第23話 逃げるという選択
夜の街は、昼よりも正直だった。
余計な音が消え、必要な振動だけが残る。
俺は、団地の階段を下りながら、その違いをはっきりと感じていた。
――まだ、いける。
街の反応は、弱い。
昨日までの張りつめた気配がない。
屋上で離れた距離が、効いているのかもしれない。
それとも、街が“様子見”に入ったのか。
どちらでもよかった。
俺は、街の外に出るつもりだった。
荷物は少ない。
着替えと、財布と、スマホ。
仕事を失ってから、増えるものは何もなかった。
玄関を出る前、鍵を見つめる。
この部屋に戻る理由は、もうない。
それでも、ポケットに入れた。
通りに出ると、夜風が強い。
フェンスの向こう、再開発区域の灯りが均一に並んでいる。
俺は、反対方向へ歩き出した。
街の境界。
行政区分の看板が立つ場所。
そこを越えれば、
この街の“内側”じゃなくなる。
足を進めるたび、胸が少しずつ重くなる。
疲労じゃない。
息も、鼓動も、まだ正常だ。
ただ、感覚が、引き延ばされていく。
――戻れ。
そんな言葉は、聞こえない。
でも、足元の振動が、確実に弱まっていく。
俺は、立ち止まらなかった。
境界線が、すぐそこに見える。
その瞬間、
視界が、ぐらりと歪んだ。
「……っ」
足がもつれる。
アスファルトに手をつく前に、膝が落ちた。
息が、浅い。
肺に空気が入っているのに、足りない。
どくん。
振動が、背後から来た。
街の中心から。
引き戻すような、低い圧。
俺は、歯を食いしばって顔を上げる。
「……離れるだけだ」
誰に言うでもない言葉。
境界の向こうは、静かだった。
何も知らない夜。
普通の街。
手を伸ばせば、届く。
その瞬間、
胸の奥で、何かがはっきりと切れた。
視界が暗転する。
音が、遠のく。
――ああ。
これが、答えか。
倒れ込む直前、
足元の振動が、急激に強まった。
街が、近づいてくる。
抱き戻すような圧。
逃がさない、という意志。
次に意識が戻ったとき、
俺は、境界の“内側”にいた。
アスファルトの冷たさ。
遠くで鳴る、街の音。
戻された。
選択は、成立しなかった。
俺は、仰向けのまま、夜空を見上げる。
星は少ない。
それでも、確かにある。
「……逃げられない、か」
どくん。
答えの代わりに、振動が一つ。
否定でも、肯定でもない。
ただの事実だ。
俺は、ゆっくりと目を閉じた。
逃げるという選択肢は、消えた。
次に残るのは――
**どう使われるかを、選ぶこと**だけだ。




