第十六話 橘のプライベートを探れ!
夜の静寂が部屋を包む。
天井を見つめながら、藤咲は布団の中で身じろぎした。
横になっているはずなのに、まったく眠気が訪れない。
(なんでこんなに考えてるんだろ……)
枕に顔をうずめ、ぼんやりとカフェでの出来事を振り返る。
飯島に頼まれた、橘のプライベートを探る任務。
『とにかく、橘さんのこと、もっと知りたいんだよね!』
『だって、奏ちゃんが一番話せるじゃん!』
断る間もなく押し切られる形で引き受けてしまった。
でも、いざ考え始めると――なんだか、心がざわつく。
(別に、私は先輩のことが気になってるわけじゃなくて……ただ頼まれたから……)
そう自分に言い聞かせるのに、胸の奥が落ち着かない。
もし、飯島が橘のことをどんどん知って、距離を縮めていったら?
本当に付き合うことになったりしたら――?
胸の奥が、ちくりと痛む。
「……いや、違う違う!何考えてるの、私!」
バッと布団を跳ね除ける。
(別に、先輩が誰と付き合おうが、私には関係ないし!)
だけど――そう思うほど、胸のざわめきは増していく。
「はぁ……」
大きく息を吐き、布団の中に潜り込む。
とりあえず、余計なことは考えず、作戦を立てることにした。
「作戦……作戦……」
仕事中はだめだ。間違いなく「仕事に集中しろ」と怒られる。
となると、チャンスは始業前、昼休み、それから就業後。
(でも、先輩はいつも残業してるし、就業後は無理かぁ……)
となると、始業前と昼休みだけ――それだけ?
(あれ?無理じゃない?)
そもそも、どうやって聞けばいいの?具体的な方法が思いつかない。
相手の事を探るなんて初めてだ。経験値はゼロ、スキルもない。
初めての相手が、よりにもよってあの先輩とは……。
何か手がかりがないかと、スマホのブラウザを開く。
そして、検索ボックスに「プライベート 詮索」まで入力したところで、検索候補にゾッとする言葉が並んだ。
『プライベート 詮索 気持ち悪い』
『プライベート 詮索 うざい』
『プライベート 詮索 ハラスメント』
(……うわ……)
藤咲はスマホの画面をそっと閉じた。
もし逆の立場だったら?
自分のことを誰かに探られていたら、絶対に嫌だ。
やっぱりやめた方が……と考えていると、あることにふと気づく。
(あれ?でも、先輩に聞かれたら別に嫌じゃないような……)
「いやいや、なんでまたそっちに考えが行っちゃうの!」
(……もういい!)
藤咲は枕に顔をうずめ、スマホを遠くへ放り出した。
「明日の私に任せる!おやすみ!」
自分に言い聞かせるようにそう呟いて、目を閉じた。
――。
翌朝。
電車の揺れに身を任せながら、藤咲はぼんやりとスマホの画面を眺めていた。けれど、そこに映るニュースの文字はまったく頭に入ってこない。
(……やっぱり、詮索って、よくないのかな)
昨夜、検索候補に表示された言葉を思い出しただけで背筋がぞわっとする。
飯島に頼まれたからといって、先輩のプライベートを探るのは、本当に許されることなんだろうか?
(でも、別にストーカーみたいなことをするわけでもないし……)
橘がどんな趣味を持っているのか、休日は何をしているのか、彼女はいるのか、それをほんの少し聞くだけ。それなら、ただの世間話ってことでいいんじゃない?
(うん、そうだよね……普通に話してれば、ふと出てくることもあるはずだし……)
世間話の延長なら、全然問題ない。何も悪いことじゃない。
決意を胸に電車を降りる。歩を進めるたびに、心の迷いが少しずつ晴れていくような気がした。
――。
オフィスに到着すると、まだ人はまばらだった。
その中で、いつものようにすでに出社している橘の姿が目に入る。
彼はスマホを片手にじっと画面を見つめていた。
(先輩は毎日早いな……)
藤咲は自分の席に着くと、橘に挨拶した。
「おはようございます、先輩」
画面に集中していた橘が、こちらに視線を向ける。
「ん?ああ、おはよう」
淡々とした返事とともに、スマホをデスクの上に置いた。
しかし、なにかいつもと違う。スマホを置いた後も、口元にわずかに柔らかな余韻が残っている気がした。
「猫の画像でも見てたんですか?」
「いや、違う」
いつも通り淡々とした口調だったが、橘は一瞬スマホへ視線を戻した後、微妙に目を逸らした。
藤咲にはどことなくその動きが不自然に見えたが、そんなことより――と話を広げる。
「そういえば、この前、猫の接し方の話をしたじゃないですか」
橘がまた視線を向ける。
「ああ」
「その後、猫に遭遇しました?」
藤咲はいい感じに話を広げられたのではと内心思いながら橘の返答を待つ。
しかし、彼は少し考え込むような間を作り、それから答えた。
「……いや、あれ以降まったく見かけてない」
「そ、そうですか……」
しまった、話が広がらない!
