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第九話 頼られたい先輩

 朝のオフィスには、いつもと変わらぬキーボードの音が響いていた。橘はスーツの襟を整え、デスクの上の資料を鞄にしまうと、課長の席へ向かった。


「課長、取引先との打ち合わせに行ってきます」


 課長は手元の書類から顔を上げると、軽く頷いた。


「ああ、気を付けてな。向こうの担当、細かいとこ突っ込んでくるから油断するなよ」


「了解です」


 橘は短く返し、足早にオフィスを出ようとする。

 そのやり取りを聞いていた藤咲は橘に声をかけた。


「先輩、今日は一日外出なんですか?」


 橘は立ち止まり、藤咲の方をちらりと見る。


「ああ、戻りは夕方頃だな」


「そうなんですね……」


 藤咲の少し不安そうな表情を察し、橘が安川に目を向ける。


「安川」


「はい?」


「不本意だが、お前に藤咲の面倒を見てもらう」


「えっ、不本意ってなんですか!?」


 大げさにショックを受ける安川だが、その後、すぐに立ち上がって胸を張る。


「任せてくださいよ!藤咲ちゃんのこと、しっかりサポートしますから!」


 その様子を見た橘は深いため息をついた後、藤咲の方を見る。


「そういうわけだから。何もないとは思うが、何かあった場合は安川に相談……しろ」


(なんか最後すごい葛藤があったんですけど!?)


「わ、わかりました……」


 橘はもう一度安川の方を見ると、「……余計なことはするなよ」と言い残し、オフィスを後にした。安川は「は~い」と軽い調子で返事をしていた。

 藤咲は橘の背中を見送った後、仕事を再開する安川をちらりと見る。


(と、とりあえず一人でがんばろう……)


――。


 これまで、橘が会議でしばらく席を離れることはしばしばあったが、一日不在になるのは藤咲にとって初めてだった。

 少しの不安と緊張を感じつつ、その日の作業を始めた彼女だったが、しばらくすると落ち着きを取り戻し、順調に仕事を進めていた。


「ん~、いいねぇ、ちゃんと自分で進められてるじゃん!」


 向かいの席から安川がニコニコしながら声をかける。


「え?あ、まあ……なんとか」


「でもね、藤咲ちゃん、先輩を頼ってもいいんだよ?」


「え?」


「何か困ったことがあったら、遠慮なく僕を頼っていいからね!」


 頼れる先輩アピールをしながら、安川はぐいっと身を乗り出す。


「いや、大丈夫です。今のところ問題なく進んでますので……」


「ほんとに?困ったことない?」


「ないです……」


「何かあったら、すぐ聞いてね?あ、むしろ僕から何か手伝おうか?えっと、そこのファイル整理とか……」


 気づけば、安川の過剰な気遣いが始まっていた。


(うぅ、やりづらい……!)


「そういえばさ、集中しすぎも良くないよ?ちょっと肩回してリラックスしよう!」


 突然、ストレッチを勧められ、「えぇ……今ですか!?」と藤咲は思わず声を上げる。

 そんなやり取りを横で見ていた女性社員が、ため息混じりにピシャリと言い放った。


「……安川、邪魔しないの!」


 声の主は篠塚。藤咲たちより年上のベテランエンジニアだ。子育て中ということもあり、面倒見が良いが、時に容赦ないツッコミを入れることでも知られている。子どもがまだ小さいこともあり現在は時短勤務をしている。


