第十五話 変わり始める気持ち
昼前のオフィスは静かだった。
藤咲は画面に向かいながら、修正作業を進める。コードの一部を修正し、動作を確認する。特に問題はなさそうだ。
(よし、これで大丈夫……)
安堵の息をつきかけたその瞬間――
「ガサッ!」
突然の物音に、藤咲は思わずビクッと肩を揺らした。
驚いて振り返ると、橘のデスクの引き出しから名刺の箱が滑り落ち、床にばらまかれていた。
「あっ……!」
席を立ち、拾おうとした藤咲だったが、かき集めようとした手が空振る。
「……っ!」
バランスを崩した勢いでバタバタと数歩進んで、なんとか持ち直す。
「ふぅ……危なかった!」
ゆっくり後ろを振り向くと――そこには、床に散らばった名刺一枚一枚にくっきりと自分の靴跡が刻まれていた。
「やば……」
藤咲はおそるおそる顔を上げると、橘が無言でその光景を見つめていた。
(よりによって名刺を踏みつけるって、結構失礼なことだよね……)
橘の視線が、床に散らばった名刺からゆっくりと藤咲へ。
静寂が重くのしかかる中、藤咲は息を飲む。
「ち、違います!わざとじゃないです!」
慌てて手を振る藤咲。しかし、橘は何も言わず、じっと彼女を見つめる。その視線がじわじわと重くなる。
そして、ぽつりと一言。
「……俺に何か恨みでもあるのか?」
「ないです!!」
藤咲は即座に全力否定した。
「冗談だ。わかってる……。が、随分キレイに踏んでくれたな……」
橘がため息をつき、静かに名刺を拾い始める。
藤咲も「すみません……」と謝りつつ拾うのを手伝う。
「まあ、残り少なかったし、別にいいが」
名刺を拾い終えると、橘はデスクに戻り、パソコンを操作し始める。
藤咲はその様子を伺いつつ、自席へ戻った。
「名刺、発注しとくか」
カタカタとキーボードを叩く音が響く。
しかし、しばらくすると橘の手が止まった。
指でこめかみを押さえ、小さく息を吐く。
(あれ……先輩が不機嫌?珍しいような……。まさか名刺のせいじゃないよね……)
藤咲はおそるおそる橘に話しかける。
「ど、どうしました……?」
「……押しても反応しない」
低い声で橘が呟く。
藤咲がそっと画面を覗くと、名刺発注の画面が開いている。
(ああ……。社内システムかぁ……)
「私もこの前使いましたけど、この社内システムって反応は遅いし、たまに表示がおかしくなるし、結構酷い作りですよね……」
「カチッ……カチッカチッ……」
決定ボタンをクリックする音が悲しげに響く。
しかし、反応を見せないどころか、画面がチラチラと点滅した後――
「なに!?……入力したデータが……」
「消えましたね……」
再入力しようとする橘。しかし、またもやデータが反映されず、ただ時間だけが過ぎていく。
最後にもう一度、力強く決定ボタンを押す。しかし、画面は微動だにしない。
橘は短く息を吐くと、静かに立ち上がった。
「総務部に行く」
短くそう告げると、橘は無言でオフィスを出て行った。
(あれ?怒ってる……?)
橘の操作していた社内システムの画面を見ると、「もう一度入力してください」のエラーメッセージが見えた。
「……まあ、これは仕方ない気がする」
――。
橘は三階の総務部のオフィスへ足を踏み入れた。
システム開発部とは違い、ここはどこか落ち着いた雰囲気が漂っている。キーボードの音よりも、紙をめくる音や電話応対の声が目立ち、穏やかに時間が流れていた。
(……いつもの人はいないのか?)
総務部のカウンターの前に立ち、ざっと見渡すが、普段対応してくれる社員が見当たらない。とりあえず誰かに聞いてみるかと、視線を動かした時、一人の女性と目があった。
「橘さん。どうしましたか?」
その女性がぱっと表情を明るくしながら話しかけてくる。
「……藤咲の同期の……」
橘が名前を思い出せず、口ごもる。
話したことは何度かあったが、特に深く関わる機会がなく、名前を覚えていなかった。
「飯島です!」
飯島が少し力強く名乗った。
「橘さんが総務部に来るなんて珍しいですね!」
飯島の声が弾む。
「名刺の発注をお願いしたいんですが、誰に頼めば?」
橘は淡々と来た理由を伝える。
「あ、それなら私が対応しますよ!」
「そうですか。じゃあ、お願いします」
飯島は近くの書類ケースを探って、一枚の申請書を取り出すと、ペンと一緒に橘へと渡す。
橘が申請書に記入する間、飯島はその手元をじっと見つめていた。時折、橘の顔を盗み見るが、視線が合いそうになり、慌てて目をそらす。
橘は無言で申請書を書き終え、静かに差し出した。
「問題ないですね。すぐ入力します」
飯島がそう言って、カウンターの脇に設置されたパソコンで作業を始めたその時。
橘は近くのデスクの影から、何やら視線を感じた。
(……?)
