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函と申し子  作者: ぢょぶ
2/2

閉づ、々

白い空間に、再び静寂が訪れた。


ぼくは、その場から動けずにいた。箱を抱きしめる腕の中に、確かな空虚感が残っている。そして、胸の奥に、また一つ積み重なった、冷たい不安。あの女の子が感じていた恐怖。彼女の最期の悲鳴。全てが、ぼくの中に、重くのしかかる。


…あ、誰か来たみたい。


……。

____


ガコン…ギギ…


--・-・ -・・・ ・・--・ ・- 



____

…。


ガコン…ギギ…


・-- --・ ・-・ ・-・・・ --・-・ 


____



「…ん、あれ?」


白い部屋だ。


どこまでも白くて、何も無い空間。ここは…狭いとも、広いとも思わない。音もないし、匂いもない。風も吹かない。ぼくは手に持った箱を抱きしめて、座っていた。体のあちこちには、変な金属みたいなものが生えてて、動きにくい。


この空間の中心に、ぼくはいる。ここはどこ?


どれくらいの時間を過ごしているんだろう。時間の流れが分からない。ただ、ぼくは一人でいて、膝を抱え、箱を抱きしめている。不安がずっと、ぼくの中にある。


眼の前から、ピキ、という乾いた音が聞こえた。

…誰かが来たみたいだった。


怖かった。でも、孤独から開放されるなら、誰が来てもいいと思った。

ぼうっと眺めてると、ひび割れた空間は広がって、数人が会話をしながら出てきた。


「_でぇ、その花の子って人間は、今何してるんすか?」

「この間見つけたの!なんかね、ボロボロ状態で歩いてた!」

「おい、それ人間にしては長生きしすぎじゃないか?」

「……もう…人間じゃ…ない…と思う…。」


あ、申し子たちが出てきた。今日は全員一緒みたい。彼らは、ぼくを見るなり、溜息をついたり、困った顔をしたりしている。この光景も、彼らの顔も、声も、知っているはずなのに、申し子っていうことしか分からない。ずっと前から、頭がスッキリしなくて、何かが起きても、ぼうっと眺めることしかできない。反応することができない。


「あー…今回もまた、ほとんど忘れているな?」

帽子の男の子が、ぼくの目を覗きながら、慣れた様子で聞いてくる。


忘れる?何を?彼が何を言っているのか、ぼくにはよく分からなかった。ついさっき、何かあったような気がする。怖いこと?でも、それが何だったのか、思い出せない。ただ、胸の奥が、ひんやりとするような、嫌な感覚が残っているだけだ。


「大変だったんだよ!箱の子ってば、何千年ぶりかってくらいの膨張だったんだから!」

元気な女の子がはしゃいでる。膨張ってなんのことだろう。箱の子って、誰のこと?


「すごかったっすよね!すやちゃんの魔術には助けられてばっかっすよ!」

白衣姿の男の子が、静かな女の子を褒めてる。


「……。」

静かな女の子は何も言わない。寝たまま立ってるみたい。疲れてるのかな。


ぼくはみんなのことを知ってたはずなんだ。だって、申し子なのは分かるんだもん。ぼくも申し子で、みんなで一緒に…何をするんだっけ?


「みんなは…ぼくのことを知ってるの?」

考える力がない。ぼくに何が起こってるんだろう。


「ほらな、もう壊れかけだ。」

帽子の男の子が言う。ぼくの頭から生えてる何かを触って、難しい顔をしてる。


「…ミルジ、これはお前が見ろ。俺じゃ分からん。」

すると、白衣姿の男の子が、すごく嬉しそうな顔をして近寄ってきた。


「待ってました!…あ〜、これは…脳の一部を突き破って出てきてるっすね。痛そ〜…。」

ぼくの体は、ぼくが思ってるより酷いのかもしれない。腕、お腹、足…色んなところから、金属の棒みたいなのが、ぐるぐる生えてる。輪郭を辿ろうとしたけど、目が回って、辿れなかった。


