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第十七話 集中できない理由

 オフィスの空気はいつも通り静かだった。始業前のわずかな時間。社員たちはそれぞれのルーチンをこなしながら、緩やかに業務の開始を待っている。

 藤咲は、自席でパソコンの電源を入れながら、隣のデスクへ視線を向けた。


 橘がスマホの画面をじっと見つめている。親指でスクロールしながら、わずかに眉をひそめていた。その表情は、考え込んでいるようにも、あるいは誰かとやり取りをしているようにも見える。


(何を見てるんだろう……)


 その小さな疑問が、気づけば頭の中でじわじわと広がっていく。

 昨夜からずっと、橘のプライベートのことばかり考えていた。仕事終わりに何をしているのか、休日はどう過ごしているのか――知りたいと思うほどに、その人となりが見えない。

 ふと、「もしかしてデートの予定を確認しているのでは?」という考えが頭をよぎる。

 心臓が小さく跳ねた。


(……いや、別に誰と会おうが、先輩の自由だけど)


 そう思うのに、胸の奥のざわつきは消えてくれない。

 無意識に、スマホの画面を覗こうと体を傾けた――その瞬間。


「……何か用か?」


 低く落ち着いた声が、すぐ隣で響いた。


「っ……!?い、いえ、なんでも!」


 藤咲は勢いよく背筋を伸ばし、慌てて視線を逸らした。

 橘は一瞬だけ目を細めたが、それ以上は何も言わず、スマホを伏せてデスクに置いた。その動作が、藤咲の小さな探りを無言で制するようにも思えた。


(やば……バレた?)


 橘の視線が一瞬、自分の動きを探るようなものに見えて、内心ひやりとする。


(危ない……自然に聞き出さないと)


 だが、もう黙っているのも限界だった。藤咲は息を吸い、思い切って言葉を投げる。


「先輩って、休日何してるんです?」


「……なんだ急に」


 橘は眉をひそめる。


「いや、ちょっと気になって!」


 しまった、焦りすぎた。

 自分でも無理のある理由だとわかっている。それでも、なぜか言わずにはいられなかった。

 橘は数秒考えた後、淡々と答えた。


「特に変わったことはしてないな」


 それだけだった。

 短く、余白のない返事。

 藤咲は口を開きかけたが、どう繋げていいかわからず、喉の奥で飲み込む。


(もっと、こう!……何かあるでしょ!?)


 安川先輩だったら余裕で一時間は話すテーマですよ?

 なんでこの人はいつもこうなの!?

 けれど、それ以上は踏み込めない。

 結局、モヤモヤだけを抱えたまま、始業時間になった。


――。


 藤咲はパソコンを操作し、資料を作成する。

 顧客向けの不具合修正の報告書。修正前と修正後の画像を貼り付け、修正内容の説明を記載する。


 確認作業をしているはずなのに、画面に意識が集中しない。

 橘が席を立ち、どこかへ行ったのが視界の端に映る。

 ちらりと彼のデスクを見る。


(休日……何してるんだろう)


 さっきの会話が、ずっと頭の中に残っていた。

 「特に変わったことはしていない」と言った橘の表情。

 何の感情も感じられない、無機質な答え。

 けれど、本当にそうなのだろうか。


(先輩のことだから、余計なことを言わないだけかもしれない……)


 スマホを見ていたのも、何か予定があったから?

 デートの予定だったりするのか?


 ――そんなこと、考える必要なんてないのに。


(まずい……集中しないと)


「お前、その報告書の書式古くないか?」


 不意に、低い声が落ちた。


「えっ……?」


 驚いて振り向くと、橘の横顔がすぐ近くにあった。

 いつの間にか、デスクに手をついて画面を覗き込んでいる。


(え、近い……)


 涼しげな目元が、真剣に画面を追っている。

 肩が触れそうな距離まで寄られると、息が詰まる。


「やっぱり項目が無いな。この前新しい書式になっただろう」


 低く静かな声が耳元で響く。

 藤咲は、一瞬思考が止まりかけたが、慌てて画面に視線を戻す。


「す、すいません。そうでした……」


「内容は伝わるだろうが、顧客との取り決めだからな」


 橘の視線が画面から離れ、ゆっくりと身体を戻す。

 ようやく彼の気配が遠ざかり、藤咲は小さく息を吐いた。


(……なんでこんなにドキッとしたんだろう?)