ちらりとそちらを見ると、何やらこそこそと話す二人組の姿があった。
「ねぇ……橘さんって言ってたよね?もしかして、前に飯島が言ってた人?」
「うん、たぶん……!」
ひそひそと交わされる声が、妙に熱を帯びている。
(なんだ……?)
二人は橘の視線に気づき、すぐにそっぽを向く。
その瞬間、飯島がさっと顔を上げ、小さな声で言った。
「余計なこと言わないでください!!」
「えぇー?」
「だって、飯島がいつも――」
「しーっ!!!」
飯島が全力で制止する。
橘は淡々と待機していたが、そのやり取りを耳にして、やや怪訝そうに飯島を見た。
「……何か問題でもありました?」
「いえ!なんでもありません!!」
飯島はやや強引に話を打ち切り、急いで作業に戻る。
橘は深く追求せず、静かにその話を終わらせた。
「……また不安定ですね、このシステム。もう慣れましたけど」
苦笑しながら、飯島は入力を続ける。
橘は一瞬口を開きかけたが、考え直し、そのまま黙って入力を見守ることにした。
(彼女に言っても仕方がないよな……)
「はい、これで発注完了です!」
「ありがとうございます。助かりました」
橘がやや形式的に礼を述べると、飯島は笑みを浮かべる。
「届いたらすぐに持っていきますね!」
その後ろで、総務部の同僚たちが小さく騒ぐ。
「飯島!そこでもっとアピール!」
「いや~、飯島がずっと言ってた通り――」
「言ってない言ってない言ってない!!!!!」
飯島は必死に同僚を制止しながら、橘を見て会釈する。
橘も軽く会釈を返して総務部を後にした。
(……やはりここの空気は落ち着かないな)
システム開発部とは異なり、やわらかな会話のやり取りが飛び交うが、それが逆に落ち着かなかった。
(どうにも、俺には馴染まない)
静かに息を吐き、エレベーターへと向かった。
――。
「んーっ……!」
定時を迎え、藤咲は軽く伸びをする。
最近はプロジェクトが落ち着いてきており、残業をする同僚も少なくなっていた。そのため、定時を迎えると、オフィス内には早々に帰り支度をする人の姿が目立つ。
藤咲も帰り支度を終えるとすぐに席を立ち、「お疲れ様です!」と周囲に挨拶をしながらオフィスを出た。
エレベータが混み合っていたため、階段で一階までゆっくりと降りる。
ビルの出口へ向かい、外に出た瞬間、背後から声をかけられた。
「奏ちゃ~ん!」
振り向くと、飯島が駆け寄ってくる。
藤咲は頬を緩ませた。
「奈央ちゃんも帰るとこ?」
「うん。そうだよ~」
入社からしばらく経ち、藤咲と飯島は自然と名前で呼び合う仲になっていた。
「ねえ、ちょっと寄り道しない?」
「え?どこ行くの?」
飯島はスマホを取り出してクーポンの画面を藤咲に見せる。
「この季節限定のやつ、めっちゃ美味しそうじゃない?」
「へぇ~、美味しそう!」
藤咲は画面に表示されたクリームがたっぷり乗ったデザート系ドリンクを見て目を輝かせる。
「行っちゃう?」
「私の脳が甘いものを欲しがってる!」
「あはは。じゃあ、行こう!」
二人は並んで歩きながら、駅近くのカフェへ向かった。
――。
カフェに入り、注文を済ませ、トレイを持って席へ向かう。
藤咲はドリンクを手に取り、ストローを使ってクリーム部分を一口食べた。
「あま~い……!疲れが取れる~」
飯島は藤咲の様子を見ながら、ドリンクをストローでくるくるとかき混ぜつつ、口を開いた。
「そういえば、今日橘さんが総務に来たよ」
「ああ、名刺の件で?」
「そうそう。やっぱり落ち着いてたっていうか、余裕ある感じだったなー」
「まぁ、慌てるタイプじゃないよね」
「でもさ、なんで社内システム使わないで、直接総務に来たんだろう?」
「あー、それね……最初はシステムでやろうとしてたけど、動かなくて諦めたんだよ」
「なるほどね。確かに最近反応悪いんだよね……」
「横で見てたんだけど、入力データが消えたりしてかなり酷かったよ……」
二人は顔を見合わせて苦笑した。
――。
「でも、橘さんってちゃんと対応する人だよね」
話の流れで飯島がぽつりと呟いた。
「どういうこと?」