元気な女の子は、退屈そうな顔をしてた。

「ねえ、いつまで繰り返すの?記憶を戻すために色々やってんのにさ、壊れるだけじゃん。」


よくみると彼らの顔に、疲労のようなものが見える気がした。


みんな、難しい顔をしてる。帽子の男の子はイライラしているみたいだった。

「お前はいいな、どんどん忘れていく。俺たちの苦労すら覚えていない…心底腹が立つ。」


繰り返す。忘れていく。彼らが話す言葉の端々に、“この状況が何度も繰り返されている”らしいことが、ぼくにも分かってきた。そして、どうやら、その繰り返しの中で、自分は何かを失っていくらしいことも。彼らが、飽き飽きしていることも。


「いい加減、思い出してよ。役目をさ。」

元気な女の子が、苛立たしげに言ってる。


「ずっとウジウジしてて嫌になっちゃう。 主様への忠誠心はないの?」


主様。役目…なんだろう、何かおそろしい、根源的な記憶があるはずなのに、ぼくはそんな大切なことも、忘れてるみたい。ぼくが分かるのは、ぼくたちが申し子っていうことだけなんだよ。


ぼくは何も言えなくなって、目を合わせないようにした。怖いから。嫌だから。ただ箱を抱えて、うずくまった。もう何も聞きたくないし、感じたくない。白い空間も、箱も、誰もぼくの味方をしない。


「どうするっすか、旦那…箱の子クンが縮こまっちゃったっすよ。また例の脳波刺激装置を使ってみます?」


「却下だ。前回、刺激量を誤って箱の子が発狂しただろう。二度とするな。」


「じゃあさ、呪文を使った洗脳は?試したことないよね!」


「ええ…でもルコクン…集中力ないっすよね、詠唱を間違えてどっかに跳ね返るかもしれないっすよ?」


「そうだ。失敗されるとどこに被害が行くかわからん。それも却下だ。」


「……また…役目を…聞く…?」


役目。その言葉を聞いて、やっとぼくは反応した。たぶん、思い出すのが一番怖いこと。なぜ怖いのかも、もうほとんど思い出せないけれど。


「それは何度も聞いたじゃん!ぜーんぶ無駄だった!」


「どうする…今回は静観するか?」


「は?なにそれ。つまんなーい。ルコちゃんもう飽きた。」


飽きた。彼らは、この場所にも、この繰り返しにも、飽きているらしい。でも、飽きても、ここに来て、ぼくに役目を思い出させようとしていたみたい。会話から全部分かることだった。でも、ぼくはその関わりとか、出来事なんかは全部覚えてなくて…たぶん、いつかは、思い出せないこと自体、思い出せなくなるんだ。


____



また時間が過ぎていく。申し子たちは、どこかに行くこともなく、それぞれのやり方で時間を過ごしている。元気な女の子は、ぼくの体に生えている金属をへし折って、折れた物を振り回して遊んでる。帽子の男の子と白衣姿の男の子は、この白い空間の構造について何か話し合っている。静かな女の子は、ぼくらを見ながら、静かに立っている。


ぼうっとしていたら、白衣姿の男の子が大声を出した。


「__じゃあ、いっそ箱の子クンの膨張を操作してしまえばいいんすよ!簡単っす!」

それは帽子の男の子との話し合いで、突然出された結論だったみたい。


「は?まて、空間は大丈夫なのか?」


「大丈夫っすよ、空間の強度はオレが上げれるんで!…数分だけっすけど!」


何か嫌な予感がした。白衣姿の男の子が、こっちに向かって走ってくる。針のような突起がついた、怪しい機械を持って。ぼくは怖くて、逃げようとした。


「すやちゃん!箱の子クンが逃げないようにしてくださいっす!」


「…はぁ……“箱の子はその場で動かない”…。」


ぼくはそれを聞いて、逃げようという気持ちが無くなった。怖いはずなのに、逃げたいのに、体が動かなくなった。ぼくは、動かないんだ。静かな女の子がそういうなら…ぼくは動かない…。


