第六話 お先に失礼します
パソコンの画面に映るコードを見つめ、藤咲は集中していた。橘から渡された課題に取り組み、どこをどう直せばいいのかを考えながら、慎重にキーボードを叩いていた。
(あ~、また変数の初期化忘れてる……)
カタカタとキーボードを打ち、コードを修正する。画面の中のプログラムが思い通りに動くと、小さな達成感が湧いてくる。課題を一つ終わらせる度、藤咲の自信となっていた。
「おい、終わりだぞ」
低く落ち着いた声に、藤咲はハッとして顔を上げた。
「えっ?」
「定時だ。もう帰っていいぞ」
橘の声に、藤咲は慌てて周囲を見回す。時計を見ると確かに定時を過ぎていた。だが、それよりも驚いたのは――
(え……?みんな普通に仕事してる……?)
席を立っている人はほとんどおらず、近くの同僚たちは画面を睨み、キーボードを叩いている。誰も帰る気配はない。
「先輩、皆さんまだ残ってますよ?」
戸惑いながら隣の橘を見ると、彼は相変わらずの表情でパソコンに向かいながら淡々と答えた。
「うちは残業が普通だ。採用時に聞いてなかったか?」
「業界的にそうだってことは知ってましたけど……」
「まぁ定時になった瞬間に帰るって人がいないだけで、少ししたら帰るやつもいるはずだ」
「……そうなんですね」
「お前は新人だから、しばらくは定時退社でいい」
「わかりました……」
「今はまだ、な」
橘が軽く口元を緩める。
「う……いつから残業が必要になるんでしょうか?」
「今の課題が終わったら、実務に入ってもらう。そうなったら、好きなだけ残業できるぞ」
「自ら残業という沼に落ちる気はさらさらないんですが……」
「冗談だ。しばらくは定時で帰れるはずだ。安心しろ」
「はぁ……」
少しホッとする藤咲。だが、周囲の熱心に働く同僚たちを見渡すうちに、胸の奥に一抹の不安が広がる。
(あ……この人たちは既に残業という沼にハマってるんだね……そして既にそこが沼だという認識すら無くなっているのね……)
「残業するのが嫌そうだな」
「え?普通そうじゃないんですか?」
「まぁ、普通はそうか」
「先輩は残業が好きってことですか?」
「好きってわけじゃないが、通常の勤務時間より給料が多いしな」
「えっ……?」
「だから、残業は"ちょっとお得"くらいに思ってる」
(……先輩はそう自分に言い聞かせて頑張ってるのかな?)
「まぁ、家に帰っても特にやることないしな」
(違った、こっちが本音っぽい……)
「ちなみに、残業が常態化すると、逆に定時で帰るやつが心配される」
「心配……?ですか?」
「そうだ。ただ帰りたいだけなのに、"体調悪いのか?"とか"転職するのか?"とか、余計なことを言われる」
「なるほど、定時で帰るのが最早異常なんですね……」
「まぁ、とにかく、お前は新人っていう立派な理由がある。新人のうちは定時で帰るのが仕事だと思って気にせず帰ってくれ」
「わかりました……。お先に失礼します」
「ああ、お疲れ」
藤咲は帰り支度を終え、周りに向かって「お先に失礼します!」と元気に挨拶すると、同僚達から「お疲れー」「お疲れ様ー」と藤咲へ声が飛ぶ。その声に、初日が終わった安心感と充実感を感じつつ、オフィスの出口へ向かった。
オフィスを出てエレベーターで一階に向かっていると、総務部のある三階で飯島がエレベーターに乗ってきた。
「あ、藤咲さんも今帰るところ?」
「うん、ちょうど終わったところ!」
「駅まで一緒に行かない?」
「うん!一緒に行こう!」
同期のお誘いに少しほっとした藤咲は、飯島と一緒にオフィスを出た。
――。
会社のビルを出ると、外はすっかり暗くなっていた。
「はぁ、やっと解放されたー」
飯島がそう言って軽く背伸びをする。その言葉に、藤咲も「疲れたね」と頷く。長い一日を乗り越えた達成感と、心地よい疲れがじんわりと体に広がっていた。
二人は並んで歩き出す。会社を離れ、通りに出ると、昼間とは違う風景が広がっていた。
藤咲が足を止め、周囲を見渡しながらつぶやく。
「この道、昼間とは雰囲気違うねー」
隣で歩く飯島も、辺りを見回しながら頷いた。
