表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/21

第六話 お先に失礼します

 パソコンの画面に映るコードを見つめ、藤咲は集中していた。橘から渡された課題に取り組み、どこをどう直せばいいのかを考えながら、慎重にキーボードを叩いていた。


(あ~、また変数の初期化忘れてる……)


 カタカタとキーボードを打ち、コードを修正する。画面の中のプログラムが思い通りに動くと、小さな達成感が湧いてくる。課題を一つ終わらせる度、藤咲の自信となっていた。


「おい、終わりだぞ」


 低く落ち着いた声に、藤咲はハッとして顔を上げた。


「えっ?」


「定時だ。もう帰っていいぞ」


 橘の声に、藤咲は慌てて周囲を見回す。時計を見ると確かに定時を過ぎていた。だが、それよりも驚いたのは――


(え……?みんな普通に仕事してる……?)


 席を立っている人はほとんどおらず、近くの同僚たちは画面を睨み、キーボードを叩いている。誰も帰る気配はない。


「先輩、皆さんまだ残ってますよ?」


 戸惑いながら隣の橘を見ると、彼は相変わらずの表情でパソコンに向かいながら淡々と答えた。


「うちは残業が普通だ。採用時に聞いてなかったか?」


「業界的にそうだってことは知ってましたけど……」


「まぁ定時になった瞬間に帰るって人がいないだけで、少ししたら帰るやつもいるはずだ」


「……そうなんですね」


「お前は新人だから、しばらくは定時退社でいい」


「わかりました……」


「今はまだ、な」


 橘が軽く口元を緩める。


「う……いつから残業が必要になるんでしょうか?」


「今の課題が終わったら、実務に入ってもらう。そうなったら、好きなだけ残業できるぞ」


「自ら残業という沼に落ちる気はさらさらないんですが……」


「冗談だ。しばらくは定時で帰れるはずだ。安心しろ」


「はぁ……」


 少しホッとする藤咲。だが、周囲の熱心に働く同僚たちを見渡すうちに、胸の奥に一抹の不安が広がる。


(あ……この人たちは既に残業という沼にハマってるんだね……そして既にそこが沼だという認識すら無くなっているのね……)


「残業するのが嫌そうだな」


「え?普通そうじゃないんですか?」


「まぁ、普通はそうか」


「先輩は残業が好きってことですか?」


「好きってわけじゃないが、通常の勤務時間より給料が多いしな」


「えっ……?」


「だから、残業は"ちょっとお得"くらいに思ってる」


(……先輩はそう自分に言い聞かせて頑張ってるのかな?)


「まぁ、家に帰っても特にやることないしな」


(違った、こっちが本音っぽい……)


「ちなみに、残業が常態化すると、逆に定時で帰るやつが心配される」


「心配……?ですか?」


「そうだ。ただ帰りたいだけなのに、"体調悪いのか?"とか"転職するのか?"とか、余計なことを言われる」


「なるほど、定時で帰るのが最早異常なんですね……」


「まぁ、とにかく、お前は新人っていう立派な理由がある。新人のうちは定時で帰るのが仕事だと思って気にせず帰ってくれ」


「わかりました……。お先に失礼します」


「ああ、お疲れ」


 藤咲は帰り支度を終え、周りに向かって「お先に失礼します!」と元気に挨拶すると、同僚達から「お疲れー」「お疲れ様ー」と藤咲へ声が飛ぶ。その声に、初日が終わった安心感と充実感を感じつつ、オフィスの出口へ向かった。


 オフィスを出てエレベーターで一階に向かっていると、総務部のある三階で飯島がエレベーターに乗ってきた。


「あ、藤咲さんも今帰るところ?」


「うん、ちょうど終わったところ!」


「駅まで一緒に行かない?」


「うん!一緒に行こう!」


 同期のお誘いに少しほっとした藤咲は、飯島と一緒にオフィスを出た。


――。


 会社のビルを出ると、外はすっかり暗くなっていた。


「はぁ、やっと解放されたー」


 飯島がそう言って軽く背伸びをする。その言葉に、藤咲も「疲れたね」と頷く。長い一日を乗り越えた達成感と、心地よい疲れがじんわりと体に広がっていた。


 二人は並んで歩き出す。会社を離れ、通りに出ると、昼間とは違う風景が広がっていた。


 藤咲が足を止め、周囲を見渡しながらつぶやく。


「この道、昼間とは雰囲気違うねー」


 隣で歩く飯島も、辺りを見回しながら頷いた。


「そうね……昼間は気づかなかったけど、こんなに居酒屋多かったんだね」


 駅へ向かう通りには、店の明かりが煌々と輝き、仕事終わりのスーツ姿のサラリーマンたちが談笑しながら歩いている。信号待ちの間、周囲を見回すと、行き交う人の流れにどこか圧倒されるような感覚を覚えた。