「ルコクン、洗脳して無理やり記憶を呼び覚ますこと、できるっすか!?」


「え!なになに〜!面白そう!任せて〜!」


白衣姿の男の子が、ぼくの真横に座った。元気な女の子は、ぼくの眼の前に立った。これから何が起きるか分からなくて、箱をぎゅっと抱きしめた。


「じゃ、オレは空間の強度を上げてから箱の子クンに機械を刺すんで、その後によろしくっす!」


「よく分かんないけど、ミルジが合図したら詠唱していいってことだね!分かった!」


帽子の男の子が、静かな女の子と一緒に、呆れた顔をしながらぼくを見てる。ねえ、ぼくはどうなるの?どうして助けてくれないの?怖いよ。お願い、何もしないで。


ぼくの願いとは反対に、白衣姿の男の子は、床を指で素早く叩いてる。それは規則的な動きのようで、何かを打ち込むみたいだった。すると空間全体がぼんやり光りだした。床が冷たくなる。


「よーし、じゃあ箱の子クン、痛いけど我慢するっすよ〜!」


白衣姿の男の子が不気味に笑う。そして怪しい機械を、ぼくの頭に差し込んだ。


瞬間。


電気を浴びたみたいな衝撃が、ぼくの体に流れてきた。痛い、熱い、冷たい。色んな感覚が襲ってくる。体の奥の方から、何かが込み上がってくる。込み上がってきたものが、無理やり抑え込まれる。変な感覚。まるで、内側をぐちゃぐちゃにされている気分だった。気持ち悪くなって、吐いた。それが血なのか、体の一部なのか分からない。視界がぼやけて、力が抜ける。ぼくは、箱を抱えたままうずくまった。意識が飛びそうになる。その度に、無理やり叩き起こされるような衝撃が走る。


突然、ぼくの体の中の何かが、ぼくを突き破って、たくさん出てきた。ぼやけた視界で見えるのは、棒状の金属が、空間のいたるところにぶつかりながら、空間を埋め尽くしていく様子だけだった。


「ぁが!!」

白衣姿の男の子の声。近くで、カタン、という音がした。


そうして衝撃が収まった。痛くなくなった。ずっと何が起きてるのか分からなかった。痛む体を起こして周りを見ると、白衣姿の男の子が、ぼくから出てきた棒状の金属に、お腹を貫かれていた。血が垂れている。息をしていない。ぼくの意思とは関係なく、今も、金属が生えてきている。金属が空間を埋め尽くして、暗くなっていく。


「…え、なに、ちょっと待ってよ…暗いの…嫌なんだけど…。」


暗闇が濃くなって行くにつれて、眼の前の元気な女の子の顔が、恐怖に染まっていった。ぼくは、自分からあふれて伸びていく金属を、自力で止めることができなくて、何もできなかった。


「……ぁ、あ、だ、だいじょうぶ…?」


ぼくは心配になって声をかけた。そのくらい、眼の前の元気な女の子が、怯えているように見えたから。他人事じゃなかった。恐怖の気持ちは、ぼくが一番分かってるつもりだ。それでも容赦なく、金属は溢れ出て、暗闇を作り出す。どうしようもなかった。やがて、視界は、完全に暗闇に包まれた。


元気な女の子の叫び声が聞こえる。


「やだああぁああ”!!こわい、やだぁ!!出しテ!!出シ”テ”ヨ”オ”!!!」


最初は、甲高い悲鳴だった。それが急に、海底から響くような、恐ろしい声になっていった。泡立つような音や、何かが折れる音が耳に届く。液体が顔にかかってきたり、ヌメヌメした物体がぼくの肌に触れてきた。今、元気な女の子に、明らかな変異が起こっている。


ぼくはやっと状況を理解した。ぼくは、一人を殺して、一人を恐怖の底に落としてしまったようだ。

理解しなきゃよかった。なんでこんな状況になってから、理解したんだろう。はやく、なかったことにしないと…そうだ、残っている二人は?もしかしたら、誰かこの状況をなんとかしてくれるかもしれない。


