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第1話 出会い

 夜明け前の浜辺は、わたしだけのもの。

 ひんやりと湿った砂が、素足に気持ちいい。

 寄せ返す波の音だけが、世界に響く。


 村の連中の、あの嫌な声も聞こえない。


「巫女だからって、働きもしないで」

「一日中ぶらぶらして、気楽なもんだね」


 すれ違う度に投げつけられる、心ない言葉。

 祈りなんて、もう誰も捧げない。


 だから、こうしてひとりで海に来る。

 誰にも邪魔されない、わたしだけの聖域に。


 ふと、唇から唄がこぼれる。

 遠い昔、おばあが教えてくれた島の唄。


  ニライカナイや 海ぬはて

  光降りて 命結ぶ――

 

 海の果てにあるという神の国、ニライカナイ。

 そこから幸せがやってくるんだって、おばあは言ってた。


 ばかみたい。

 そんなもの、今どき信じている人なんていやしない。

 わたしだって、信じてなんかない。


 ただ、この唄を口ずさむと、少しだけ心が凪ぐ気がした。


 その時。


 東の空が、ありえない色に燃え上がった。

 ただの朝焼けじゃない。

 瑠璃色の空に黄金をぶちまけたような、凄まじい光。


 空気がビリビリと震える。

 さっきまで鳴いていた海鳥の声が、ぴたりと止んだ。

 風も、波の音も、何もかもが消えた。

 心臓の音だけが、やけに大きく耳に響く。


 なんだろう、これ。

 怖いはずなのに、なぜか目が離せない。


 光の中心から、何かがまっすぐにこちらへ降りてくる。

 眩しくて、でも暖かくて、優しい光の筋。


 それはゆっくりと、人の形をとりはじめた。

 金色の粒子がきらきらと舞い落ちて、波打ち際に静かに降り立つ。

 やがて、目をくらませるほどの光がすうっと収まると、そこに一人の男の子が立っていた。


 息を、飲んだ。


 濡れた黒髪が、昇り始めた朝日に照らされて艶めく。

 意志の強そうな眉と、まっすぐな鼻筋。

 薄い唇は固く結ばれているのに、どこかあどけなさが残っていた。


 日に焼けた肌は、波飛沫に濡れてきらきら光っている。

 着ているものはところどころ破れて、そこからのぞく身体は、細いのに引き締まっていた。

 しなやかな獣みたいな、無駄のない筋肉。


 神様か、何かだろうか。

 それとも、海の精霊とか。


 わたしは動けなかった。

 金縛りにあったみたいに、ただ彼を見つめることしかできない。


 やがて、彼がゆっくりと顔を上げた。

 その瞳と、視線がぶつかった。

 吸い込まれそう。

 深くて、静かで、何も映していない、空っぽの瞳。


 彼は少しだけ眉をひそめると、かすれた声で言った。


「ここは、どこだ?」


 低く、心地よく響く声。

 わたしは、やっとのことで喉から声を絞り出した。


「……留真理島(とぅまりじま)、琉球の小島だよ」


「とぅまりじま……」


 彼はわたしの言葉を繰り返す。

 その響きを確かめるように。


「お前は、誰だ?」


「わたしはユリハ」


「ユリハ……」


 彼がわたしの名前を呼ぶ。

 たったそれだけなのに、胸の奥がきゅっと締めつけられた。

 なんだろう、この感じ。


 彼は自分のこめかみにそっと触れた。


「俺は……何も覚えていない」


「えっ?」


「何も。どうしてここにいるのかも、自分が誰なのかも」


 それは途方に暮れているというより、ただ淡々と事実を述べているだけのような、静かな言葉。

 それが余計に、彼の孤独を際立たせている。


「俺はカナト。それしか、わからない」


 カナト。


 わたしは彼の名前を、心の中でそっと繰り返した。


 朝日が完全に昇り、世界が色を取り戻す。

 乱れた彼の黒髪を、褐色の肌を、そして空虚な瞳を、朝の光が優しく照らし出した。


 神様なんかじゃない。

 海の精霊でもない。

 ただ、記憶をなくした、一人の男の子。


 そんな彼の姿に、わたしの心臓はさっきからずっと、うるさく鳴り続けていた。

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