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第七話 私、もうクビですか!?

 オフィスに響くのは、リズミカルなキーボードの音、時折聞こえる書類をめくる音、遠くで交わされる短い会話。


(前はこの静けさになんとなく緊張してたけど……)


 今では、それがいつもの風景に感じられるようになっていた。


 入社から二週間。初日はただただ周囲の様子を伺うことで精一杯だったが、今では仕事に集中しながらも、ふとした瞬間に職場の細かい変化に気づく余裕も出てきた。


(前は全然気にする余裕なかったな……)


 初日に橘から渡された課題はすべて終わった。まだ不安な部分はあるが、橘に確認してもらいながらやってきたおかげで、少しずつではあるが成長している実感もある。


「先輩、これで課題はすべて終わりってことですよね!」


 横で資料を確認している橘に藤咲がそう言うと、橘は「そうだな」と短く答える。藤咲の課題が終わったため、二人は藤咲の席で軽いミーティングを行っていた。


「長かったなぁ……。でも、心地よい達成感!」


 そう言いながら、藤咲はぐっと軽く拳を握りしめ、小さくガッツポーズを作る。口元には自然と笑みが浮かぶ。


「おいおい。これで満足されても困るんだが」


 橘が呆れたように言うと、藤咲はにやりと笑いながら、「わかってますよー」と軽く肩をすくめる。


「よし、じゃあ、今日から実務に入ってもらうぞ」


「えっ、もうですか!?」


「そろそろ慣れてきただろうし、いつまでも課題をやらせるわけにもいかないからな」


 橘はそう言いながら自分のデスクに戻ると、新たな資料を手に取って戻ってきた。


「これからお前に任せる仕事には納期がある」


「はい」


「後半の課題では期限を設定したが、過ぎても実害はなかった」


(期限を過ぎたら嫌な顔されたから、私には損害があったけどね……)


「でも、これからは違う。納期に遅れたら、取引先に迷惑がかかるだけじゃなく、最悪、他の人間の仕事まで止まることになる」


(そ、そうだよね……)


 藤咲が少し緊張した面持ちで次の言葉を待っていると、橘はなぜか肩を落とす。

 そして、遠い目をしながらぼそっと呟く。


「……まあ、それより問題なのは、納期の延長をお願いしなきゃいけないことなんだけどな……」


(あれ?そっちが本題……?)


「電話するとな、『なんとかならないですかねぇ?』とか言われるんだぞ……。こっちだってなんとかしたいけど、無理なもんは無理なんだ……!」


 橘は眉間を押さえ、ため息をつく。


「何度もそういうやり取りをしてると、もう"そっちがどうにかしてくれよ!"って言いたくなる……」


(先輩、めっちゃ心削られてる……)


「向こうの仕様変更のせいで遅れることだってあるんだ……。それなのに、こっちが納期延長をお願いすると『困ります』って言われるんだぞ……。いや、そっちが変えたせいだろ……」


 橘はまた深いため息をついた。


(理不尽すぎる……)


「えっと……ちなみに私が納期に間に合わなかったりしたら……?」


 橘がスッと顔を上げ、真剣な表情で藤咲を見る。


「クビだ」


(え!?こっちも理不尽なんだけど!?)


「冗談だ」


(うぐっ。相変わらず冗談がわかりづらい……)


「いや?クビはあながち間違いではないな」


(えっ?どっち?)