「あ、あの!」

ぼくは精一杯叫んだ。返事が返ってくることを期待して。そうしたら、帽子の男の子の声が返ってきた。


「…そう叫ばなくとも分かっている。暗闇になった時点で、ルコが発狂するのは安易に想像できるからな。」

落ち着いた声だった。むしろ、楽しんでいるかのようだった。


「全く…ミルジは後で説教だな。すや、生きてるな?頼むぞ。」


「……うん…大丈夫……。」



ガコン…ギギ…


(音が聞こえる。初めて聞いたはずなのに、何度も聞いたことがある気がする。)


ギ…ギギ…


(ああ、そっか、これでぜんぶ、なかったことになるんだ…。)


…。


……。


-・-- ・・ ・-・-・ ・-・・ ・- 


_____



「…あ、れ?」

ここはどこ?ぼくは何者なの?

確か、ぼくはもう人間じゃなくて…片目の女の子はどうなったんだろう。


あれ?片目の女の子って、誰だっけ…。


…。


_____


怖い。知らない人が、ぼくに、たくさん怖いことをしてくる。ぼくは何かを忘れてる。体から変なのが生えてる。分からないことばかりが増えて、理解したくないこともたくさん起きてる。何が起きてるの?


元気な女の子が、変な黒い物を持ってる。

黒い物から、大きな音が出た。


大きな音を合図に、帽子の男の子がおかしくなる。


「あ…ぁあ”…怖い…こわ…い…!来るな…!」


「えっ、あ、大きな音…まって!ごめん!ルコちゃん、わざとやったわけじゃ…!ぁ”。」


元気な女の子が、ひとりでに宙に浮かんで吹き飛ばされた。壁に叩きつけられて、ぐちゃぐちゃになる。あっという間にぼくも、首を掴まれて、そのまま持ち上げられた。掴んできた手は震えてる。きっと、怖かったんだな。大きな音が、怖いんだな。


「おれを…みるな……りかいするな…しんでくれ…!ころしてやる…!」


ああ、可愛そうだな。ぼくも怖いんだよ。きっとみんな、ぼくと同じなんでしょ?無理やり加護という呪いを押し付けられて、自分が人間じゃなくなってしまったなんて、理解したくないよね。


____


ガコン…ギギ…


-・ ---・- -・-- ・-・-- 


「……戻ってきた、また…。」

ぼくは何かを忘れてる。ただ、知らない人がおかしくなっていくのは分かった。みんな、ぼくが忘れてしまった何かを、思い出させようとして、失敗して、おかしくなって、繰り返されて。終わりはいつ来るんだろう。


「もう限界っす…皆も、オレが役立たずだって思ってるんすよね…!」

白衣姿の男の子が、ぼくたちを睨んでくる。突然、自分の頭に機械を突き立てた。


「ミルジ!何をやってる!それを離せ!」


「きっとオレ…脳にバグがあるんすよ!だからオレ、自分で“直す”んで!これで認めてくれるっすよね!?何もできないのは、脳にバグがあるからっす!ね!だから…嫌いにならないで…。」


きっとみんな、トラウマがあるんだ…。

ぼくも、とにかく色んなことが不安で、仕方なくて。何をしても駄目なんだ。

誰も否定してないのに、君は否定されてると思ったんだね。


繰り返し、繰り返し。


「……また…戻さなきゃ…。」


声が聞こえる。


静かな女の子が指を動かしたら、ガコン、と音が聞こえる。


・-・・・ -・-・・ -・ ・・・- ・-・ ・- 


____



ぼくはまた、戻ってきた。でも、なんで戻ってきたって分かるんだろう。


知らない人たちが話しかけてくる。みんな、何があったかを覚えている。ぼくだけが、何も覚えてない。何が起こったのか、なぜ思い出すのが怖いのか、その理由が分からないまま、ただ箱を抱きしめているだけ。


