第10話 レディホーク
---どうしてあんな事を言ってしまったのだろう。---隆也は後悔に背を丸め、両手を握りしめた。
今のはやはり美沙に言うべき事では無かった。
ここに入るのを望んだのは春樹であり、美沙はそれを受け入れただけなのだ。
あの事故のあと、常に春樹を励まし、生活の世話をしてきたのも彼女なのだ。
昔の恋人の弟だというだけで、本当の弟のように接してくれている。
けれど、さっきの発言に「ごめんなさい」というのも癪な気がして、隆也は俯いたまま口を閉じた。
不自然な沈黙が漂う。
このまますぐに帰るのも後味が悪い気がした。
どうせなら、と思い、隆也は今まで春樹にも面と向かって訊かなかったことを話してみることにした。
「ねえ、美沙さん。春樹は変な癖があるの知ってますか?」
自分のデスクの上のファイルを整理していた美沙が不思議そうに隆也を振り返った。
「癖?」
「昨日あいつ見てて思い出したんです。高校の時からの癖が治ってないんだなって。女の子が写真見ようとして手を出すと、慌てて手を引っ込めるんです。あいつ高校の時もそうだった。癖って言うより、俺には少し神経質な感じに見えたんです。病的っていうか・・・。女嫌いなのかって訊くと本人は否定するし、癖のことを話題に出すと辛そうな顔するから、もう訊くの辞めたんだけど」
隆也が美沙の方を見ると、美沙は驚いたようにこちらを見ていた。
やはり知らないんだと確信して隆也は続けた。
「人に触れられないない病気って、あると思いますか? 潔癖性とは違うみたいだし」
「・・・そうね。そんなふうには見えないわね」
美沙は抑揚のない声で返してきた。
「あいつ結構女の子にモテたし、告白もされたと思うんだけど、全部断ってたみたいなんです。でも、女性嫌いじゃないと思うんですよ。女の子とだって仲良く喋るし」
「へえ。そうなの」
「美沙さん、気付いたりしません?」
「さあ。ここには女の子いないから」
美沙は苦笑した。
「美沙さんには?」
「え?」
「美沙さんにも同じような態度をとりますか?」
美沙は困ったように隆也を見た。
「ねえ隆也。私は春樹の上司なの。ここで一緒に仕事をしてるだけ。春樹の恋愛相談に乗ったこともないし、春樹のその癖にも心当たりは無いの」
隆也は少し頬を赤らめて一瞬口を閉じた。
自分でも話が逸れてしまっているのに気が付いていた。春樹の病的な癖を美沙に確認したかっただけなのに、確実に脱線してしまっている。自分が本当に話したい方向へ。
もう軌道修正出来そうにない。
「春樹は女を好きにならないのかと思ってたけど、そうじゃないのかもしれない」
「ん?」
「春樹は美沙さんが好きなんじゃないかと思うんです。もしそうなら・・・」
美沙が美しく整った顔を硬くしたのが感じられた。
「そしたら何か、春樹の中のいろんな問題が解決されそうな気がしたんで・・・」
語尾が濁った。
こんな事を言ったのがバレたら春樹に軽蔑されるだろうか、という不安のせいで。
しかしもう、完全に軌道修正はできなかった。
「春樹は良い友人を持てたよね。羨ましいよ。まあ、・・・ちょっとお節介が過ぎるけど」
美沙は自然な笑みを浮かべながらそう言うと、サイドテーブルの新聞を手にとって眺めた。
訳の分からない厄介な話を振られて、答えに困っているようにも見える。
それはそうだろう。
保護者としてではなく、別の意味で『友人を頼みます』と遠回しに8つも下のガキに言われたのだから。
けれど隆也は美沙の答えをじっと待った。
美沙が本当のところ、どう思って春樹を側に置いているのか知りたかった。
「ああ、これ懐かしいな。この映画」
美沙は唐突に新聞広告の、DVD通販の欄を眺めてそう言った。隆也の質問は忘れてしまったかのように。
「映画?」
「うん。この映画知ってる? 『レディホーク』。私、小学生のころ観たのよ。TVでね。随分昔の映画だけど、映像が綺麗だった。ジャンルはファンタジーなのかな、それともアドベンチャー?」
その笑顔は少女のようだったが、話をはぐらかされた隆也は少しガッカリしていた。
「さあ。そんな映画知りませんけど」
隆也の声に苛立ちが混ざった。
「あの頃はこの映画の男女の本当の切なさが分からなかったけど、今なら分かるな。嫌になるくらい」
「だから、知らないんですってば」
「うん。知らなくていいのよ」
「・・・」
美沙は笑ったが、隆也はそこに一瞬何とも言えない冷たい空気を感じた。
いや、“壁”だったろうか。
「私と春樹はこの中の主人公の二人に似てるなって。・・・何となく今、そう思った」
隆也は何と返せばいいのか分からなかった。
どういう意味なのだろう。
帰るタイミングを計りながら、まだ手を付けていなかった冷めたコーヒーを啜った。
『知らなくていいのよ』
美沙の言葉に釈然としない拒絶と疎外感を感じながら、隆也はコーヒーの苦みを飲み下した。
もしかしたらこの話題は、自分が入ってはいけない《立ち入り禁止区域》だったのだろうか、と思いながら。