 これまでも似たようなことはあったはずなのに。


(考えても仕方ない。仕事に集中しないと)


 そう思い直し、意識を画面に戻す。けれど、一度芽生えた違和感は消えてくれず、じわじわと意識を侵食していく。


――。


 どこか集中しきれないまま、時間だけが過ぎていく。

 そんな中、藤咲は安川から頼まれたファイルをメールで送信する。

 しばらくすると、向かいの安川が怪訝そうに言った。


「藤咲ちゃん。これ違うファイルじゃない?」


 藤咲は驚いて送信済みのメールを開くと、頼まれたものとはまったく別のファイルが添付されていた。


「えっ……あ、本当だ!!」


 自分でも信じられない。

 確かに確認したはずだった。


「ちょっと待ってください。すぐ送り直します!」


(なんでこんな単純なミス……?)


 いつもなら、こんなミスはしないのに。

 藤咲は少し前にも、橘へ送信したメールでミスをしていた。


(ミスも増えてるし……)


 違和感が、心の中でゆっくりと広がる。

 ――集中しないと。

 藤咲は気を取り直し、仕事を再開した。


――。


 オフィスには淡々とキーボードを叩く音が響く。

 けれど、落ち着かない気持ちが拭えないまま、藤咲は画面を睨んでいた。

 その緊張感を断ち切るように、橘の静かな声が、オフィスの空気を凍らせる。


「藤咲、このシステムは本番環境で動作確認したか?」


「はい……しました……と思ったんですけど……」


 先ほど修正を完了し、橘に最終確認をお願いしたシステムを開き、本番環境にアクセスし、動作確認をする。


 しかし――。


「……あれ……?」


 嫌な汗が背中を伝う。


「……動作確認は”動くだろう”で済ませるな。しっかり確認しろ」


 橘の声が、いつもより低かった。

 その口調に、藤咲は小さく息を呑む。

 厳しい言葉だったが、当然のことだ。


「……すみません」


 気づけば、指が震えていた。


(なんで……また……)


 じわりと悔しさが込み上げる。

 今まで、一生懸命仕事を覚えてきたはずなのに。


 今日はなぜか集中できていない。

 どうしても、先輩のことが気になって――。


(……それが、原因?)


 認めたくなかった。

 でも、無意識のうちに、橘の席をチラリと見てしまう自分がいる。

 意識の片隅に、彼がいる。


(なんで……こんなに、気になって……)


 胸の奥が、ざわつく。

 藤咲は、歯を食いしばった。

 今は、そんなことを考えている場合ではない。


 ――仕事に集中しなきゃいけない。


 それなのに、橘への意識が消えてくれなかった。


――。


 午後のオフィスは、静かだった。

 昼食後のゆるやかな空気が漂う中、藤咲は無意識に奥歯を噛みしめながら、自分の画面を睨んでいた。


(今度こそ、大丈夫……ちゃんと確認した……)


 テスト環境でのデータ登録は、特に問題なく完了している。

 先輩に言われた通り、慎重に作業した。

 今度こそ、ミスをせずにやり遂げる。


 そう思った矢先だった。

 橘のデスクの電話が鳴る。

 無駄のない動作で受話器を取り、短く名乗った後、橘はじっと相手の話を聞いた。

 数秒の沈黙の後、彼の声がわずかに低くなる。


「……はい」


 藤咲は、無意識のうちに手を止める。


(何かあった……?)


 橘は静かに相手の話を聞いていたが、やがて小さく息を吐くと、視線を画面に戻した。


「……確認します」


 通話を終えた橘が、キーボードを叩き始める。

 次の瞬間、彼の手がピタリと止まった。


「……お前、A社のテスト環境で商品を登録したか?」


 冷静な声だったが、その響きが妙に鋭かった。

 唐突な問いに、藤咲の背中がこわばる。


「えっ……? は、はい……しましたけど……」


 嫌な予感がする。


「本当に、テスト環境か?」


「えっ……?」


 橘の視線が、冷ややかにこちらに向けられる。

 その瞬間、心臓が一気に跳ね上がった。


(まさか……)