ぼくは人間じゃなくなって、何万年も生きている。彼らとのやり取り、役目、主様。全てが、初めて聞いたこと、体験したことなのに、聞く度に恐ろしい気分になる。ルコさんも、すやさんも、声の者さんも、ミルジさんも、みんな過去にぼくと関わったことがある人らしい。どうしてここにいるのかも、思い出さなきゃいけないことも、分からない。


人間だった頃の記憶なんて、もう何もない。遠い遠い昔のことだ。人間に戻りたいという気持ちは、出てこない。だって、何も覚えていないんだから。



この、どこにも辿り着かない、永遠に繰り返されるかのような時間の流れの中で。ぼくたちの関係は、破綻寸前だった。みんなお互いに言い争って、ぼくは怯えて何もできず、やがて殺し合いの騒ぎが起きた。純粋な暴力と、魔術のぶつけ合い。静かな女の子だけが、目を瞑って、眠るように立ち尽くしていた。その顔は、すごく疲れているように見えた。


静かな女の子は指を動かそうとして、腕をあげた。その時。


パキッ…


白い空間に、突然、音が聞こえた。音が聞こえた方を見ると、ひび割れた空間があった。


裂け目の中心から、光が見える。キラキラしてて、すごくきれい。ぼくは箱を持ったまま立ち上がって、吸い込まれるように一歩進んだ。みんなも、何が起きたのか分からないみたいで、争うのをやめて光の方を見た。


光の中から誰か来る。現れたのは、ボロボロの女の子。


見た目や雰囲気は、一瞬だけ、人間だと思った。でも、人間とはかけ離れているような気がした。何か、神聖なものや、異常な力があるのを感じた。破れかけの服の裾からは、黒い手のような形をした、ドロドロの液体が垂れている。顔は幼いけど、どこか生きることに疲れ切っているようで、片目を長い髪で隠していた。何よりも、彼女は、恐ろしいほど傷だらけで、腕や足には包帯が巻かれていた。


彼女がこの空間に足を踏み入れた瞬間、全てが凍結したかのように、誰も動けなくなった。彼女もまた、それ以上は動かない。ただ、そこに存在するだけで、圧倒的な力を感じる。


「…久しぶりね。」


彼女は、ぼくたちを静かに見つめてきた。


「こっちでは、どのくらいの時間が経ったのかしら…あら、知らない子たちもいるわ。貴方達も申し子なのでしょう?」


そう言って、帽子の男の子と、白衣姿の男の子を見た。

元気な女の子は少し考えて、ハッとしたような顔をした。


「…アンタ、花の子?」


元気な女の子がそう言うと、ボロボロの女の子は笑顔で答えた。


「今は、ヒガミという名前なのよ、ルコちゃん。」


「ふーん…で?その気持ち悪い力は何?神にでもなったわけ?人間ごときが。」


「神だなんて…そうね、私の世界では、女神の立場ではあるわ。」


ぼくはずっと、何も言わないでいた。話せる立場じゃない気がして。

でも、他の皆は堂々としてた。


「おいルコ、何なんだ。説明しろ。」


「捨てた人形が戻ってきたのを、どう説明したらいいのさ!」


「この力…確かに神に匹敵するっすよ…主様に危害を与えるつもりでは…?」


白衣姿の男の子が、機械を操作しながら言った。

ボロボロの女の子は興味深そうに、その機械を眺めていた。


「本当に面白いわね…邪神の申し子は。」



…空気が変わった。


ボロボロの女の子は、片手を前に差し出した。


すると。


白い空間に、突如として、巨大な肉塊が現れた。床に落ちて、べチャリ、という音が鳴る。黒くて、形が定まらない、おぞましい肉塊。


その肉塊を見た瞬間。


宇宙的な、冒涜的な力を感じた。


ぼくの記憶が、一気に溢れてくる。

これは、この方は…忘れてはいけない…。


「…あ…」


「…ぁあ…」


「…主様…!」


ぼくらは一斉に、その肉塊に向かって叫んだ。

主様。あのバラバラになった体こそが、ぼくらが仕える邪神の一部。どうして、忘れていたんだろう。どうして、みんなのことを忘れていたんだろう。ルコさん、すやさん、声の者さん、ミルジさん。みんな、ぼくの仲間で、主様の目覚めを待って、役目を果たそうと頑張ってきた。なのに…ぼくは…全部忘れて、裏切ったんだ…。


