第十八話 近くて遠い、隣の人
金曜日の昼休み、私はデスクでため息をついていた。
橘先輩のプライベートを探るミッションを開始して数日。でも、これといった収穫はなし。
先輩は普段から無駄話をしないし、仕事以外のことはまるで語らない。家族構成も趣味も休日の過ごし方も、ぜんっぜん掴めない。
それどころか、先輩を気にしすぎてミスを連発し、先輩に迷惑まで掛けてしまう始末。
なんとか気持ちを整理して、仕事に集中できるようにはなったけど。
(まあ、時間はいくらでもあるし、ゆっくり探っていけばいいよね……)
そう、この前の私はなぜか焦っていた。
すぐにどうこうしなければいけない問題じゃない。
長い時間をかけて先輩のことを知っていけばいい。
そう思ったら、スッと気持ちが楽になった。
(でも、機会があったら見逃さないけどね!)
コンビニのサンドイッチを手に持ちながら、そんなことを考えていると、ふいにデスクの上で振動音が響いた。橘先輩のスマホだった。
先輩は画面を一瞥すると、即座に立ち上がり、無言のままオフィスを出て行った。
「あれ?橘さんまた電話?」
向かいに座る安川先輩が、弁当をつつきながら呟く。
「最近、多いですね?」
私も首をかしげる。
数日前から先輩のスマホによく電話が来ている。
昼休みだからわざわざオフィスから出て話す必要はないと思うんだけど。
(誰かに聞かれたくない話なのかな?ちょっと、怪しい……)
戻ってきた先輩に、安川先輩がニヤリとしながら口を開いた。
「もしかして彼女ですか?」
(ナイスアシスト!今だけは尊敬します、安川先輩!)
期待して先輩の反応を待つ。が、次の瞬間。
「お前に話すことはない」
バッサリ。冷たいというより、めんどくさそうに流された。
「お前」ってことは私だったらいいのかな?
そう思ってたら、つい――
「じゃあ、私には?」
やばっ。私は瞬時に片手で口を覆う。
思わず口に出たその言葉に、自分でも驚いた。
先輩は表情を変えずに私を見て沈黙していた。
変なこと言ったよね?怒られる?
けれど、意外にも――
「……お前には少し相談したいことがある」
「えっ、相談!?」
目を丸くして固まる私。でも、すぐに先輩は「今じゃない、そのうち話す」とだけ言って、再び昼食を再開した。
(え、ええええ!?彼女に関すること!?それとも別のこと!?)
先輩が私に相談したいなんて言ったのは初めてだったから、一瞬嬉しかったけど。
なんの相談なのかわからないと素直に喜べないんですけど!?
私はパニックになりながらも食べかけのサンドイッチを口の中に入れ、ペットボトルのお茶で流し込んだ。
(また気になってミスしたら、先輩のせいですよ!?)
――。
今日の仕事を終え、私はゆっくりと帰り支度をしていた。
(今日はミスもなく順調だった!やっぱり焦ってたのがよくなかったのかな?)
そんな中、橘先輩が珍しく定時で席を立つ。
「お先」
先輩がジャケットを羽織りながら、すっとデスクを離れようとしたその時。
「え、珍しいですね?」
安川先輩がニヤニヤしながら、すかさずツッコミを入れた。
「転職ですか?体調不良ですか?それとも、まさかのデート?」
「……お前のせいで転職したくなった」
「ちょっ、それ冗談ですよね!?」
先輩は軽く肩をすくめ、足早にオフィスを出て行く。
(先輩が転職したら……?先輩がいない職場!?)
えっ?不安しかないんだけど。
(私と安川先輩だけになったら、絶対やっていけない!)
いや、そんなことよりも――
(先輩が定時帰りなんてめったにない。これは……プライベートを探る絶好の機会じゃ!?)
