第十九話 混乱する心、乱される日常
目が覚めた瞬間から、気分は最悪だった。
嫌な夢を見たわけじゃない。昨日の光景が頭にこびりついているだけ。
(……夢ならよかったのに……)
じわりと苦い感情が込み上げる。昨夜、目の前で見たもの――並んで歩く橘先輩と、長身で洗練された女性。親しげに話し、時折微笑み合う二人の姿。
あの時は、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
家に帰った後、すべてを忘れようとした。
ただの先輩と後輩なら、それもできたはずだ。
けれど――もう遅かった。橘はもう"ただの先輩"ではなかった。
心の奥から溢れる想いが、それを許してくれなかった。
「……はぁ」
藤咲は布団に入ったまま天井を見上げ、大きく息を吐く。
ずっと、心のどこかで期待していたのかもしれない。先輩が誰かと付き合っているなんてありえない、って。
でも、現実は違った。先輩には、隣で歩く相手がちゃんといる。
胸の奥がじくじくと痛む。
(今日が土曜日でよかった……こんな気持ちで会社行くのは絶対無理……)
考えないようにしよう。
ベッドに横になったまま、スマホを手に取り、最近見ていたアニメの続きを再生する。
いつもならワクワクしながら見られるのに、今はただ画面を眺めているだけだった。
しばらくぼんやりと眺めていると、ヒロインの失恋シーンが流れる。
『……ずっと好きだった。でも、届かない恋だったんだね』
恋に破れ、切ない顔で空を見上げる彼女。
「うぅ~……その気持ち、わかるよ~……」
思わず、画面の中のヒロインに向かって呟いた。
「これじゃ更に落ち込んじゃう」と、別のアニメに変えようとしたその時――。
場面が変わって、主人公とその彼女の会話シーンが始まった。
『兄さん。本当にこれで良かったの?』
『ああ、俺はあいつの隣にいれるような男じゃない……』
藤咲は目を丸くする。
(……え?)
画面の中では、主人公が妹に恋人のフリを頼み、ヒロインに身を引かせていた――。
思わず息を呑む。
(い、妹!?)
藤咲は勢いよく起き上がって、昨夜の橘と彼女の様子を思い出す。
(そんなこと……ある?)
いやいやいや、これはアニメの話であって、現実じゃ――。
でも、考え始めると止まらなくなった。
(……昨日見た先輩たちの雰囲気って、本当にカップルだった!?)
並んで歩いてた。距離は確かに近かった。でも、それだけで恋人だと決めつけるのは、ちょっと早すぎたんじゃ――?
混乱したまま、昨日の光景を脳内で再生する。
確かに親しげだった。でも、手を繋いでいたわけじゃないし、恋人特有の甘い空気があったかと聞かれれば――いや、どうだったっけ?
そもそも、先輩の守備力高すぎて、家族構成すら知らないんだもん!
(もし妹だったとしたら……私、めちゃくちゃ勘違いして、勝手に落ち込んでたってこと!?)
藤咲は立ち上がって、部屋の中をぐるぐる歩き回る。
(いやいやいやいや、でも、妹って決まったわけじゃ……いや、でも可能性はある……?え、どっち!?)
意味もなく振り返ったり、身体を左右に振ったりと、落ち着きなく動く藤咲。
気づけば、脳内会議が大混乱に陥っていた。
その時、スマホで再生されたままだったアニメからヒロインの声が聞こえてくる。
『よかった……。私、諦めなくてもいいんだね……!』
――そこでは、主人公の彼女が実は妹だったと知って、安堵するヒロインの姿が映し出されていた。
(確認したい!!でも、確認のしようがない……!)
