第二十一話 思わず出た言葉
仕事が忙しくなってしまったため、しばらく更新を停止します。
仕事が落ち着き次第、更新を再開したいと思います。
(急がなきゃ……!)
足早に歩きながら視線を左右に走らせる。
そんな焦りが足元の段差への注意を削っていた。
「うわっ!?きゃあっ!」
ガコンッ!
――視界の端で何かがぐらついた。
橘たちを追って慌てて店を出ようとした藤咲は、足元の段差につまずき、見事にマネキンの肩へ激突。
マネキンが派手な音を立てて倒れ、その拍子にハンガーラックも揺れ、シャツが藤咲を覆うようにずるりと落ちてきた。
「お、お客様、大丈夫ですか!?」
店員が急いで駆け寄ってくる。
藤咲は顔を真っ赤にしながら、倒れたマネキンを慌てて立て直す。
「す、すみませんっ!わ、私、あのっ……!」
動揺しすぎて、弁明の言葉もうまく出てこない。
周囲の視線が集まり、場の空気がざわつく。
(あああ……なんでこんなことに……!)
早く橘たちを追わないといけないのに、という思いがさらに心拍数を跳ね上げる。
店員に深々と頭を下げ、急いで店を出るが、二人の姿は既に無かった。
(どこ……?どこ行ったの……!)
もう……何やってるの私。
焦りが胸を締め付ける。
(このまま見失ったら、また何も分からないまま……)
じわりと汗が背中に滲む。
もう、モヤモヤと過ごす時間は嫌。
だから、せめて確認したかった。
見つけたら、もう直接聞こう。そう決心した瞬間――
「……あの、ちょっといいですか?」
突然、背後からふわりとした声が聞こえた。
藤咲は飛び上がるように振り返る。
「ひゃいっ!?」
自分でも驚くような情けない声が出た。
目の前には、先輩と一緒にいた女性――黒髪のロングヘアに、大人びた雰囲気の女性が立っていた。
(えっ……なんで!?)
藤咲は驚いて周囲を見渡したが、橘の姿はどこにもない。
目の前の女性は、すっと涼やかな笑みを浮かべていた。
「さっき、ずっと見てましたよね?」
さらりと言われて、藤咲の顔が一気に熱くなる。
「えっ、い、いや、そのっ!」
言い訳しようとしたものの、動揺でまともに言葉にならない。
(ば、バレてたの!?いつから!?)
逃げるべきか、それとも開き直るべきか――そんなことを考えている間に、女性が真剣な表情で続ける。
「うちの兄……じゃない!うちの人がね、もしかしてストーカーかもって」
藤咲は彼女が何か言い直したことに違和感を感じたが、その後の「ストーカー」という言葉を聞いて青ざめた。
「え!?ち、違います!!」
藤咲が全力で否定するが、なぜか目の前の女性はくすっと笑いながら、じっと藤咲を見つめた。
「じゃあ、何ですか?」
軽やかな声とは裏腹に、その瞳は鋭い。
まるで「逃げ道はないですよ?」と言わんばかりだった。
「え、えっと……その……ただ……」
ごまかす言葉が、どこにも見つからない。
藤咲は観念して、しどろもどろになりながらも、ぽつりと口を開いた。
「……関係を、知りたくて……」
「ふ~ん?」
目の前の女性は面白がるように口元を隠しながら微笑んだ。
「それを知って、どうするんですか?」
どうする――?
そう聞かれた瞬間、藤咲は言葉に詰まる。
(どうする……私は、どうしたいの?)
彼女なのか確かめたかった。だけど――。
でも、それを知ってどうするつもりだったんだろう?
彼女だったらどうしてた?もし、妹だったらどうしてた?
ただ、知りたいって気持ちだけが先行して、その後の事を考えていなかったことに気付く。
そんな藤咲をじっと見つめながら、女性は少しトーンを落とした声で、ふわりと問いかける。
「……あの人のこと、どう思ってるんですか?」
その一言に、藤咲の心臓が大きく跳ねた。
考えるよりも先に、言葉が口をつく。
「……好き、です」
自分でも驚くほど、あっさりと出た答え。
言葉にした瞬間、体の芯まで熱くなる。
顔が一気に赤くなっていくのが分かった。
目の前の女性は驚くでもなく、むしろどこか嬉しそうに、口元を緩める。
「ふふっ」
小さな笑い声が、空気を震わせた。
(え、なに……なに笑ってるの!?)