「えぇっ、そんなぁ……」


 安川が不満そうに篠塚の方を見るが、篠塚は呆れ顔だ。


「そんな、じゃない。藤咲ちゃんが困ってるでしょ」


 藤咲は「うんうん」と素早く何度も頷く。よほど困っていたようだ。

 それを見た安川は少し肩を落とすと、黙って仕事を再開していた。

 篠塚のおかげで安川のアピールから逃れた藤咲だったが、集中を切らしたのか、ため息をついてがっくりとうなだれていた。

 その様子を見た篠塚は、藤咲の元に向かい声をかける。


「藤咲ちゃん。少し休憩しない?集中切れたでしょ?」


「……はい」


 二人はオフィスを出て、自販機のある休憩スペースへと向かった。


「安川くんのこと、ほんとごめんね」


「いえ、篠塚さんが謝ることではないですよ」


 そう言いながら、自販機を見てどれにしようかと迷う藤咲。すると、篠塚がさっとお金を入れた。


「奢るわ」


「いいんですか?」


「たまには先輩らしいこともしとかないとね」


 篠塚は笑いながらそう言うと、藤咲は「ありがとうございます!」とペコっと頭を下げた。


「実はね、安川くんは『頼るのが下手な新人』だったのよ」


 そう切り出した篠塚は思い出すように当時の事を話しだした。


――それは数年前のこと。安川がまだ新人だった頃――


「安川! なんで誰にも確認しなかったんだ!!」


 オフィスに響いた怒声に、安川は肩をすくめた。デスクの前で縮こまり、視線を落とす。

 目の前のディスプレイには、彼が書いたプログラムのコードが映し出されている。しかし、それは仕様を根本から誤解したまま作成されたもので、まともに動作しないばかりか、システム全体に影響を及ぼす致命的なバグを生んでいた。


「これ、連携処理が全然違うぞ!」

「納期直前になってこんなミスが発覚してどうするつもりだ!」

「このままじゃ納期どころか、クライアントに説明すらできないぞ……」


 先輩たちの間で飛び交う焦燥の声を聞きながら、安川は唇をかみしめた。

 入社したばかりの頃、彼は「自分で何とかしないといけない」と思い込んでいた。プログラミング未経験での入社だったため、先輩たちに頼るよりも、まずは独学で乗り越えようと決意していた。ネットの情報を漁り、なんとか自力で解決しようと努力した。


 しかし、会社ごとに異なる独自仕様や前提知識まではネットには載っていない。仕様について疑問が生じても、「こんな基本的なことを聞いては恥ずかしい」と思い込んでしまい、先輩に確認することができなかった。


(大丈夫、なんとかなる……調べればわかるはず……)


 そう思い込み、仕様の理解が曖昧なまま作業を進めてしまった。


「仕様が完全に違う。お前、どこを参考にして作ったんだ?」


 冷静な声が響く。


 橘だった。


 安川はぎこちなく顔を上げる。橘はいつもの淡々とした表情で、安川のプログラムを確認していた。


「あ……いや……、ネットで調べたコードを参考にしたんですけど……」


「一般的な記述方法でも動作自体はする。だが、今回はシステムの連携が絡む。社内の独自仕様を考慮せずに実装したら、他の機能と衝突するのは当然だ」


「……はい……」


 安川は小さく頷いた。もちろん、説明は受けていた。しかし、その独自仕様がなぜ必要なのかまでは理解できていなかった。


 「とりあえず動けばいい」と思っていた。


 その結果、仕様の理解を間違えたまま作業を進め、チーム全体を巻き込む大惨事を引き起こしてしまった。安川の作ったシステムが「とりあえず動いていた」ことが逆に仇となった。単独では問題ないように見えた。だが、最終的なシステム間の連携確認によって、その問題が発覚することとなった。当時安川を担当していた教育係も、自分の作業に追われて、安川のプログラムの細かい部分のチェックはできなかった。

