仕事で鍛え上げられたトーク術によるものだが、当然その為に妻の色々な要求をのむ形となってしまった。まあ、お小遣いの為ならば致し方ないだろう。
そして俺は今日の出来事をキッカケに、とある試みをやってみようと考えた。それは、
「簿記の資格でも取ってみようかな…………」
そう。とりあえず数字に強くなろうと思ったのだ。
計算能力を鍛え上げ、論理的な思考をちょっとでも身につけられれば、来年の予算会議では俺に有利な状況へもっていけるかもしれない。
全ては、俺のお小遣いの為に――。
「来年こそは妻に勝ぁつ!!」
「うるさい!! 狭い部屋で叫ばないで!!」
「……はい。…………ごめんなさい」
上司の家庭が「ウチは予算制で家計を立てている」という一言で思いついた作品。やっぱ数字に強いって大切な事なんだなぁとたまに思うことがあります。