第三十五話 飛び出した井の中の王太子
近衛隊視察の騒動も、朝の空気が肌を刺すほど冷たくなった頃には、すっかり話題に上がらなくなった。
視察の思い出話が出なくなる代わりに、挨拶しか交わさなかったクラスメイト同士が談笑している光景をよく目にするようになった。
彼ら、彼女らは当たり前のようにふざけ合い、喧嘩をしてはまた当たり前のように仲直りをする。まるで入学当初から友人だったように。
「同じような毎日を送っているのに、人は日々変わっていく……」
ポツンと呟くシモーヌに、休憩室にいた女子が一斉に笑い出した。
「皆さん、またシモーヌが難しいことを考えているわよ」
「何、何? 新しいミステリー小説の題名?」
「やめてよ。この間のシモーヌおすすめの小説、すごく怖かったんだから!」
女子しかいない休憩室という気安さからか、皆シモーヌの肩をバシバシ叩きながら大きな声で笑う。
「そういうシモーヌさんが一番変わった気がするのだけど」
レニーがラザノ商会のクッキーを摘まみながら言った。
「もうすぐ新年のお休みでしょう。それが終わったら試験があるわね」
新年を祝うと、学園はすぐに三学期を迎える。三学期のほとんどが進級試験に向けての授業となり、生徒は今までとは比べものにならないほど忙しくなるのだ。
「あーあ、楽しい時間は一瞬で過ぎて、私たちはあっという間にお婆さんよ」
「いやだぁ! その前に、二年生と三年生を楽しみましょうよ」
女子休憩室が再び笑いに包まれる。休憩室の窓の外では、冷たい風とワルツを踊るように枯れ葉が優雅に舞っていた。
「あ! あの葉っぱが落ちなかったら、進級試験は首席で合格すると願を掛けていたのに。チッ」
クリストフの王太子らしからぬ発想と舌打ちを聞き、隣にいたジルはギョッとした。
「窓の外を眺めていらしたと思ったら、何ですか、その態度は。他の生徒に聞かれたらどうするのです?」
諫めるジルに、クリストフは不機嫌な顔を向けた。ジルの言う通り、幸い男子休憩室にはクリストフとジル、ジョルジュ、ベルナールといういつもの顔ぶれしかいない。
「別にお前たちの前でなら、王太子じゃなくてもいいじゃん」
口を尖らせたクリストフの話し方に、ジルは眼鏡がずり落ちそうなぐらいに驚いた。
「本当にどうしちゃったのだろうね、クリストフ君は。王宮ではお目にかかれないような野生のクラスメイトたちに、すっかり影響されちゃったのかな?」
ソファーに座って優雅にお茶を飲んでいたベルナールが、面白そうにクリストフの様子を揶揄う。
物心ついた時から一緒にいる真面目な従兄弟だが、最近の様子は本当に面白い。母の兄嫁である王妃は、そんなクリストフを人として面白味がないと常々心配していた。王妃はクリストフの様子をベルナールに報告させ、情報料としてお小遣いを渡している。
「よく聞くアレだな。『付き合う友人は選びなさい』ってやつだ」
俺は言われたことはないが、とジョルジュも話に加わる。
クリストフは三人には答えずに、じっと窓の外を見たまま考えていた。
入学前、王太子教育で忙しいクリストフは、わざわざ学園に通うことに難色を示していた。学園で履修する教育はすでに終えているし、それなら父の側で実務を教わる方が有意義だ。そう言うと、母である王妃からは一笑された。
学園には、勉学のほかにも学ぶべきものが沢山ある、それがわからないようならお前はそこまでだと。それでも納得できないクリストフは、頑なに入学を拒んだ。
王妃は母の顔をしてクリストフに言った。レニー嬢も遅れて入学するわ。クリストフはあっさりと学園への入学を受け入れた。
レニー目当てで入学したクリストフだったが、クラスメイトたちのすべてが新鮮だった。王宮では治世についての難しいあれこれを語るのが常だったので、彼らのくだらなくも笑える会話は、いつの間にかクリストフのお気に入りになっていた。