 安川の判断ミスと、教育係の確認不足が重なり、最悪のタイミングで発覚した。


 周囲の先輩たちが「どう対応するか」とバタバタし始めた中、橘は腕を組みながら静かに話す。


「安川、お前、なんで誰にも聞かなかった?」


「……え?」


 言葉に詰まる。怒鳴られることは予想していたが、淡々とした問いかけが一番答えにくかった。


「聞くのが怖かったのか?」


 その言葉に、安川はぎくりとする。


「……怖いっていうか、その……こんな基本的なことは聞いたらダメかなって思って……」


「ダメだと誰かに言われたのか?」


「……いや……でも、迷惑になるかなって……」


「頼るのも仕事のうちだ」


 橘の声は静かだったが、妙に重みがあった。


「わからないまま進めて、後から大きなミスが発覚する方がよほど迷惑になる。今回みたいにな」


「……」


「仕事は一人じゃ完結しない。だから、頼るべきところはちゃんと頼れ」


 淡々とした口調だったが、そこに怒りはなかった。むしろ、安川を突き放すのではなく、考えさせようとする声だった。


 その後、チームで手分けをし、安川が誤った仕様で制作したシステムを修正していく。

 安川は橘にアドバイスを受けながら修正作業を進めた。


「この部分はうちの仕様で書き直せ」

「条件分岐のところもそうだ、今のままだと連携処理が動かない」


 橘は決して「お前のせいでこうなった」とは言わなかった。


 深夜にようやく修正作業が終わり、なんとか納期ギリギリでシステムを完成させることができた。


「ふぅ……なんとか間に合ったな」


「す、すみません……本当に……」


 安川が頭を下げると、橘は疲れたように肩をすくめた。


「次からは、わからないことがあったらちゃんと聞けよ」


「……はい」


 それ以来、安川は"分からないことは確認する"を徹底した。小さなミスは相変わらずあったが、大きな事故は未然に防げるようになった。

 また、この事をきっかけにして、いつか後輩ができた時は、「新人が頼りやすい先輩になろう」と決めた。

 誰かが困っていたら、すぐ声をかける。

 そして、「頼られたら、全力で助ける」。

 そうやって「頼られる側」になろうと、努力するようになったのだった。


――。


「……ていうことがあって、たぶん、藤咲ちゃんの力になりたいって考えてるんじゃないかな?」


「そうだったんですね……」


「それでね、前に派遣の子が来てたことがあったんだけど、その子も藤咲ちゃんと同じように絡まれていたのよね。でも、その子が安川くんに一度頼ったら満足して落ち着いたのよ」


「……それ、本当ですか?」


「ほんとほんと。試しに一回質問とかしてみたら?」


「じゃあ、一回だけ……」


 二人は休憩を終え、それぞれのデスクへと戻る。

 藤咲は篠塚のアドバイスを受け、安川への質問を考える。


(そうはいっても、質問が無いのに質問を考えるのって難しくない!?)


 質問の内容を悩んでいた藤咲だったが、今度は「なんでこんなことに時間を」と頭を抱えだした。


(もういいや!適当に質問しよ!)


 藤咲は安川のデスクへ向かった。


「安川先輩、ちょっといいですか?」


「おぉっ!もちろん!」


 安川は待ってましたと言わんばかりの顔で藤咲を見る。その期待の表情を見た藤咲は少し後ずさりするが、意を決して質問をした。


「え、えっと……。修正報告の内容ってどう書けばわかりやすいですかね?」


「いい質問だねぇ~藤咲ちゃん。それはとても大事なことだよ~」


 そう言うと、過去に自分が作成した修正報告のファイルを画面に表示し、得意げに説明を始めた。

 最初は無表情で聞いていた藤咲だったが、思いのほか分かりやすい説明に、最後には「ありがとうございます!」と素直に感謝していた。

 説明を終えた安川は、「頼ってくれて嬉しいよ!」と満足げな表情を浮かべる。

 その後、気が済んだのか、藤咲へのちょっかいはすっかり落ち着いた。


 藤咲が席を立ったついでにそのことを篠塚に報告すると、篠塚は「だから言ったでしょ?」と微笑んでいた。


――。


 夕方、橘がオフィスに戻ってきた。

 課長に軽く報告を済ませた後、藤咲のデスクへと向かい、不在時の様子を尋ねる。


「どうだった?」


「問題なく進めました!」


「そうか」


 橘が軽く頷いたその時、横からやたらと機嫌のいい声が飛んできた。


「橘さーん。藤咲ちゃんが僕を頼ってくれたんですよ!」


「……そうなのか? 藤咲」


「え?ま……まあ、そうですね……」


 藤咲は少し言い淀みながら答えるが、その表情はどう見ても複雑だった。一方、満面の笑みを浮かべる安川。


「まぁ、よかった……のか?」


 二人の対照的なリアクションに、橘は微妙に首をかしげた。

 その時、橘のデスクの内線が鳴った。


「はい、橘です。……ああ、ちょっと待ってください、安川にまわしてもらえますか?」


 そう言って受話器を置くと、すぐ後に安川の内線が鳴り出す。


「……安川、お前出ろ。昨日打ち合わせした顧客から外線だ。今担当の営業が不在だからお前が代わりに交渉してくれ」


「ああ。はいはい。任せてくださーい!」


 安川はその後すぐに鳴った内線に出て、いつもの軽い口調とは違い、落ち着いた声で話し始めた。


「お世話になっております。安川です。ええ、納期についてですね……予定より一週間前倒しですか?」


 安川は相手の意図を汲み取りながら、会話を進める。

 藤咲はいつもとは違う安川の様子に耳を傾ける。


「なるほど。確かに、早めの納品ができればそちらのスケジュールも助かりますね。ただ、現状だとテスト期間がかなり短くなってしまうので、品質の保証が難しくなるかと……」


 一拍置き、相手の言葉をしっかり聞く安川。


「……そうですね。もしどうしても前倒しにする場合、テスト工程を圧縮する形になります。その場合、初回リリース後の迅速なバグ対応が必須になりますが、そちらの運用体制として対応は可能でしょうか?」