まさか、「私、彼女ですけど?」とか言う流れ!?
急激に不安が押し寄せる。
藤咲がゴクリと息をのむと、目の前の女性はゆっくりと息を吐いて、少し柔らかい表情を見せた。
「……笑ってごめんなさい。でも、ついてきてもらえますか?」
「え?」
ついてきて……?どこに?
(まさか警察!?)
一瞬、本気で青ざめたが、目の前の女性は特に追求することもなく、ゆるく微笑んでいる。
「兄がカフェで待ってるんです。一緒に行きましょう?」
(あ……よかった、カフェか……)
藤咲は思わず胸をなでおろす。
警察じゃなくて、本当によかった。
ストーカーだなんて言われて、このままどう釈明すればいいのか、正直ずっと焦っていた。
ちゃんと誤解は解けた……のかな?
(あれ?でもなんでお兄さんが待ってるんだろう?結局先輩はどこに……?)
藤咲は安堵した表情を浮かべた――が、次の瞬間、ハッとする。
「お、おお、お兄さん!!!?」
声の大きさに、目の前の女性がやや怪訝そうな表情を浮かべる
「びっくりしたぁ……」
藤咲は慌てたように顔を上げ、思わず問いかける。
「も、もしかして、さっき一緒にいた人がお兄さんってことですか!?」
「ええ、そうですけど?」
あっさりとした答え。
藤咲の思考が一瞬止まる。
つまり――この人は彼女じゃない?
張りつめていた何かが、ぷつんと音を立てて切れた気がした。
(よかった……)
真実を知って、最初に浮かんだのはその言葉だった。
それと同時に、胸の奥から言い表せない感情がじわじわとあふれ出す。
安堵?脱力?拍子抜け?いや、これはきっと――。
温かい何かが胸に広がっていく。
ほんの少し、目頭が熱くなった。
これまでの焦りも、恥ずかしさも、ぜんぶ一気に押し寄せてくる。
(私……やっぱり、先輩のこと……)
改めてその事実に気づいた瞬間、胸の奥がきゅっとなった。
通りを吹き抜ける風が、どこかやさしく感じられる。
その風を感じた瞬間。
さっきまでは遠くにぼやけていたアーケード街の喧騒――
子どもの無邪気な笑い声、店員の「いらっしゃいませ!」という元気な呼びかけ、通りすがりの人々が交わす賑やかなやりとり、ショーウィンドウ越しに響く音楽――
それらが不思議と、ひとつひとつ、はっきりと耳に届くようになっていた。
橘の妹は黙り込んだ藤咲の様子を見ていたが、待ちきれずに口を開く。
「……さ、行きますよ?あ、私の名前は紗月です。よろしくお願いしますね。藤咲さん」
橘の妹――紗月はにっこりと微笑みながら、歩き出した。
藤咲は感情を整理しきれないまま、紗月と歩き出す。
「はい……。って、なんで私の名前知ってるんですか?」
「え?昨日、兄から聞きましたけど」
「そうなんですね……。って、昨日!?!?」
藤咲は思わず立ち止まりかけたが、すぐに歩みを再開する。
(昨日の時点で……私の話を……?)
ついさっきまで安堵していた胸が、別の意味でざわつき始める。
(えっ!?もしかして、昨日見てたのも知ってるの?)
(もしそうなら、先輩からしたら完全にストーカーじゃん!?)