思考がぐるぐると渦を巻いて、どこにも行き場がない。
「……もうっ!どうすればいいのぉぉぉーーーーー!!!」
――。
一方その頃、橘のアパートでは――。
「お兄ちゃん、見て見て!このマグカップ、めちゃ可愛くない?」
朝の静寂を破るように、紗月が弾む声でマグカップを差し出す。
「……それ、昨日も見たぞ。というか、一緒に買っただろ」
橘はスマホから視線を上げることなく答えた。
「いやいや、だからこそ改めて感想が欲しいの!可愛いねとか、センスあるねとかさ!」
紗月が橘の視界に無理やりマグカップをねじ込んでくる。橘は目を細め、それをじっと見つめる。
「……灰色だな」
「見たまま言わないでよ!」
紗月は頬を膨らませ、不満げに兄を見る。
「そもそも、昨日選ぶ時一緒にいたんだから、今更感想を求める意味がわからん」
「それが乙女心ってもんでしょうが!」
「どこに乙女がいるんだ」
「目の前にいるじゃん!」
橘は無言でため息を吐き、スマホの画面に視線を戻した。
「もう、ほんと無愛想……」
紗月が不満げに口を尖らせると、橘はゆっくり視線を上げる。
「俺に乙女心を理解しろという方が無理だろ」
「諦めちゃだめでしょ!せっかく可愛い妹が同居してるんだから、少しくらい感性を磨いてよ!」
「そのロジックはよくわからん」
橘の真顔に、紗月は呆れたように首を振る。
「もういい!とりあえずこれ、今日からお兄ちゃんのマグカップにするから」
「俺のマグカップ、まだ使えるんだが?」
「いやいや、あのくたびれたマグカップ、いつから使ってるの?」
「5年くら――」
「引退」
紗月は橘の返答に被せるように言う。
「まだ現役だろ」
「じゃあ、洗ってる時にさり気なく落として割っておくよ!」
「さすがに作ってくれた人に失礼だろ……」
「冗談だってば、本気にしないでよ!」
紗月は呆れたように笑った。
「とにかく、ほら、もう一回持って感想言ってみて!」
橘は仕方なくもう一度マグカップを手に取る。
「……まぁ、使えないこともない」
「なんでそんな上から目線なの?」
「身長差か?」
「物理的な話じゃない!」
橘がわずかに口角を上げるのを見て、紗月も呆れたように小さく笑った。
「まぁいいや。とりあえず収納も足りないし、今日一緒に買いに行くよ!」
「通販でいいだろ」
「いや、直接見て決めたいの!今すぐに!」
「落ち着け。今日の予定が……」
「私とのお出かけ以上に大事な予定があるの?」
紗月が目を細め、にやりと笑う。
「まったく……相変わらずお前は衝動的だな……」
「昔もこんな感じでお兄ちゃんをよく連れ回したよね~」
紗月が懐かしそうに言うと、橘も少し遠い目をする。
「……お前と一緒に暮らすのは、俺が家を出た時以来か」
橘は紗月の楽しげな様子を見ながら、小さく呟く。
「そうだよ。お兄ちゃんが大学行くって家を出た時、私は十二歳だったから……ちょうど10年だね」
紗月は荷物の整理をする手を一旦止め、懐かしそうに目を細める。
「……お兄ちゃんさ、小さい頃から一人で何でもやっちゃうから。なんかほっとけなかったっていうか……」
「どういう意味だよ?」
「なんか、昔よく一人で寂しそうにしてることなかった?」
「そうだったか?」
橘は少し眉をひそめる。
「うん。だから心配っていうか、なんというか……」
橘はゆっくりとソファに背を預け、天井を見上げる。
(寂しそう、か……)
幼い頃、両親は共働きで、家にいる時間はほとんどなかった。
自然と、家の中で一緒に過ごすのは紗月が相手になる。
親の代わりをするつもりはなかったが、気づけば紗月の面倒を見るのが当たり前になっていた。
両親の不在を埋めるように、家事もできる範囲でこなしていたし、それが普通だと思っていた。
でも――紗月は、そんな俺をずっと見ていたんだろう。
誰にも甘えることなく、一人で抱え込んでいた俺を。
だからこそ、あの頃の紗月は、まるで"兄の世話を焼く"ように俺のそばにいたのかもしれない。
橘が無言のまま考え込んでいるのを見て、紗月は慌てて明るく振る舞った。
「ま、まぁ!でも今は私がいるから!久々の兄妹暮らし、楽しくなってきたでしょ?」
「……そうだな」
橘は静かに頷くと、小さく微笑んだ。
「俺の休日が潰れるのは仕方ないか……」
橘は観念したようにソファから立ち上がった。
「お兄ちゃんの休日は妹のためにあるって、昔から決まってるでしょ?」
「誰が決めたんだそんなルール」
「私!」
紗月は満足げに微笑むと、橘の腕を掴んで引っ張った。