「そうね……昼間は気づかなかったけど、こんなに居酒屋多かったんだね」
駅へ向かう通りには、店の明かりが煌々と輝き、仕事終わりのスーツ姿のサラリーマンたちが談笑しながら歩いている。信号待ちの間、周囲を見回すと、行き交う人の流れにどこか圧倒されるような感覚を覚えた。
ふと、藤咲は今日のことを思い返しながら、ぽつりと呟く。
「今日、いろいろ大変だったけど、なんとかやっていけそうかも……」
そして、隣の飯島に視線を向け、そっと尋ねる。
「飯島さんは?」
飯島は少し眉を寄せながら、肩をすくめた。
「私はちょっと不安……かな」
「そうなの?」
「業務を教えてくれた先輩が結構厳しくて……」
「そうなんだぁ」
藤咲は相槌を打ちながら、飯島の話に耳を傾けた。
「説明がすごい早口で、メモを取るのも待ってくれないし……どんどん先に行くから、今日一日ずっとあたふたしてたよ……」
「え、それ大変じゃない?」
「そうなの……で、聞き返したら、『マニュアル読めばわかる』って言われて……」
「えぇ~……冷たいね」
「ね……もうちょっと優しく教えてくれてもいいのに……」
飯島がため息混じりにこぼすのを聞きながら、藤咲は「大変だねぇ」と心配する。
「藤咲さんの教育係って……橘さんだよね?午後はどうだった?」
「あれ?知ってるんだっけ?」
「今日お昼に藤咲さんから名前聞いたよ?」
「えっ、私言ったっけ……?」
藤咲は首を傾げ、記憶をたどる。しかし、お昼の会話をはっきりと思い出せない。確かに飯島といろいろ話した気はするけど――。
「まぁ、いいか。えっと……」
軽く頭を振って切り替え、藤咲は今日のことを思い返す。
「淡々と教えてくれる感じかな。ちょっとズレて変な方向に行くことはあるけど……。説明自体はわかりやすいし、無駄なことは言わないけど、聞けばちゃんと答えてくれる……」
「あと、今新人用の課題をやってて、課題が終わるごとにチェックしてもらってるんだけど、そのチェックがすごく早いの!そのおかげで私もテンポ良く課題ができて、ミスしても嫌な顔せず何度も見てくれて……」
そう言いながら、藤咲は考え込んだ。
「そういえば……私、結構ミスしてたのに、先輩、一度も怒らなかった……?」
口に出してから、改めてそのことに気づく。
「へぇ~。いいなぁ~。頼りになる先輩って感じね!」
「そうなのかも……?」
会話を続けながら歩いているうちに、駅のロータリーが見えてきた。
「私あっちだから、藤咲さんまた明日ね!」
「うん、また明日!」
飯島に手を振って別れた後、一人で歩き出す。
駅に向かいながら、先程の飯島の言葉を思い出していた。
(頼りになる先輩かぁ……)
橘の淡々とした態度に、最初は冷たい人なのかと思った。でも、説明は無駄がなくて的確で、ミスしても嫌な顔せず何度も確認してくれた。気遣うような素振りはあまり見せないけど、急かしたり怒ったりすることもなかった。
課題を終えるたびに、橘はすぐに確認してくれた。すぐに修正点を見つけて、「ここだな」とシンプルに指摘する。その言葉には、余計な説明はない。でも、アドバイスを求めた時はちゃんと説明してくれて。そうしているうちに、困ったらすぐに先輩に聞くようになって――。
(……なんか私、安心して先輩に頼ってた?)
(うーん……。でも、ちょっと変っていうかズレてるんだよなぁ……。んふふっ)
そんなことを考えながら歩いていると、視界の端に明るい看板が映った。駅前のコンビニだ。
(あ、どら焼き……)
橘が言っていた「どら焼きなら生クリーム入りがおすすめだ」という言葉がよみがえる。
「せっかくだし、買って帰ろうかな」
藤咲はそのままコンビニへと入り、生クリーム入りのどら焼きを探す。レジ横では見つからず、念の為スイーツが並ぶ棚に行ってみるとそれを見つけた。
(どんな味なんだろう……)
会計を済ませ、袋を片手に駅へ向かう。
初めての仕事を終えた充実感と、少しだけ親しみが増した先輩への思いを胸に、藤咲は家へと帰っていった。
――今日の藤咲メモ 橘先輩は頼れる人かも (明日も頑張る!)