第八話 ホウレンソウって何ですか?
「はい、わかりました。……なんとか午前中に……、はい、失礼します。」
橘が少し焦るような声で電話の応対をしている。その様子に、藤咲は自分の作業を中断し、耳をそばだてた。
(午前中に対応しないとマズいってことかな……?)
先日も、一本の電話から職場が急に慌ただしくなったことがあった。取引先の業務が止まるという最悪の不具合が発生し、皆が必死な形相で対応に追われていた。
(あの時は、私、何もできなかったなぁ……)
新人の藤咲は、ただ成り行きを見守るしかなかった。
(まぁ、今回も私は……)
「藤咲」
突然名前を呼ばれ、ビクッと肩を震わせる。振り向くと、橘がこちらを見ていた。
「緊急事態だ。お前にもやってもらうことがある」
「えっ、私もですか!?」
「システムの不具合で、一部の業務が止まってると取引先から連絡が来た」
「え、やばくないですか?」
「だから緊急事態だと言った。俺はデータベースのチェックをするから、お前はシステムの不具合を確認してくれ。詳細はメールを送った」
「わ、わかりました!」
「あと、不具合箇所の目星がついたら、一度報告しろ」
「は、はい!」
(午前中って言ってたよね?とにかく急がないと!)
――。
時刻は十時。
藤咲は橘から送られてきたメールを確認する。
不具合が発生するシステム――「在庫管理」
不具合の症状――「集計処理実行後の集計結果が入力データと一致しない(添付画像参照)」
発生頻度――「最近になって急に発生」
藤咲はまず、不具合の症状の確認を始めた。システムにテストデータを入力して集計処理を実行する。
(あれ?症状が出ない……?おかしいな……)
とりあえずコードを追って怪しい所を探す。
(えっと、集計しているのはここの処理かな?)
変数の値をログに出力し、一つずつ確認する。
(……うーん、問題ないなぁ……)
何回か確認するが、問題は見つからない。
(先輩に聞いた方がいいかな?でも、今は忙しそうだし……)
橘をチラッと見ると、いつもより険しい表情で画面を見つめていた。
(もう一度確認しよう!私のチェックの仕方が悪いかもだし。もたもたしてたら午前中に終わらないよ!)
焦るばかりで、時間だけがどんどん過ぎていく。
――。
時刻は十一時。
藤咲は、頭を抱えながら机に肘をつき、深いため息をついた。
(ログも問題ない……処理も問題ない……全然わかんない……)
「藤咲」
「ひゃっ!? は、はい!」
橘が話しかけると、藤咲はビクッと驚いて返事をする。
「進捗はどうなってる?」
「え、えっと……不具合の再現自体ができなくて……」
「怪しい所は見つかったのか?」
「いえ……。でも、不具合が発生している処理の場所はわかりました」
「どこだ?」
「えっと……ここです」
橘が画面を覗き込み、藤咲が示したコードを目で追う。
そして、何かに気付くと、大量のテストデータを入力し、不具合の報告のあった集計処理を実行する。
「え?不具合が出てる……さっきは何度やっても出なかったのに」
「納品時は問題なかったが、納品後に状況が変わって不具合が発生したパターンだな」
「どういうことですか?」
「このシステムが納品された時、入力データは最大でも数十件で、それ以上増える事はないと思っていたんだろうな。データは百件までしか集計しないようになっている」
「あ!だからさっき先輩は大量にデータを入力して……」
「業務の拡大で、百件を超えるデータが入るようになったんだろうな。しかし、プログラムは百件までしか集計していないから、結果がずれる」
「そういう不具合もあるんですね……」
「簡単な不具合だろうと藤咲に頼んだが、意外と厄介だったな」
「うぅ……。まったくわかりませんでした」
「しかしだ。藤咲」
橘は藤咲をじっと見つめる。
「はい……」
「それよりも俺が何を言いたいかわからないか?明らかにおかしい状況だったはずだ」
「えっと……早く相談しろってことでしょうか?」
「そうだ。やってる途中にそう思わなかったのか?」
「急に仕事が来たこともあって、なんか……焦ってしまって……」
「そうか……。まぁ、不具合箇所の絞り込みはできていたから、そこは評価できるが……」
「今度はすぐに相談します……!」
「ああ、相談しようか迷った時点で相談するようにしてくれ。俺が忙しそうにしていたとしても、躊躇するなよ」
「はい。そうします!」
「修正は任せる。業務も止まってることだし、スピード重視で仮対策にするか……」
「どう修正すればいいですか?」
「データは千個まで集計できるように変更して、集計処理時に千個以上のデータがある場合はエラーメッセージが出るようにしておいてくれ。メッセージ内容は任せる」
「わかりました!」
「あと、念の為、他の処理も同様の不具合が発生する可能性がないか確認してくれ」
「はい!」
「よし、頼んだぞ」
――。
そして、十一時五十分。
「先輩!終わりました!!!午前中に納品しないとマズいって言ってましたけど、ギリギリ間に合いました!」
(先輩も喜んでくれるかな!)