すぐに帰り支度を終わらせ、なぜかショックを受けたまま固まっていた安川先輩に挨拶をすると、橘先輩の後を追った。
――。
会社を出て、橘先輩の背中を視界に捉えながら、私は小さく息を吸った。
(久しぶりね……!名探偵・藤咲、再誕!)
私の頭の中の冷静な部分が「ただのストーカーでは?」と話しかける。
違う!探偵だから!私には「頼まれた」という大義名分があるから!
これは依頼だから!
雑念を振り払って、慎重に距離を取りながら後を追う。
先輩の歩く速度は、相変わらず速い。いや、速すぎる。
この前のアレ使う?いや、三倍早足はあの後足がパンパンになったからだめだ。
(あ、早足じゃなくて普通に走ればいいのか……)
普通に駆け足で追跡を続ける。先輩は駅の方へは行かず、近くのアーケード街へと向かった。
(ん?帰宅途中の買い物?……それとも、まさかほんとに……デ、デ……)
思わず足が止まりそうになるが、慌てて再び走り出す。
商店街のネオンがきらめくなか、先輩は何の迷いもなく、一直線に百貨店の正面入口へと向かった。そして、その入口のすぐ先――。
「……え?」
私は思わず立ち止まる。
先輩の視線の先に、ひとりの女性が立っていた。
黒髪のロングヘア、洗練されたスーツ。すらりとした長身に、落ち着きのある上品な佇まい。見惚れるほど綺麗な人だった。
私はその場で固まってしまった。
(……彼女?)
二人が並ぶ姿があまりにも絵になりすぎて、一瞬でそう思ってしまった。
心臓がドクンと跳ねる。
女性は先輩の顔を見て、柔らかく微笑んだ。先輩も、いつもの無表情ではなく、どこか気を緩めたような穏やかな表情を浮かべているように見える。
そこには――私の知らない先輩がいた。
(……先輩って、こんな顔するんだ)
不意に、胸が締め付けられる。
息を詰めたまま立ち尽くしていると、自分の顔が強張っていることに気付いた。
慌てて視線を逸らし、近くのショーウインドウに目を向ける。
映っていたのは――眉間にシワを寄せ、口元を固く引き結んだ、自分の顔。
(……えっ?なに、この顔)
ゾッとした。
慌てて肩の力を抜き、目を見開く。
(……もしかして、私、嫉妬してるの……?)
頭では否定する。
でも、心がまったく言うことを聞いてくれない。
この気持ちがなんなのか、もう分かっているくせに。
ただ、それを認めるのが怖かった。
視界の隅で、二人が歩き出すのが見えた。
足の力が抜けそうになり、思わず一歩、後ろへ下がりそうになる。
(でも……まだわからないよね……?)
そう自分に言い聞かせる。だけど、一歩踏み出す足は、思っていたよりも重かった。
私は、一縷の望みに賭けて、二人の後を追った。
――。
百貨店のエントランスをくぐると、先輩と彼女は自然な足取りで店内を歩き始めた。私は、距離を取りつつ二人を追う。
二人が向かったのは、生活雑貨のフロアだった。整然と並ぶ食器類や、シンプルな家具。木目調のディスプレイ棚の前で、彼女が手に取ったのは、白いマグカップだった。
「これ、どうかな?」
そう聞く彼女の声は、私には届かない。でも、先輩がマグカップをじっと見つめたあと、何かを言って小さく頷いたのが見えた。
そのあと、二人はほかのコーナーへ移動していく。
カップ、食器、タオル、収納ボックス――。
(これって……同棲の準備……)
そんなわけない、とすぐに思い直す。思い直すけれど、頭の中に浮かんでしまった考えは、簡単に消えてくれなかった。
彼女は、手に取った食器を眺めたあと、ふと先輩の腕にそっとしがみついた。
まるでそれが習慣であるかのように、何のためらいもなく。
先輩は特に驚く様子もなく、そのまま腕を引くこともせずに立っていた。