「ほら、行くよ!」
橘は深いため息をつきながら、紗月に引きずられるようにアパートを出る。
橘とは対象的に、紗月はまるで子供の頃に戻ったかのように、飛び跳ねるような足取りで歩き出す。その横顔は、心の底から楽しそうで、目がキラキラと輝いていた。
「楽しそうだな……」
呆れたように言う橘をよそに、紗月は笑顔のまま振り返る。
「だって、昔みたいでしょ?」
その言葉に、橘はわずかに目を細める。ほんの一瞬だけ、懐かしさが心をよぎった。
「はいはい、早く行くぞ」
そう言うと、紗月は「はーい!」と元気よく返事をし、兄の歩幅に合わせるようにぴょんぴょんと歩き出した。
晴れた空の下、彼女の笑顔は誰よりも眩しく輝いていた。
――。
一方その頃、藤咲のアパートでは――。
「どうすればいいのぉぉぉーーーーー!!!」
その叫びが部屋の静寂に吸い込まれる。
そして――藤咲は力なくベッドに倒れ込んだ。
限界だった。脳がオーバーヒートしていた。
ああ、思考がこんがらがって解けない……まるでバグで抜け出せなくなったループ処理みたい……。
「結局……悩んだからってわかることじゃないんだよね……」
ボンヤリと天井を見つめながら、スマホを手探りで拾い上げる。
なんとなくSNSを開くが、別に誰かに相談できるわけでもない。
何かヒントはないかと連絡先をスクロールしていると、ふと目に留まる名前があった。
「橘先輩(仕事用)」
――会社支給の仕事用携帯の番号。
緊急連絡用だから、一応交換はしたけど、私用でかけたことなんて一度もない。
でも、これにかければ……。
「いやいやいやいや!!!」
反射的にスマホを放り投げ、両手で頭を抱えた。
(な、何考えてんの!?これは仕事用の番号!こんなのに電話して「昨日の人って誰ですか?」なんて聞けるわけないじゃん!!)
それに、もし本当に彼女だったら……それをわざわざ確認するためにかけた自分、めっちゃ痛くない?
――そういえば。
会社のデスクで仕事してるとき、ふと机の端に置かれた地味な携帯を見つけた時のことを思い出す。
『先輩それって仕事用携帯ですか!?なんかかっこいいですね!』
『どこがだ』
『だってドラマとかであるじゃないですか!「この番号は仕事用だ」みたいなやつ!え、もしかして、これが鳴ると「はぁ……トラブルか」って低い声で出たりするんですか!?』
『……どんなイメージを持ってるんだ』
あの時の先輩は微妙に呆れた顔をしていたが、次の言葉は非常に重いものだった。
『家にいる時に鳴って、何度俺の休日が潰れたことか……』
どこか遠い目をして、深くため息をつく先輩の姿が印象的だった。
「先輩……電話が鳴るだけでも、すごいストレス感じてそう」
ないね。うん、ない。
これで完全に諦めた。諦めざるを得なかった。
「……とりあえず顔でも洗おう」
立ち上がり、洗面所へ向かう。冷たい水で顔をばしゃばしゃと洗い、少しはスッキリした気分になる。
が、タオルで顔を拭きながら鏡を見つめると――モヤモヤはやっぱり消えてなかった。
(あー……もう!先輩に妹がいるかどうか、誰か教えてよ!)
そんなことを考えながら、化粧水を取ろうとする。
そして――
「ポンポンッ」(ボトルの底を叩く)
「……あれ?」
「トントン、ポンポン」(出てこない)
「うそ、化粧水、もうほとんどないじゃん!!!」
急いでボトルを振るが、ほんのわずかしか残っていない。
無駄にキャップを開けて、最後の一滴まで使おうとするが――無情にも、出ない。
「忘れてた……!」
昨日、会社帰りに買おうと思っていたのに、先輩の件で完全に忘れていた。
じわじわと乾燥していく頬に危機感を抱きながら、藤咲は考える。
(近くで買えないから、街まで行かないと……)
化粧水だけじゃなく、最近使ってる日焼け止めもそろそろ切れそうだったし、まとめて買うにはちょうどいい。
ついでに気分転換にもなるし……。
そう思いながら、早速バッグを手に家を出ようとして違和感に気づく――
「……いや、ダメじゃんこの格好」
自分を見下ろすと、パジャマ姿のままの自分。
「はぁ……」と一つため息をつき、身支度を整える。
気を取り直して「よし!」と玄関のドアを開けた。
(……先輩に会えたりしないかな……)
いやいや、そんなご都合展開はドラマやアニメの中だけ!
首をブンブンと振って気持ちを切り替え、「行ってきます」と小さく呟いた。
胸の奥のざわつきを振り切るように歩き出す。
けれど、駅へ向かう足取りは、思いのほか重かった。
――次話につづく