第3話 ふたりの時間
カナトと過ごす毎日は、わたしの宝物だ。
彼と話すたび、彼が笑うたび、世界はどんどん色鮮やかになっていく。
もっと、いろんなものを見せてあげたい。
この島の綺麗な場所、ぜんぶ。
カナトを見てると、そんな気持ちが胸の奥から湧き上がってくる。
「ねえ、カナト」
ある日の昼下がり、わたしは彼の手を引いた。
「とっておきの場所、連れてってあげる」
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森の奥深く。
崖に囲まれた、小さな窪地にそれはある。
一歩足を踏み入れた瞬間、カナトが息を呑むのがわかった。
無理もない。
そこは、まるで天国みたいな場所だから。
燃えるように咲き乱れる、赤いデイゴの花。
小さな花が集まって咲く、朱色のサンダンカ。
そして、空に向かって大輪を咲かせるアカバナー――真っ赤なブーゲンビリア。
色とりどりの花々が、むせ返るような甘い香りを放っている。
蝶がひらひらと舞い、鳥たちが楽しそうに歌う、地上の楽園。
まるで宝石を見た子供のように、カナトは目をきらきらさせていた。
その様子がなんだか可愛くて、わたしは思わずくすりと笑ってしまった。
ゆっくりと花畑の中へ歩いていくカナト。
ふと、一輪のアカバナーに手を伸ばし、その赤い花をそっと手折った。
そして、わたしの方を振り返る。
彼はまっすぐ、わたしの元へ歩いてきた。
どうしたんだろう。
心臓が、とくん、と跳ねる。
目の前に立ったカナトは、何も言わずに、摘んだばかりの花をわたしの髪に挿した。
彼の指先が、耳に触れる。
その瞬間、身体中に電気が走ったみたいに、びりっと痺れた。
顔が、熱い。
彼はじっとわたしの顔を見つめて、ぽつりと呟いた。
「……綺麗だ」
ドキドキが止まらない。
花のことだろうか。
それとも、わたしのこと……?
わからない。
でも、漆黒の深い瞳に見つめられていると、もうどうでもよくなってくる。
吸い寄せられるように、ゆっくりとカナトが、その綺麗な顔を近づけてきた。
吐息がかかるほどの至近距離。
彼の瞳に、真っ赤になったわたしの顔が映っている。
時間の流れが、すごく遅く感じられる。
だめ。
これ以上は、だめ。
頭ではそう思うのに、身体は動かない。
わたしは、ぎゅっと目を閉じた。
唇を、そっと開く。
壊れそうなくらい、心臓がうるさく鳴っている。
彼の唇が、わたしの唇に触れる、その寸前。
ピィィ ピィィ
遠くで、甲高い鳥の声がした。
その音に、カナトははっと我に返った。
慌てて身を引き、彼は気まずそうに視線を逸らす。
「……ごめん」
「…………」
わたしは何も言えなかった。
俯いて、自分の足元を見るのが精一杯。
頬の熱は、冷めそうになかった。
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気まずい沈黙を晴らそうと、わたしは彼を誘っていつもの浜辺へと向かう。
日が傾き、西の空が茜色に染まり始めていた。
空も海も、燃えるようなオレンジ色に輝いている。
波打ち際に、肩を並べて座る。
さっきより、少しだけ彼との距離が近い気がした。
波の音が、ざあ、と優しく響く。
何か気を紛らわしたくて、わたしは口を開いた。
「この島にはね、古い言い伝えがあるんだ」
カナトが、静かにわたしを見る。
「百年前、ニライカナイから来た戦士が、この島を怪物から救ったんだって」
夕陽に照らされた彼が、とても眩しかった。
わたしは照れ隠しに、わざと冗談っぽく笑ってみせる。
「カナトも、もしかしたらニライカナイから来たのかもね。この島を守りに来てくれた戦士だったりして」
だけど、カナトは笑わなかった。
ただ黙って、夕焼けに燃える水平線を見つめている。
少し不安になって、わたしはカナトの手を取った。
「ねぇ、カナトはカナト、それでいいじゃない」
カナトは答えなかった。
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それから、また数日が過ぎた。
あの日以来、カナトは物憂げな表情を見せることが増えた。
そして、島の空気も、どこかおかしくなっていった。
その朝、目が覚めると、空がどんよりと曇っていた。
生暖かい湿った風が、不気味に木々を揺らしている。
海を見に行くと、海鳥たちが一斉に空を舞い、けたたましく鳴き叫んでいた。
いつもは穏やかな海が、黒く濁り、不気味にうねっている。
潮の流れが逆巻いていた。
村の広場では、漁師たちが不安そうに空を見上げる。
「なんだか胸騒ぎがするなあ」
「昔はこういう時、巫女様が拝んでくれたもんだが……」
祈りを忘れた村人たちが、不安を口にする。
その時。
ぞくり、と背筋に悪寒が走った。
巫女の血が、告げている。
なにか、とてつもなく悪いものが、この島に近づいている、と。
胸が、締め付けられるように痛い。
カナト。
彼の顔が、頭に浮かんだ。
わたしは、いてもたってもいられなくなって、洞窟へと続く森の道を、夢中で駆けだしていた。