「そんなことを繰り返していたら、どの道だれかのクビは飛ぶ」


「ああ、なるほど……確かにそうですよね……」


「どこかの誰かさんのせいで、一度やばかった時があったんだ……」


 橘はそう言って向かい側の安川のデスクの方に目を向ける。運良く安川は席を外しているようだ。


(ああ……。安川先輩がよくいじられてるのは前に何かあったんだね……)


 橘は藤咲をじっと見つめ、一拍置いてから言った。


「責任を取るのは上司だからな。プレッシャーをかけるつもりはないが、つまらないミスを繰り返すようなことだけはしないでくれよ」


 藤咲は「はい……」と頷いたあと、疑問を感じて質問する。


「あれ?でもミスした人が先にクビになるんじゃ?」


「状況によるだろうな。基本的には、適切な指導をしなかったとか、対策を怠ったとかの理由で、まずは上司に責任が行く」


「その後、指導をしても変わらない、そもそも能力不足、となった場合は本人がクビだろうな」


「そうなんですね。少し安心しました……」


「だからって気を抜くなよ。納期が守れない状態が続いたら、最悪会社ごと消えて全員クビだ」


「それは確かにそうですね……」


「よし、それじゃあ、俺が担当している業務から比較的簡単なものをお前に振り分ける。少し説明するから聞いてくれ」


「わかりました!」


 そうして橘は藤咲に新しい業務の説明を始めた。

 藤咲は初めての実務に緊張と不安を抱きつつその話に耳を傾けるのだった。


「とりあえず、最初の目標は"クビにならないこと"だな」


「いきなり崖っぷちなんですけど!?」


 橘の冗談(なのかどうか判断が難しい)が、藤咲の不安をさらに煽るのだった。


――。


 午後になり、藤咲が初めての実務に取り組んでいると、背後から声が聞こえた。


「橘さん、ちょっといいでしょうか?」


 振り向くと、そこには総務部の飯島が立っていた。少し緊張した様子で、手には何か書類を持っている。

 声をかけられた橘が振り向いて飯島を確認すると、手を止めて返答する。


「はい、なんでしょう?」


「総務の飯島です。出張の旅費申請に入力漏れがあったので、修正をお願いできますか?」


 飯島は持っている書類を橘が見えるように差し出す。


「今年度からシステムが少し変わったんです。ここが前までは自動入力されていたんですが、手動で入力が必要になったので」


「……全然気づかなかったな。申し訳ない。すぐ修正します」


 橘は素直に謝り、社内システムを起動し修正を行っていた。

 飯島はその様子をじっと見ていたが、藤咲の視線に気づくと、少し焦ったように藤咲を見た後、腰のあたりで小さく手を振って挨拶する。それを見た藤咲も同じように小さく手を振って挨拶を返した。


「これでいいですか?」


 橘は修正が完了すると飯島に確認を促す。


「はい、大丈夫です。ありがとうございました」


 飯島はそういった後、軽く会釈をし、戻っていった。


 その一部始終を見ていた藤咲がからかうように話す。


「先輩、飯島さんにめっちゃ丁寧でしたね」


「ん?知り合いか?」


「え?私の同期ですよ。何度か見てると思いますけど?」


「ん……?ああ、たまにお前と一緒にいるやつか」


「私に話す時は雑なのに……」


 藤咲が口を尖らせて不満そうに言う。


「まあ、別の部署の人だからな」


「……じゃあ先輩、私にも丁寧に話してみてください!」


 橘は顔を引きつらせつつ話し出す。


「……藤咲……さん、今日のしご……お仕事の進捗は、ど……いかがでしょうか?」


 その様子に、藤咲は思わず吹き出してしまった。


「ぶっ!ダメですダメです、もういいです!先輩はいつもの感じでいてください!」


「そこまで笑うことか?」


 橘は少し不満そうに眉をひそめるが、すぐに作業に戻った。

 一方の藤咲は、なんとか気持ちを切り替えようとパソコンに向かうものの、先程の橘のセリフが頭をよぎり、ニヤけそうになるのを必死でこらえていた。

 

「……ダメだ。全然集中できない……」


 溜息混じりに呟いたその声に、橘が一瞬だけ手を止める。


「納期に遅れたらクビな?」


「はい……」


 冗談とはわかっていても、冗談ではすまない雰囲気を感じ、一気に冷静になる藤咲だった。


――今日の藤咲メモ 納期は絶対守る! (安川先輩は結局何したんだろう……)

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