 手が無意識に震えるのを感じながら、ログを開く。

 スクロールする指先が、じわりと冷たくなっていく。

 画面に映し出された履歴――そこに記録されていたのは、間違いなく「本番環境への登録」。

 藤咲がテストで登録したと思った商品は、テスト環境ではなく、A社のデータベースに反映されていた。


「……そんな……」


 心臓が跳ねる。

 冷や汗が頬を伝う。指がかすかに震え、マウスを握る力が抜けかけた。


「A社から、『登録した覚えのない商品があるが、これは何か』と問い合わせが来た」


 橘が静かに告げる。


「……すみません……」


 絞り出すように言うと、橘は深く息を吐いた。


「仕事に集中しろ」


 橘の声が、鋭く静かに響いた。

 その言葉は、冷たく突き刺さる刃のようだった。

 彼の指が、素早くキーボードを叩き、データベースの削除処理を行う。


「本番環境とテスト環境は、見た目がほぼ同じだからミスが起こるのは分かる」


 橘は、ディスプレイから目を離さないまま続ける。


「だが、それは言い訳にならない」


「……はい」


 藤咲の指先が、震えた。

 確かめる機会は、いくらでもあった。

 けれど、それをしなかった。

 気が緩んでいた――いや、何か別のことを考えていた。

 それが、すべての原因だった。


「……すみません」


 再びそう言うのが精一杯だった。

 周囲の空気が、重い。

 向かいの安川がちらりとこちらを見たが、気まずそうに目を逸らした。

 小さく息を吐き、手元のキーボードに視線を落とす。

 その沈黙を破るように、隣から低い声が響いた。


「……何かあったのか?」


 唐突な問いに、心臓が痛いほど跳ねる。

 橘の視線が、まっすぐに藤咲を捉えていた。


「えっ……?」


 いつもなら、彼はこんなことを聞かない。

 ミスはミス。対策を講じ、次に同じことを起こさないようにするだけだ。

 なのに、今日は――


(気づかれてる……?)


 橘からの視線を感じるが、藤咲は俯いたまま震える声で答える。


「……いえ……すみません」


 橘は数秒、何かを言おうとするように藤咲を見つめたが、結局口を閉じた。

 ただ一度、小さく息を吐いて、目を画面へと戻した。


「もういい。作業に戻れ」


「……はい」


 視界がぼやける。

 ミスをしたことへの後悔と、仕事に集中できなかった自分への嫌悪。

 そして、橘に気づかれたかもしれないという焦り。

 何もかもが、自分を追い詰めていく。


(私……何してるんだろう)


 キーボードを叩く指に、わずかに力がこもる。


(こんなことで……仕事に支障を出すなんて……)


 ミスをした自分を責めながら、藤咲は必死に集中しようとした。

 でも――。

 まだ橘の視線を感じているような気がして、心が乱れるのを止められなかった。


――。


 その日の仕事をなんとか終え、会社を出ると、夜の冷たい風が頬を撫でた。

 ぼんやりとしたまま、藤咲は足を前へ運ぶ。


 駅へ向かう道は、いつもと同じはずだった。

 ビルの明かりが瞬き、通りを行き交うスーツ姿の人々。

 でも、今の藤咲の目には、その景色がぼやけて映っていた。


(なんでこんなにミスばっかり……)


 急にミスが増えたのはなぜ?

 気が散ることが増えたのは――


(……先輩のことを考えるようになったから?)


 だけど、飯島に頼まれたから、先輩のことを気にしていただけ。

 だから、先輩の行動を気にするようになったのも、当然のこと。

 それ以上の意味なんて、ないはずだった。


(……ないはず、なのに)


 喉の奥に、何かが引っかかる。

 たしかに、最初はただの頼まれごとだった。

 でも、今は――?

 先輩のことを知りたいのは、飯島のため?

 それとも――


(……もう何回、同じことを考えてるんだろ)


 考えたくないのに、またぐるぐると同じところを回ってる。

 夜の静けさが、余計に自分の鼓動を際立たせた。

 ふと足を止め、夜空を見上げる。

 漆黒の空に、いくつかの星が滲んでいた。

 深く息を吸い込み、胸の奥に溜まったものを吐き出そうとする。


「……私、どうしたらいいんだろう……」


 小さな声で呟いた。

 夜風が、その言葉をさらっていった。


――今日の藤咲メモ 先輩のせいで集中できないんです!(とは言えないよね。私の問題だし)

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