ボロボロの女の子…かつての花の子。ヒガミという女神は、感情の読めない瞳で、その肉塊を見た。そして、何も言わず、ただ差し出した手に、微かに力を込めたようだった。


すると、肉塊の表面に、白い光の文様が浮かび上がった。肉塊が、悲鳴のような音を立てて、ひび割れ始める。そして、砂のように崩れ落ち、空間に溶けるように、消滅していく。


邪神の体が、一つ、消えた。


その瞬間。


帽子の男の子…声の者さんが、頭を抱えて叫ぶ。怯えきった子どもの姿。理解を超えた何かを思い出したようだった。その瞳から、涙が溢れ出し、意味のない嗚咽を漏らす。


「ああああ!!やだ、いやだぁあ!!」


彼は膝から崩れ落ち、泣き叫ぶ。かつて彼を縛っていた全ての知識や冷たい思考が、ただ純粋な恐怖という感情の奔流に変わっていく。その姿は、ただの人間のようだった。邪神の支配から、開放された。


女神は容赦なく、邪神の体を何度も召喚して、同じ様に消し去った。

邪神の体が消えるたびに、申し子たちが一人、また一人と、開放されていく。


ルコさんの顔から不気味な雰囲気が消え、恐怖に歪んだ人間の子どもの顔になっていく。ルコさんは自分自身の手を見つめた。悲鳴のような、しかし声にならない声を出している。何万年も前に失ったはずの、無邪気だった頃の恐怖に、心を支配されているようだった。


ミルジさんは呆然としていた。だけどすぐに、彼は顔を手で覆い、地面に倒れ伏し、ただ嗚咽した。天才だった彼は、その知性を全て失ったかのように、現実への恐怖に耐えられなかったようだった。


彼らの思考や発言は、人間的なものになっていた。けど、何万年もの異形としての存在と、突然戻ってきた人間的な感覚のギャップは、彼らの精神には耐えられないのだろう。恐怖。後悔。悲しみ。忘れていた全ての感情が、耐えきれない苦痛のようだった。


女神は、感情を宿さない瞳で、その光景を見ていた。


再び現れた、おぞましい肉塊。


「…主様…ぁ”あ!」


恐怖と絶望に打ちひしがれる申し子たちの叫び声が響く。

女神は、動かないまま、それを消滅させる。


すると、申し子たちのうち、もう一人。


すやさんの瞼が、僅かに、しかし確かに開く。その瞳には、深い混乱と、そして、自らの存在の根幹に関わるような、圧倒的な恐怖が宿っていた。彼女は、ずっと眠っていた。しかし、夢遊状態で体験した全ての出来事を、確かに覚えている素振りだった。目覚めることで覚醒した意識が捉えるのは、戻ってきた人間としての感情。


「次で最後…私の役目は、これで終わるの。」

女神は微笑んでいた。彼らの悲鳴など聞こえていないようだった。


「あああ…あぁあぁ…!」


申し子たちの悲鳴、発狂が、空間に吸い込まれて消える。

ぼくは、邪神の体が消滅していくのを、見ることしかできない。


女神は、感情なく、最後の邪神の体を召喚した。


「あ…。」


ぼくは気付いた。この体は、ぼくを申し子にしたものだ。

これが消えたら、ぼくにも人間だった頃の記憶が戻るのかな。


___


邪神の体は、全て消え去った。


世界から、邪神の影響が完全に、そして決定的に排除された瞬間だった。

加護という名の呪いも、与えられた役目も、心の傷も、全て消え去った。


白い空間には、女神の異形な輝きと、人間的な感覚に打ちひしがれて泣き叫び、蹲る、かつての申し子たち、そして、今にも狂気に陥りそうな箱の子だけが残された。


女神の顔には、狂気的な喜びと達成感、そして満足感が満ちていた。

目的は達成された。この世界の悪は消え去った。


「…ねえ…めがみさま…?」


絶望と狂気に蝕まれた箱の子は、箱を抱きしめるのも忘れ、フラフラと女神の方へ歩み寄った。箱はカラン、と軽い音を出して、床に転がった。箱の子は女神の、その異形な姿を見上げる。