それだけでも、胸の奥に小さな棘が刺さるような痛みが走ったのに――
彼女は次の瞬間、軽く微笑んで、先輩の肩にもたれかかった。
まるで、ずっと昔からそうしてきたみたいに。
その光景が、私の中に嫌な確信を刻み込む。
(あ……もう、ダメだ)
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。
逃げるように目を逸らしたいのに、できなかった。
じっと、二人を見つめてしまう。
彼女は、先輩にとって特別な存在なんだろうか。
こんなふうに、隣に立つことが当たり前で、
何気ない仕草で距離を縮めても、違和感すら覚えない関係なんだろうか。
(……そっか、私が知らなかっただけ)
先輩には、こういう顔を見せる相手がいる。
私の知らない時間の中で、誰かとこうして過ごしているんだ。
当たり前のように、二人で食器を選んで、笑い合って、時々肩が触れたりしながら。
胸が、チクチクと痛む。
なんでこんな気持ちになってるんだろう。
先輩は、仕事の教育係で、頼れる上司みたいな存在。
それだけのはずなのに――どうして。
気づけば、これまでの先輩とのやり取りが頭の中を巡る。
初めて出社した日、オフィスの雰囲気に圧倒されて、緊張で体がこわばっていた私に、淡々と課題を渡してきた人。
説明も少なくて、冷たい人なのかなって思ったけれど――
困っているときは、いつもさりげなくフォローしてくれた。
初めてのプログラムがまともに動かなくて、何度もエラーを出した時。
「ここが違う」と、たった一言だけ指摘してくれたけど、
それは見放したわけじゃなくて、私が自分で気づけるようにっていう配慮だったんだって、後になって気づいた。
何度も失敗して、ダメな後輩だったのに――
それでも、見捨てることなく、根気よく付き合ってくれた。
口数は少ないくせに、私の成長は誰よりもちゃんと見てくれていて、
「お前ならできるはずだ」なんて、不器用な言葉で励ましてくれた。
……そんな先輩の隣にいるのが、いつの間にか当たり前になっていたのに。
先輩の視線の先にいるのは、私じゃない人で。
気づけば、こんなにも胸が苦しくて――。
視界がぼやけ、先輩の姿が滲んでいく。
まるで遠くにいる人を見ているみたいに、輪郭が曖昧になる。
「……えっ?」
私は、自分の手を頬に当てる。
頬をなぞる指先が、じんわりと濡れていた。
「……私、泣いてる?」
どうして?なんで?
先輩が誰と一緒にいようと、関係ないはずなのに。
私が泣く理由なんて、ないはずなのに……。
……いや……もういいよね。ほんとはもうとっくに気付いていたんだ。
(……私、先輩のこと、好きになってたんだね……)
やっと自分の気持ちを認められた。
だけど。それなのに――
目の前の二人の姿が、私の気持ちを容赦なく踏みつける。
二人の姿が、涙で更に滲んでいく。
まるで、「もう見ない方がいいよ」と自分に言われているような気がした。
(そうだね……これじゃあ、どうしようもない……どうしようもないよ……)
私が何を思ったって、先輩にはこうして隣にいる人がいる。
私の知らない時間があって、私の知らない関係がある。
それが現実だ。
私は、そっと涙を拭い、何もなかったかのように、その場を離れた。
――今日の藤咲メモ 私は先輩のこと『 』(そこには濡れた跡が残っていた)
――――――。
――――。
――。
百貨店のレジを通り、橘たちは二人で出口へと向かう。手にした紙袋の中には、新しい食器や日用品が詰まっていた。
「いやぁ、お兄ちゃんがいなかったら、一人でこれ全部持って帰るの大変だったかも」
隣を歩くのは、橘紗月――橘の妹だった。
「だったら最初から通販で買え」