しかし、橘は真剣な表情で首をかしげる。
「は?」
それを見た藤咲も橘と同じ方向に首をかしげる。
「え?」
橘が淡々とした口調で言う。
「午前中に納品なんて俺は言ってないぞ?」
「……えっ?」
(嘘でしょ……?)
「え?だって『なんとか午前中』って……あ!」
藤咲の脳内で、橘の電話のやり取りがリピートされる。
『……なんとか午前中に……、はい、失礼します。』
(それだけ!?それだけで『午前中に納品しなきゃ!』って思い込んだ!?)
「ああ、『なんとか午前中に』っていうのは、俺がやっていたデータベースのチェックだ」
「……そうなんですね……私のバカ……」
「まぁ、結果的に早く終わったんならいいんじゃないか?」
「そんなぁ!!!!!トイレも我慢してたのに!!!飲み物も買いに行かなかったのに!!!」
藤咲は机に突っ伏し、肩を震わせた。
「……無駄に頑張った時間を返して……」
「お前が早く相談していればもっと早く終わったけどな」
「ぐぬぬぬぬ!!!」
周囲の同僚たちは、何が起きたのかわからず、藤咲の奇妙な嘆きに首をかしげた。
――。
その日の午後。
「先輩……でも、やっぱり忙しそうにしてると、話しかけづらいんですよ……」
橘はその言葉に一瞬眉を上げたが、すぐに淡々と答える。
「気にするな。誰だって新人時代はあったんだ。相談することの大事さは皆わかってるから――」
「え、でも、先輩が忙しい時に話しかけたら、すごい怖い顔されそうです……」
「……は?」
橘は思わず固まる。
藤咲は、そんな橘を見ながら、指をモゾモゾ動かしつつ小声で続けた。
「なんかこう……キーボードを勢いよく叩きながら、画面を鋭い目で睨んで……私が『あの……』って言った瞬間に、目だけギロって動いて……無言の圧を感じるというか……」
「……お前、それ俺のことか?」
「先輩以外にいないです!!!!!」
藤咲が即答すると、周囲から「確かに……」「わかる……」と、小さな共感の声が漏れる。
橘は静かに腕を組んで考え込んだ。
「……そんなに怖いか?」
「いやいやいやいや、怖いですから!!!!!」
「俺はただ集中してるだけなんだが……」
「でも、相談するのに深呼吸しないといけないレベルですよ!?」
「そんなにか?」
橘は納得がいかない様子だったが、近くの同僚たちが「いや、めっちゃわかる」「俺も最初ビビってた」と口々に言い出すと、微妙に気まずそうに視線をそらした。
「……藤咲」
「はい?」
橘は静かに、しかし力強く言った。
「忙しい時に話しかけられても、気を悪くしたりしない」
「おお、さすが先輩……」
「ただし、話しかけた後の内容次第では怒る」
「えぇぇぇぇぇ!!!!!??」
「例えば、"安川先輩のことどう思います?"とかどうでもいい話だったら、お前は机ごと廊下に移動することになるぞ」
「怖い!!!!!」
(でも安川先輩のやらかしも気になる!)
「だが、業務の相談なら問題ない」
「ならいいんですけど……」
「お前の態度次第で、俺は優しい先輩にもなるし、鬼にもなる」
「鬼!?……じゃ、じゃあ、たまに実家の猫の画像を見せるので優しく――」
「なに!!!!!」
橘の目がギラリと輝く。
「……今は?」
「え、今!?」
「はやく!」
藤咲は渋々スマホを取り出し、猫の画像を見せる。
橘は無言で凝視したまま動かない。
「……仕事してくださいよ、先輩」
藤咲が画像を閉じてスマホを置くと、橘はしぶしぶ仕事を再開した――が、橘はチラチラと藤咲のスマホを気にするように視線を送り続ける。
(あれ……これ、前にもあったような……)
そうして、また静かな攻防が始まるのだった。
――今日の藤咲メモ 報告!連絡!相談!(相談は業務のことだけ!)