第4話 忌まわしい記憶
『幸せそうな家庭なのに、どうして家出なんかするのかな』
純粋で真っ直ぐな少年の言葉は、美沙を息苦しくさせた。
何も知らないが故の、穏やかな、優しい言葉だ。
もしも美沙に触れ、その記憶を読みとってしまったとしたら、そんなセリフはきっと言えなくなる。
美沙はやめたはずのタバコの煙を肺いっぱいに吸い込んだ。
ほんの少しでもいい。思考を麻痺させてくれと祈るような思いで。
春樹の家族構成は、谷川理紗と同じだった。
真面目な両親、国立大の大学院に通う優秀な兄。そして甘えん坊の末っ子、春樹の4人暮らし。
その幸せな一家を、2年前悲劇が襲った。
春樹が外出している時に家から出火。
近隣にはほとんど被害がなかったものの、火の勢いは凄まじく、3人もろとも家屋は全焼した。
3つの遺体は性別も分からないほど損傷がはげしかった。
兄の天野圭一は美沙と高校の同級だった。
映画や読む本や哲学的思想までことごとく趣味があった圭一と美沙は、決して恋仲にはならなかったが、いい友だちだった。
あの事故は悲惨この上ないものだったが、結局キッチンからの火の不始末による出火として処理され、ローカルニュースに1、2度のぼっただけで、人々の記憶から消えた。
春樹という哀れな遺族を残しただけで。
“本当にそれだけだったら、まだしも救われたのだ。”
美沙は、仕事にとりかかる準備を始めた目の前の少年を見ながら思った。
健気に必死で自分の道を模索しながら前を見つめている春樹。
やっと立ち直りかけているその春樹を、闇に突き落としてしまう事実を自分は知っているのだ。
「どうかした? 美沙。すごく怖い顔してるけど」
春樹は不思議そうに美沙を見た。
「私はずっとこんな顔なのよ」
「ああそうだった」
春樹の軽口に笑いながらも、美沙の心はまた疼いた。
春樹の声は、この頃圭一の声によく似てきた。忘れたくて堪らないあの声に。
2年前、あの火災が起こる前に圭一が掛けてきた電話の声が、未だに耳から離れない。
『美沙、助けて。美沙、どうしよう。・・・父さんと母さんを殺してしまった。美沙・・・オレ・・』
いったい何が起こっているのか美沙にはまるで理解出来なかった。
とにかく携帯を必死で掴み、説明を迫った。
大学に通うために一人暮らしをしていた圭一はその日、半年ぶりに実家に帰ってきていた。
決して裕福な家庭では無かったため、圭一はその生活資金を自分で稼いでいたらしい。
以前会ったときに圭一が、学生でありながら仲間と起業していることを美沙は聞いていた。
ネット上の操作で情報を売買するシステムらしく、違法では無いと言っていたが、あまり興味も無かった美沙は、深くは詮索しなかった。
けれど、違法でないどころか、それは紛れもなく児童ポルノの類のビジネスだった。
圭一の性癖まで知っていた訳ではないが、美沙はにわかに信じられなかった。
その帰省中に両親にその事を知られる事態となり、両親にかなり辛辣になじられたという。
その真面目な両親の激高、今まで培ってきた絆をうち砕く罵詈雑言に、圭一は理性を失った。
気がついたら自分は包丁を握り、父も母も息絶えていた、と圭一は震えながら一部始終を電話口で語ったのだ。
彼にとって、美沙へ報告することは今思えば懺悔だったのかもしれない。
いや、すべてをさらけ出すことで美沙を自分の境遇に引き込み、同胞にして孤独を紛らわそうとしたのか。
その言動に理解はできなかったが、美沙に全てを話しながら、奇妙なことに圭一は落ち着きを取り戻して行ったように思えた。
その不気味な落ち着きこそが、異常な精神状態の現れだと言えたのかもしれない。
電話の向こうの圭一の手は、両親の血で濡れ、その横にはその遺体が無惨に転がっているだろうに。
代わりに美沙は体の震えと吐き気が止まらず、汗ばんだ手で携帯を必死でにぎり、とにかく救急車を呼ぶように繰り返した。
圭一はのんびりした声で「うん、わかった」と言った。
そして「ありがとうね、美沙。さようなら」と。
それだけ言って圭一は電話を切った。
美沙はこの後30分くらいの記憶が曖昧だった。
何度も何度も圭一の携帯に電話を掛け、繋がらずに切る。これを繰り返していた事だけボンヤリ思い出す。
圭一の家に行こう。
ガクガクする足で立ち上がったのは圭一と会話を終えて一時間以上が経った頃だった。
圭一の家までは電車で40分足らずで行ける距離だったが、そこへ行ってみようと思うまでに、それほどの時間を要してしまった。
美沙もまた、普通の精神状態ではなかったのだ。
そこに一本の電話が入った。
高校の時の友人からだった。
圭一の家から火が出たと。
全焼は免れない程の、酷い火災なのだと。