橘は呆れたように言うが、紗月は笑って肩をすくめる。
「え~?実物を見て買うのがいいんじゃん」
その言葉に、橘はわずかに眉を寄せた。
紗月は、今年大学を卒業し、東京の会社に就職した。そして、数日前に新人研修が終了し、この街の支社に配属された。
橘たちの実家はこの街と同じ県内にあるため、地元に戻ってきた形だ。
本来ならすぐにアパートに入るはずが、契約のトラブルで入居が遅れ、一時的に橘が住むアパートに居候することになった。
「結局、お前も戻って来ることになったな」
「ね~。でも、東京暮らしは慣れなかったから、これで良かったかも」
「ふっ。お互い田舎が合ってるってことだな」
「実家と比べれば、ここは十分都会だけどね」
橘たちが住む街は地方の政令指定都市。人口は100万人を超えている。
「そういえば、お母さんが『すぐ会いに行ける距離になって安心した』って言ってたよ」
「まさか、様子を見に来たりしないだろうな?」
橘は露骨に嫌な顔をする。
「来るかも」
紗月がニヤリと笑う。
「まじか……。来たらまた言われそうだな」
「もしかして、早く結婚しろ的な?」
「まったく。困ったもんだ」
橘は、そんな他愛もない会話を続けながらも、つい先ほどの光景を思い返していた。
――百貨店のフロア、視線の端に映った小さな影。
気配を感じて振り返った先にいたのは、藤咲だった。
驚いたような、困惑したような、言葉を飲み込んだまま動けずにいる藤咲。
普段なら遠慮なく話しかけてくるはずなのに、その時は何も言わず、ただじっとこちらを見つめていた。
そして――静かに背を向け、ゆっくりと去っていった。
(……あいつ、まさか)
その背中が、妙に小さく見えた。
「ねぇ、お兄ちゃん」
紗月の軽い声が、思考を遮る。
「なんだ?」
「お兄ちゃんってさ、恋愛の話になるとすごい鈍いよね?」
橘は少し眉を寄せる。
「……お前に言われたくない」
「いやいや、私より絶対鈍いって!だってさ――」
紗月は歩きながら、にやりと笑う。
「さっきの人、勘違いしてたみたいだよ?」
橘の足が、ほんの一瞬だけ止まる。
「……お前も気づいてたのか?」
「そりゃあね~。見てて丸わかりだったよ?」
紗月は肩をすくめ、興味深そうに橘を見た。
「さっきの人って、お兄ちゃんの知り合い?」
「ああ、会社の後輩だ」
「へぇ、同い年くらい?」
「お前と同じだ」
「え、そうなんだ!」
紗月の目が少し輝く。
「私、この街に友達少ないし、紹介してくれればよかったのに」
「……いや、今日じゃなくても、そのうち紹介しようと思ってたんだけどな」
「えっ?マジで?」
紗月は驚いたように目を丸くする。
「なんでさっき紹介してくれなかったの?」
「……さっきは、あのまま声をかけたら、余計ややこしくなると思った」
あのまま話しかけようとしたら、逃げ出すんじゃないか。
藤咲の表情からそんな気配を感じた。だから、声をかけることをためらった。
「ややこしくなる……って、それってつまり……?」
紗月がジリジリと間合いを詰め、橘の顔を覗き込む。
「ねぇねぇ、お兄ちゃん。もしかして……あの人のこと気になってるの?」
橘は無言のまま前を向く。
「おーい、聞こえてますかー?」
「……さぁな」
そのまま紗月を追い抜き、歩き続ける。
「ふぅん、そっかぁ」
紗月は橘の背中を見つめながら、またニヤリと笑った。
「でも、お兄ちゃん、今日のことはちゃんと説明した方がいいと思うけどね?」
「……余計なお世話だ」
橘はそう返すが、藤咲の沈んだ背中を思い出しながら、ふっと視線を落とした。
――今日の紗月日記 お兄ちゃんに気になる人が!?(これは私が見定めないと!)