「特に、あの三人」
ぼそっと言うクリストフの視線の先には、クラスの男子たちに囲まれた、フランシス、ジャン、ビクターがいた。
「あれ、何をしているのでしょうね」
いつの間にか窓際まで来て、同じように外を眺めていたジルが言う。フランシスが男子に促されて何かを抜こうとするが、手が滑ったのか尻もちをついてしまった。
「あー、あの老木の根元に刺さった模造剣。入学した時にはすでにあの状態で、本当に危なくて邪魔なんだ。しかも、困ったことに抜けないんだよ」
後ろからジョルジュが説明する。ジョルジュも何度か抜こうとしたが、まったく抜けなかったらしい。ジョルジュでも抜けなかったその剣は、フランシスの次にチャレンジしたジャンでは当然歯が立たない。ジャンは周りから飛んでくるヤジに何やら言い返していた。
「あの剣か? あれには確か、勇者にしか抜けないって噂があって……」
ベルナールがそう言った瞬間、ジャンの後ろにいたビクターがサクッとその剣を抜いてしまった。
オオッと盛り上がる男子生徒とは反対に、休憩室の四人は言葉を発せないでいた。
「う、噂だから。うちの国、勇者とかいないから」
ようやくベルナールが言うと、クリストフたちは黙ったまま窓から離れて、そしてソファーに座った。四人はテーブルにある、レニーから差し入れられたクッキーに手を伸ばし、無言でサクサクと食べた。
しばらくして、ベルナールが口を開いた。
「あの三人。やっぱりいいよね」
はっきりとは言わないが、将来クリストフの近くに置くのに良いとのことだろう。クリストフはもちろん、ジルにもジョルジュにもその意図は伝わっている。
「まぁ、バカそうではあるが、人を裏切るとかはしないだろう」
ジョルジュが真っ先に同意する。特にビクターは剣筋が良いとジョルジュは笑う。
何がきっかけかは覚えていないが、いつの間にかクリストフもフランシス、ジャン、ビクターの三人を見るのを楽しんでいた。
会話はもちろん、発明品や遊びなど実にくだらない。くだらないが、すごく楽しい。いつの日かは、机の中に三人の下手くそな似顔絵が入っていて驚いたこともあった。きっと、あの三人の仕業だろう。
かといって、ただバカなだけではなさそうだ。先日の行進練習の解決は見事だった。
クリストフが三人のことを考えていると、ジルが小さな声でポツリと言った。
「実は、先日の小試験。本当の首席は、殿下ではなくジャンでした」
クリストフたちは驚いてジルを見る。ジルはゆっくりと首を横に振った。
「名前を書き忘れていたみたいで、得点なしになっていましたが」
やっぱりバカだなと呆れるジョルジュ。クリストフは意外な人物に首席の座を奪われていた事実に、ただただ青くなった。
「二年次からの専科、なぜジャンが文官科を希望するのか納得しました」
文官として王宮に上がれるのは、学園を優秀な成績で卒業したごく一部の生徒。ジャンはきっとそれを狙っているのだろう。宰相になる予定のジルも文官科を希望している。
ジャンの成績を知る前は、あのジャンがどんなつもりで文官科を希望しているのかわかり兼ねていた。おどおどした子どもっぽい姿と、隊列行進で皆に説明していた姿とのギャップ。面白いやつだ、とジルは素直にそう思った。
「フランシスも良い感じじゃない? 可もなく不可もなくって感じだけど、出しゃばらずに、人の間に立つことができて中立。貴重だよ、そういう人材」
ベルナールが言う。三人を代表して意見を伝えたり、謝罪をするのはいつもフランシスだ。
確かに、とクリストフとジョルジュは頷いた。
「僕は……僕はそう思いません」
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