目の前の存在が、自分を、友達を、救ってくれるかもしれないという、かすかな希望。


「…ぼく…たち…にんげんに…もどれる…?」


箱の子は、縋るように女神に手を伸ばした。

人間に戻りたい。この場所から解放されたい。帰りたい。


「ふふ…。」


女神は微笑んだ。

人間的な感情と、遠い昔の記憶が呼び覚まされた申し子にとって、人間に戻ることは何にも代えがたい願いだった。救いを求めて、失った日々を求めて、ただ眼の前の女神に縋る。



少し離れた場所で、ただ一人、立ち尽くしている者がいた。


すや、という名を与えられた、申し子。


彼女は、他の者たちのように泣き叫んだり、完全に崩れ落ちたりはしていなかった。閉じていた瞼は僅かに開き、その瞳は、目の前で起きている光景、邪神の消滅、仲間たちの混乱、そして箱の子の願いを捉えていた。


顔に、びっしょりと冷や汗が滲む。身体が微かに震えている。彼女の中で、壮絶な葛藤が渦巻いていた。邪神から解放され、人間に戻るというかすかな希望が現れた。


しかし、彼女だけはそれを望まなかった。


彼女の人間時代の記憶は、他の子どもたちと違い、良い物ではなかった。両親からの暴力、逆らえない環境、孤立、いじめ。望んで邪神に心を奪われた過去が、彼女を逃れられなくしていた。


すやの手が、ゆっくりと、震えながら、しかし迷いのない動きで、宙へと向けられる。


その指先が模様を描き始める。


時間は止まる。


誰も気づかぬうちに、宇宙の法則を歪める、古い呪文。

それはこの空間内だけではなく、宇宙そのものすら支配する。


「……ごめんね…。」


すやの唇から、ごく微かに、しかし、確かに謝罪の言葉が漏れた。それは、誰に向けられたものなのか。箱の子か。他の申し子たちか。あるいは、女神か。それとも、全ての世界に、だったのか。



浮かんだ模様が、粒となって霧散し、広がる。


全てが、巻き戻っていく。



ガコン…ギギギ…ガコン…


-・・・- -・-・- ・・ -・・・- -・ ・・・- ・-・ ・- ・・-- 


宇宙の全てが、遡行する時間に取り込まれていく。


空間が、圧縮される。


視界が、白く塗りつぶされる。


感覚が、失われていく。


そして__



________



まるきり、なにもない場所だった。


ただ白い。四角い。狭いとも、広いとも思わない。

のっぺりとした白い空間。音もないし、匂いもない。風も吹かない。


ぼくは、この白い空間の、ちょうど真ん中にいた。


「あー…いやだな…。」


「また、戻っちゃったんだなぁ…。」


ぼくはなんとなく、そう思った。


ずっとずっと昔から、ぼくは、ここにいる。


床とも、地面とも言えるところにうずくまってる。抱きしめているのは、白い箱。ひんやりとしていて、軽くて、なんだかとても大事なもののような気がするけれど、どこで拾ったのか、思い出せない。


指先がかじかむような、冷たい不安がある。これを手放しちゃいけないって、頭が命令してる。それから、もっと、ずっと前の、ずいぶん遠い記憶の欠片のようなものが、時々、ちかちかする。


遠い記憶に、大切な何かを、忘れてしまった。おそろしいことだったような……。でも、それがどういう意味なのかも、やっぱり思い出せない。だけど、一つだけ、ハッキリ分かることがある。


ぼくは、もうとっくの昔から、人間じゃない。

・恐怖症、障害

全般性不安障害/暗所恐怖症/夢遊病/音恐怖症/偏執病(パラノイア)


・役目

体集め/監視/ループ/助言/管理

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