 ふと、藤咲は今日のことを思い返しながら、ぽつりと呟く。


「今日、いろいろ大変だったけど、なんとかやっていけそうかも……」


 そして、隣の飯島に視線を向け、そっと尋ねる。


「飯島さんは?」


 飯島は少し眉を寄せながら、肩をすくめた。


「私はちょっと不安……かな」


「そうなの?」


「業務を教えてくれた先輩が結構厳しくて……」


「そうなんだぁ」


 藤咲は相槌を打ちながら、飯島の話に耳を傾けた。


「説明がすごい早口で、メモを取るのも待ってくれないし……どんどん先に行くから、今日一日ずっとあたふたしてたよ……」


「え、それ大変じゃない?」


「そうなの……で、聞き返したら、『マニュアル読めばわかる』って言われて……」


「えぇ~……冷たいね」


「ね……もうちょっと優しく教えてくれてもいいのに……」


 飯島がため息混じりにこぼすのを聞きながら、藤咲は「大変だねぇ」と心配する。


「藤咲さんの教育係って……橘さんだよね?午後はどうだった?」


「あれ?知ってるんだっけ?」


「今日お昼に藤咲さんから名前聞いたよ?」


「えっ、私言ったっけ……?」


 藤咲は首を傾げ、記憶をたどる。しかし、お昼の会話をはっきりと思い出せない。確かに飯島といろいろ話した気はするけど――。


「まぁ、いいか。えっと……」


 軽く頭を振って切り替え、藤咲は今日のことを思い返す。


「淡々と教えてくれる感じかな。ちょっとズレて変な方向に行くことはあるけど……。説明自体はわかりやすいし、無駄なことは言わないけど、聞けばちゃんと答えてくれる……」


「あと、今新人用の課題をやってて、課題が終わるごとにチェックしてもらってるんだけど、そのチェックがすごく早いの!そのおかげで私もテンポ良く課題ができて、ミスしても嫌な顔せず何度も見てくれて……」


 そう言いながら、藤咲は考え込んだ。


「そういえば……私、結構ミスしてたのに、先輩、一度も怒らなかった……?」


 口に出してから、改めてそのことに気づく。


「へぇ~。いいなぁ~。頼りになる先輩って感じね!」


「そうなのかも……?」


 会話を続けながら歩いているうちに、駅のロータリーが見えてきた。


「私あっちだから、藤咲さんまた明日ね!」


「うん、また明日!」


 飯島に手を振って別れた後、一人で歩き出す。

 駅に向かいながら、先程の飯島の言葉を思い出していた。


(頼りになる先輩かぁ……)


 橘の淡々とした態度に、最初は冷たい人なのかと思った。でも、説明は無駄がなくて的確で、ミスしても嫌な顔せず何度も確認してくれた。気遣うような素振りはあまり見せないけど、急かしたり怒ったりすることもなかった。


 課題を終えるたびに、橘はすぐに確認してくれた。すぐに修正点を見つけて、「ここだな」とシンプルに指摘する。その言葉には、余計な説明はない。でも、アドバイスを求めた時はちゃんと説明してくれて。そうしているうちに、困ったらすぐに先輩に聞くようになって――。


(……なんか私、安心して先輩に頼ってた?)


(うーん……。でも、ちょっと変っていうかズレてるんだよなぁ……。んふふっ)


 そんなことを考えながら歩いていると、視界の端に明るい看板が映った。駅前のコンビニだ。


(あ、どら焼き……)


 橘が言っていた「どら焼きなら生クリーム入りがおすすめだ」という言葉がよみがえる。


「せっかくだし、買って帰ろうかな」


 藤咲はそのままコンビニへと入り、生クリーム入りのどら焼きを探す。レジ横では見つからず、念の為スイーツが並ぶ棚に行ってみるとそれを見つけた。


(どんな味なんだろう……)


 会計を済ませ、袋を片手に駅へ向かう。


 初めての仕事を終えた充実感と、少しだけ親しみが増した先輩への思いを胸に、藤咲は家へと帰っていった。


――今日の藤咲メモ 橘先輩は頼れる人かも (明日も頑張る!)

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