第5話 逃げても、誰も責めない
拡声器の音が、通りの向こうから響いた。
「こちら再開発現場。安全確認のため、周辺住民は速やかに避難してください」
落ち着いた声だった。慣れている。こういう時のための言い方だ。
人の流れが、ゆっくりと一方向にできていく。誰かに背中を押されるように、俺も数歩、そちらへ動いた。正しい判断だ。逃げるのは、間違いじゃない。
実際、誰も俺を引き止めない。
誰も、残れとも言わない。
道の角で、佐伯さんの店が見えた。シャッターは半分まで下りている。中で灯りが揺れ、人影が動いた。避難の準備をしているんだろう。
胸の奥で、何かが引っかかった。
――このまま行けばいい。
そうすれば、何も失わない。
仕事も、命も、責任も。
揺れが一段、強くなる。
悲鳴が上がり、誰かが転んだ。
俺は立ち止まった。
足元の振動が、さっきよりはっきり伝わってくる。恐怖より先に、奇妙な安心感があった。崩れない、と分かっているみたいに。
そんなはずはないのに。
「早く! 離れてください!」
ヘルメットを被った男が、こちらに手を振っている。再開発側の人間だ。顔に焦りはあるが、敵意はない。彼の言うことは正しい。
逃げても、誰も責めない。
俺は、もう一歩、前に出た。
その瞬間、足元の振動が、ぴたりと止まった。
ざわめきが、一瞬だけ静まる。
俺は、振り返った。
工事フェンスの向こう、商店街、団地、地下へ続く入口。
どれも、今にも壊れそうで、必死に耐えているように見えた。
――どうせ、いらない街なんだろ。
誰かの言葉が、頭の中で反響する。
だったら。
俺は、避難の流れから外れ、来た道を戻った。
背後で、誰かが俺の名前を呼んだ気がした。
気のせいだと、聞き流す。
逃げ道は、もう十分にあった。
今ここに残るのは、俺の選択だ。
その選択を待っていたみたいに、
地面が、再び、どくんと脈打った。