「えっと……、探してる時に限って見つからないってやつですね」
なんとか繋ごうと笑ってみせるが、橘は「まあな」と言って、パソコンを操作し始めた。
話を終わらせたくない。でも、これ以上猫の話を引っ張るのも不自然かも……?
(プライベートの話となると、ほんと最低限の話しかしないなこの人……)
次の話題をと悩んでいると、オフィスが徐々に賑やかになり始める。
始業時間が近づき、同僚たちが次々と出社してきた。
結局、橘のプライベートについて何も聞き出せないまま、仕事の時間が始まってしまった。
(くっ……これは、長期戦になりそう……!)
藤咲は小さくため息をつくと、しぶしぶ仕事を開始した。
――。
昼休みに入り、藤咲は橘の席をちらりと見る。
彼はいつものように淡々とデスクを片付け、席を立とうとしていた。
(よし、チャンス!)
「先輩、お昼行くんですか?」
「……ああ、コンビニに行く」
「私も行きます!」
橘はわずかに眉を上げたが、特に気にする様子もなく、そのまま歩き出した。
藤咲はさりげなく隣に並び、スマホをポケットに押し込みながら話を切り出す。
「先輩、毎日コンビニですよね?」
「まあな」
「昼はコンビニ弁当ですけど、夜はどうしてるんです?」
何気ない調子で聞いたつもりだったが、橘は一瞬だけ視線を向け、すぐに前を向いた。
「いろいろだな」
(その「いろいろ」の中身を詳しく聞きたいんですけど!?)
エレベーターに乗り、他の社員も入ってきたため、会話を止めた。
藤咲は隣に立つ橘を見上げた。
(毎日見てるはずなのに……改めて見ると、やっぱりデカいな……)
「なんだ?」
橘は藤咲の視線に気づき、見下ろしながら聞く。
「いや、先輩は大きいなと」
「今更だろ」
「まあ、そうですけど」
エレベータが一階に到着し、二人はビルの出口を出ると並んでコンビニへ向かう。
藤咲はすかさず橘に問いかける。
「先輩って、一人暮らしですよね?」
「ああ」
「手料理とか恋しくなりません?」
「お前は料理ができないのか?」
即座に跳ね返ってきた予想外の問いに、思わず肩がビクッとする。
「えっ?私、普通に作れますよ!」
(まあ、本格的なものは作ったことないけどレシピを見ればたぶん……)
謎の対抗心が発動し、つい見栄を張ってしまう。
「ほう……」
二人は信号待ちで立ち止まる。
橘はじっと藤咲を見つめ、わずかに目を細めた。
(あれ……?なんか雲行きが怪しいような……)
そして、じっくり探るような口調で問いかける。
「得意料理は?」
「えっ、えっと……肉じゃがとか?」
藤咲はそう言ってぎこちなく笑うが、橘の視線が鋭くなった気がして、思わず目を逸らす。
すると、橘の口元にほんのわずかに笑みが浮かんだ。
「だしは何を使ってるんだ?」
「……えっ?」
「煮汁の調味料の割合は?」
藤咲は、一度口を開いたものの、何を言うべきか決まらず、結局乾いた笑いでごまかすしかなかった。
(そんなの、知らないよ……!!)
橘は短くため息をつくと、静かに言った。
「お前、作ったことないだろ」
グサッ。
「……違います!その……そう!ちょっと特殊な作り方をするんです!」
藤咲は何を思ったのか、自分の傷口を更に広げる。
「それは興味深いな。今度教えてくれ」
「えっ、それは……企業秘密で……」
ちょうど信号が青に変わる。
「あ!私は急ぐので、それじゃあ!」
藤咲は追求を恐れてごまかすようにコンビニに走り出した。
橘は藤咲の走る後ろ姿を眺め、軽く口元を緩めた。
(これじゃ、自分の料理スキルの無さを暴露しただけじゃん……!)
コンビニへ着くと、藤咲は恥ずかしさを隠すように早々と買い物を済ませ、一人で会社へと戻った。
(くっ……これは、別ルートで探るしかない!)