気づけば心臓がバクバクしていた。
紗月の背中を追いながら、藤咲はそっと息を整えた。
――。
カフェの扉をくぐった瞬間、ほのかに漂うコーヒーの香りが鼻をくすぐった。
店内に入り、藤咲は小さく息を吐く。
(ここにお兄さん……いや、先輩がいる……)
気持ちを落ち着けようとするが、心臓の鼓動が高まる。
紗月が先に歩き、奥の席へと向かう。
その視線の先には――。
「……先輩」
ぽつんと一人、店の端の席に座る橘の姿。
コーヒーカップを手にし、無表情に窓の外を見つめている。
彼は妹の姿を認めると、ゆっくりと視線をこちらに向けた。
藤咲は一瞬、身体がこわばる。
なぜなら――彼は一切驚くこともなく、視線を自分に向けているから。
まるで「お前、何してた?」と問うような静かな目。
しかし、そこに責める色はなく、ただじっと、真意を探るような冷静なまなざしだった。
「とりあえず、座れ」
橘がいつもの調子で淡々と話す。
紗月は二人の状況を楽しむような表情で橘の隣へ座った。
一方の藤咲は深刻な表情で橘の正面に座る。
(妹さんの話だと、昨日から気づいてたんだよね……?)
いつ気付いたんだろう……。
そして、なぜ自分で話しかけずに妹に対応を任せたの?
昨日気付いてたのに、その時はなぜ見逃したの?
疑問が尽きなかったが、藤咲はとりあえず、ぺこっと頭を下げた。
「す、すいませんでした……!」
何に対して謝っているのか、藤咲自身もよく分かっていない。
でも、今はとにかく謝るしかない気がした。
橘は軽く眉を上げ、静かにコーヒーを飲む。
「……何を謝ってるんだ?」
いつもの低い声に、藤咲の背筋がピンと伸びる。
「え、えっと……」
「藤咲さんはストーカーじゃなかったよ」
紗月がさらりと言い放った。
「は?」
橘が怪訝そうに眉を寄せる。
「お兄ちゃんは、藤咲さんがストーカーだと思ったんだよね?」
「そんなことは一言も言ってない」
即座に否定する橘。
でも、藤咲はそれどころではなかった。
「ち、違います!!私はただ、ただ……っ!」
何とか弁明しようとするが、どこからどう言い訳していいのか分からない。
顔が熱くなっていくのを感じる。
(私、やばい、完全に怪しい人じゃん……!!)
橘はため息をつきながら、コーヒーを置く。
「……それで、藤咲。お前は何をしていたんだ?」
真正面から問われ、藤咲は言葉に詰まる。
橘の隣に座る紗月が、自分を見て微笑むのが見えた。
(えっ、何……?)
紗月の視線が、まっすぐ自分を見ている。
(あっ!!)
――その時、不意に思い出す。
(さっき妹さんに“先輩のことを好き”って言っちゃったんだけど!?)
紗月の表情を伺うが、彼女は微笑んだまま何も言わない。
(私が言うのを待ってる!?「言わないと私が言っちゃうよ?」みたいな?)
他の人に言われるくらいなら自分で言っちゃった方が良い?
いやいやいやいや、いきなり告白するの!?
こんなところで、いきなり!?
それで「無理」って言われたら、どうするの!?
(ああ!なんでさっき”好き”って言っちゃったの!?)
すると、紗月の表情が悪戯っぽい微笑みに変わる。
(や、やばい!?)
「藤咲さんは、お兄ちゃんのことを心配してただけみたいだよ?」
(えっ!?)
紗月の言葉に脳内がフル回転する。
てっきり好きってことをバラすのかと思ったのに。
もしかして――
(……助け舟ってこと!?)
紗月がちらりとこちらを見て、明らかに“今のうちに乗っかって!”という空気を送ってきている。
「ね、そうですよね?」
(どう乗っかれば自然!?言い訳!?例え話!?今こそ……会話力ぅ〜〜〜!!)
何か、何かない……?
なぜか、交渉上手でお調子者の安川の顔が思い浮かぶ。
頭の中で安川が「やあ」と手をあげた。
(今は安川先輩の相手をしている暇はないんですけど!?)
安川先輩ならこういう時うまく話をごまかせそう。
いやいや、そうじゃなくて!今はそれどころじゃ……。
あれ?そういえば昨日、橘先輩が定時で帰るって時、安川先輩がなんか言ってた。
なんだっけ?えーっと……。
『転職ですか?体調不良ですか?それとも、まさかのデート?』
(それだ!!!)