 相手が躊躇し始めたのを察し、安川はさらに穏やかに畳みかける。


「ええ、現実的には三日短縮ならまだ調整可能かもしれません。ただ、一週間となるとリスクが大きいので、後々の手戻りの可能性も考慮に入れていただいた方が……」


 少しの間が空いた後、相手の妥協点が見つかったようだった。


「ありがとうございます。では、スケジュールを三日早める方向で進めさせていただきます。その分、リリース後のサポート体制を強化する形でご対応いただけるなら、こちらも最大限調整します。……はい。失礼します」


 安川はにっこりと微笑みながら電話を切った。


「ふぅ、まあ想定内の交渉だったね」


 受話器を置いた手で軽く肩を回しながら、どこか余裕のある笑みを浮かべる。


「助かったぞ安川。お前の交渉術だけは認めてる」


 橘が腕を組みながら言うと、安川は得意げに口角を上げる。


「でしょ!?」


 ニヤリと笑いながら椅子をゆったりと回転させるが――。


「プログラマーとしては落第点だがな」


「それは言わないでくださいよ~」


 ピタッと椅子の回転が止まり、安川はがっくりと肩を落とした。

 そのやり取りを横目で見ながら、藤咲は思わず目を瞬かせた。


(誰にでも得意分野ってあるんだなぁ……)


 しかし、ふと疑問を感じてぽつりと口を開く。


「安川先輩、交渉得意なら営業に行った方がいいんじゃ?」


 ぴたりと動きを止めた安川が、慌てて手を振る。


「いやいやいや!システムエンジニアだって交渉スキルは必要なんだよ?」


「そうなんですか?」


 藤咲が興味深そうに首を傾げると、橘が腕を組んだまま冷静に口を開いた。


「うちはプログラマーとしての作業も兼任するが、本来システムエンジニアの仕事はプログラムを書くことだけじゃない。システム全体の設計や仕様を決めるのがメインの業務だ」


「設計や仕様……ですか?」


「ああ。顧客が『こんなシステムが欲しい』と言っても、そのままの形で作れるとは限らない。技術的な制約もあるし、予算やスケジュールの都合で、すべての希望をそのまま実現するのはまず無理だ」


「なるほど……」


「だから、システムエンジニアはまず顧客と話し合って、希望を実現可能な形に落とし込む作業をする。その過程で、納期やコスト、システムの運用方法まで細かく交渉することになるんだ」


 藤咲は ふと考え込みながら、疑問を口にした。


「じゃあ、例えば……顧客が『このシステムにAIを搭載したい!』って言ってきたら?」


「その場合、『本当にAIが必要なのか』を確認するところから始めるな」


「えっ、必要だから言ってくるんじゃないんですか?」


「必ずしもそうとは限らない。『AIが流行ってるから使いたい』みたいな理由で言ってくるケースもある。実際には、普通の検索機能や簡単な条件を組み合わせた処理で十分なのに、高額なAI開発をしようとしていることもあるんだ」


「……提案とか、調整とか、営業みたいですね……」


「まあ、似た部分はあるな。営業の交渉は契約を取るのが目的だが、システムエンジニアの交渉は"システムをちゃんと動く形にする"のが目的だ」


「そっか……システムエンジニアって、ただシステムを作るだけじゃなくて、その前の段階から仕事が始まってるんですね……」


「そういうことだ。そして、いずれはお前も取引先との打ち合わせに参加してもらうことになる。」


「ええっ!? 私もやるんですか!?」


「当然だ」


「うぅ……」


「まあ、最初は俺について取引先を回ることになる」


藤咲はほっと息をつきながら、少しだけ安心した表情を見せる。


「それなら……なんとか……」


「とはいえ、それはもう少し先の話だ。 今は、既存のシステムの修正をしながら、システムで何ができるのかを学んでおけ」


「……わかりました!」


「さて、仕事に戻るか」


橘の言葉に、オフィスの空気が落ち着きを取り戻す。

藤咲も自席へ戻り、パソコンの画面を見つめた。


(システムエンジニアって想像以上に大変……)

(でも、今、一番の問題は――)


「藤咲ちゃん、何か困ったこと――」


「ないです!」


「橘さーん。藤咲ちゃんが冷たいんですけど~!」


「安川。お前は自分の仕事をしろ!また納期前に大騒ぎすることになるぞ?」


「うっ、それは嫌なので仕事しま~す……」


(安川先輩をうまくかわすスキルも身につけないと……)


 そんなことを考えながら、藤咲は仕事へ戻ったのだった。


――今日の藤咲メモ 安川先輩は頼られたい (人を頼るのっていろんな意味で難しい!)

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