――。
藤咲が会社に戻り、昼食を食べていると、橘も少し遅れて戻ってきた。
先ほどのやり取りを蒸し返されるのではと、内心ヒヤヒヤしていたが、橘は特に話しかけることもなく、淡々と昼食を食べていた。
(次の休日は肉じゃが作ってみようかな……)
お互い昼食を食べ終えて少しした頃、橘はスマホに電話が来たのか、足早にオフィスを出る。
それと入れ替わるように安川が帰ってきた。
チャンス到来とばかりに、藤咲は安川に話しかける。
「安川先輩、ちょっといいですか?」
「ん?どうしたの?」
「橘先輩のプライベートって、何か知ってます?」
直球の質問に、安川は「おっ?」と目を輝かせた。
「急にどうしたんだい?」
「実はさっき橘先輩に料理の話で突っ込まれて恥をかいたので、ちょっと弱みを探してみようかと」
藤咲の目的が、いつの間にか妙な方向にシフトし始める。
「なんだ、そういうことか~。でもね、僕のプライベートの方が面白いよ?」
「えっ!?いや、橘先輩の……」
「いやいやいや、実はさ、僕、最近新しい趣味を始めたんだけど――」
(正直、1ミリも興味がないんですけど!?)
安川が話し始めて何分経っただろうか。
藤咲は腕を組み、半分寝かけたような顔で安川の話を聞いていた。
「でね、それがすっごい難しくてさ!結局、三回くらいやり直して、やっと成功したんだよ~!」
(ふーん……そうなんですねぇ~~~~……)
心の中の返事が、他人事すぎて自分でも引くレベルになっていた。
安川の声は、もはやホワイトノイズ。
いや、いっそ睡眠導入BGMとして聴いた方が有効活用できそうだ。
「でもさぁ、これってすごくない?僕なりに頑張ったっていうか、成長っていうかさぁ~」
――成長、ですか。
この話を聞かされる私の忍耐力も、成長している気がしますね。
そんな思いを抱えつつ、もう無理だと意識が途切れようとした寸前で――
「……お前ら、何してんだ?」
静かな低音が落ちてきた。
ハッとして顔を上げると、橘が腕を組みながら立っていた。
表情は無だが、そこにじわじわと「呆れ」が滲んでいる。
(えっ!?いつの間に!?)
一方の安川は、まるで「ナイスタイミング!」と言わんばかりの笑顔で橘に話しかけた。
「橘さんも聞いてくださいよ~!」
「……断る。昼休みは終わりだ」
橘は深くため息をつきながら、まるで関わるのも疲れると言わんばかりに席に着く。
「えっ、もうそんな時間!?いや~、話が盛り上がってて気づかなかったなぁ!」
(途中で私を振り落として一人で盛り上がってましたけどね!)
次はマネキンでも用意してそれに話してもらおう。
話してる途中にこっそり入れ替われば気付かれないでしょ。
……いや、ハンガーにスーツかけておくだけでもいいか?
結局、藤咲の忍耐力(と精神力)だけが鍛えられた昼休みだった。
――。
午後の就業時間中。
藤咲はトイレに向かった後、軽く伸びをしながらオフィスに戻ろうとしていた。
(うーん……結局、何も聞けてない……)
そんな時、休憩スペースで篠塚が一息ついているのが目に入った。
彼女は藤咲たちとは別のチームだが、各チームのサポートをする役割を担っており、藤咲もたまにお世話になっていた。
また、以前安川の過去についても、篠塚から話を聞いたことがある。
(……ベテランの篠塚さんなら、何か知ってるかも?)
チャンスを逃すまいと、藤咲は自販機でペットボトルの紅茶を買い、そのまま篠塚の隣へ。
「篠塚さん、お疲れ様です!」
「お疲れさま。藤咲ちゃんも休憩?」
篠塚は手元のカップを軽く揺らしながら、穏やかに微笑んだ。
「はい。あの……橘先輩って、プライベートの話とかしないですよね?」
篠塚は藤咲を見つめ、一瞬考え込むような表情を浮かべた。
「……そうね。最近は特に話さなくなったかも」
「えっ、最近?」
「昔はね、もうちょっと話してたんだけど……ある時期を境に、あまりプライベートのことを言わなくなったのよね」
「ある時期?」
「詳しくは知らないけど……。何かあったのかもしれないわね」
(……何か、あった?)
藤咲は無意識にペットボトルの蓋をいじりながら考える。
探れば探るほど、わからなくなる。
でも、そのせいで逆にもっと知りたくなっている自分がいた。
「……うーん、気になる」
思わず独り言のように呟いてペットボトルの紅茶を一口飲む。
それを聞いた篠塚が小さく笑った。
「もしかして、橘くんのこと好きなの?」
「ぶっ!!!」
盛大に紅茶を吹きそうになった。
「な、な、な、何言ってるんですか!?そんなんじゃないです!!」
藤咲が慌てて手を振ると、篠塚は「ふふ」と意味ありげに微笑んだ。
「大丈夫よ?橘くんには言わないから」
「だから違いますって!!」
結局、藤咲の橘のプライベート調査初日はまったくの進展なし。
むしろ、余計なことを考えさせられてしまう結果となったのだった。
――今日の藤咲メモ なんの成果も!!得られませんでした!!(先輩のプライベートは高い壁に守られている!?)