「え、えっと、そうなんです!転職しないか、とか……?」
「……転職?」
橘が怪訝そうに首を傾げる。
「ああ、確かに昨日帰る時にそんな話をしたか……?」
――うまくいった……?
「紗月がライバル会社の社員とでも勘違いしたってことか?」
「そ、そうです!それです!」
自分でも無理筋なのはわかってる!でも、もうこれで通すしかない!
橘はじっと藤咲を見つめたまま、一拍置いて――。
「……なるほど」
すっと視線を外し、再びコーヒーを口に運ぶ。
その仕草は、信じたのか、呆れているのか――どちらとも取れなかった。
(あ、あれ……!?)
完全に誤魔化せたとは思えない。
でも、橘はそれ以上追及してこなかった。
それが逆に、ものすごく気まずい。
沈黙が広がる中、橘がカップを置き、ふと口を開いた。
「じゃあ、お詫びに何か奢らせてくれ」
「え?」
「心配してたんだろう?俺のために」
「え、えっと……!」
(なんか予想外の展開なんですけど!?)
な、なんで奢られる流れになってるの……?
むしろ、こっちが謝る側じゃないの?あんなストーカーまがいのことして……。
……でも、断ったら変な空気になる気もするし。
そもそも、朝からバタバタして何も食べてない。
うぅ、心は遠慮したいのに、お腹は正直すぎる。
しどろもどろになりながら、藤咲は視線を泳がせると、テーブルの端に置かれたメニューが目に入る。
もうすぐお昼――いろんなことが片付いた安心感も、藤咲の背中を押した。
「……じゃ、じゃあ、遠慮なく……!」
メニューを開き、ぱっと目に留まったパンケーキを指さす。
「えっと、これをお願いします……」
「私もそれ食べたい」と紗月がすかさず橘にアピールすると、橘は「そうか」と短く返し、店員に注文を通した。
その後は昼食をとりながら、しばらく三人で他愛もない話をしながら時間を過ごした。
橘と紗月が同居していること。
藤咲と紗月が同い年で、紗月が「友達になりたい」と言ってくれたこと。
そして――。
「……ああ、そういえば」
橘がふと、思い出したように言った。
「昨日会社で、相談したかったことがあるってお前に言っただろう」
「え?」
「その相談ってのは、紗月のことだ」
――あ。
そういえば、そんな話があったような気がする。
「……ああ、そんなことありましたね」
藤咲は少しだけ肩をすくめ、紅茶を口に運んだ。
(それどころじゃなかったから、すっかり忘れてた……)
しばらくして、カフェも混雑してきたため、三人は店を出ることにした。
そして、店を出る時、紗月が藤咲の手を取る。
「藤咲さん、暇な時連絡してね」
「うん、するね」
藤咲と紗月は同い年ということもあり、すぐに仲良くなっていた。
「あっ、でも、返信遅い人は切りますから」
「えっ!?こ、怖いっ!?」
「冗談ですよ?……あ、いや、そうでもないかも?」
「え、えぇ……?」
笑っているけど、どこまで本気なのか分からない。
(……あれ?この“冗談か本気かわからない感じ”、どこかで……)
藤咲は紗月の隣に立つ無表情な教育係の顔を見る。
「紗月は友達がいないから、よろしく頼む」
「この街には!でしょ?私をぼっちみたいに言わないでよ!」
「冗談だ」
(……やっぱり兄妹だ……)
その後も言い合いを続ける二人に、藤咲は表情を緩めた。
「……ああ、言い忘れてたが」
橘がふと、思い出したように言った。
「会社のやつには言うなよ」
「えっ?」
藤咲は問い返そうとしたが思いとどまる。
以前、会社の先輩の篠塚から、最近橘がプライベートの話をしなくなったと聞いたことを思い出していた。
「……わかりました」
何か釈然としないものを抱えながらも、藤咲は二人と別れ、駅へと向かった。
――次話へつづく。