「私さ、社内システムの入力に不備があった時、いろんな人に修正をお願いしに行くんだけど……」
飯島が少し眉を寄せながら続ける。
「……みんなさ、『システムが悪いんだよ』とか、『そっちでなんとかできないの?』とか、文句ばっかり言ってくるの。文句を言わないまでも明らかに機嫌が悪くなったりさ」
飯島の不満そうな顔を見て、藤咲は「それはひどいね~」と同情するように返す。
しかし、すぐに飯島の表情が緩む。
「それでね、橘さんにも何度か修正をお願いしに行ったことがあるんだけど。橘さんは『まず謝ってくれる』し、『ちゃんと話を聞いてくれる』し、いっつも丁寧に対応してくれるんだよね……」
「あー、それはわかるかも。先輩が理不尽に怒ることなんて見たことない」
藤咲はカップを置くと、少し目を伏せて続ける。
「最初、先輩は他人にあまり興味が無いのかなって思ってたんだけど、違ったんだよね」
「へぇ、なんでそう思ったの?」
「最初の頃、無駄話しないし、感情もあまり表に出さないし。だから、何考えてるかわからなくてさ」
「たしかに、クールな感じだもんね」
「でも、ずっと一緒に仕事してると、ただ必要以上のことを言わないだけってわかってきた」
「ふむふむ」
飯島はドリンクを飲みながら真剣な表情で藤咲の話に耳を傾ける。
「教育係だからかもしれないけど、私のことをちゃんと見てくれてるし」
「どういうこと?」
「最近、お客さんの問い合わせ対応をするようになったから、納品したシステムのマニュアルを読んで勉強してるんだけど」
「奏ちゃんがんばってるんだね」
「うん。正直頑張ってるなって自分でも思ってる。あはは」
「奏ちゃんはいっつも一生懸命って感じがする」
「そう……?それで、この前お客さんから緊急の問い合わせがあってね。業務に影響が出るようなやばいやつでさ」
「うんうん」
「たまたま私がその原因を見つけたんだよね。偶然だよ?」
「偶然でもすごいじゃん」
藤咲はストローをいじりながら、少し照れくさそうに続ける。
「そしたらさ、先輩が、偶然じゃないって、私が日頃勉強しているから気付いたんだって言ってくれてさ……」
「それめっちゃ嬉しいやつじゃん」
「そうなの……。その後、『ありがとな』って言ってもらった時、私……」
一瞬、ふっと微笑んだ。しかし、すぐに視線を落とし、指先でカップをなぞる。
「……なんか、すごい嬉しくて……」
藤咲はカップを真剣に見つめていた。しかし、その目に映っていたのは、カップの中の飲み物ではなかった。
その表情を見て、飯島は何かを察したように、そっと笑う。
「……ねえ、奏ちゃん」
「ん?」
「橘さんのこと、どう思ってる?」
「えっ……?」
「その……特別な感情とかあったりしない?」
「えっ!?それは無いと思うけど……」
藤咲は慌ててストローでドリンクをかき混ぜる。
その手つきが妙にぎこちない。
「その反応は気があるってことじゃないの~?」
飯島はストローを咥えたまま、ニヤリと笑う。
「正直私もよくわからないんだよね……」
飯島は藤咲の様子をじっと伺う。
(……奏ちゃん、素直になれないって感じかな?)
「そっかぁ~。じゃあ、私が橘さんにアプローチしても問題ない?」
「えっ!!?まあ……私がどうこう言うことじゃないし……」
藤咲は視線を彷徨わせ、思わずカップを持ち直す。
飲むつもりもないのに、ストローに口をつけた。
そして、ハッと何かに気付いたように飯島を見る。
「奈央ちゃんって先輩を好きなの!?」
「好きっていうか、前から気になってたって感じかな」
藤咲は思わず前のめりになったが、飯島の言葉を聞くと、ゆっくりと姿勢を戻す。
「そうなんだ……。確かに前から少し変だなぁと思ってたけど……」
「最初は見た目で『かっこいいな~』くらいだったんだけど、話してみると意外と穏やかでさ。奏ちゃんの話を聞いてると、なんか"できる男"って感じじゃん?正直、気にならない方が難しくない?」
「そう……なのかな……?」
「私以外にも、橘さんのこと気になってる人が何人かいるよ?」
「えっ!?……そうなんだ……」
「でも、そもそも橘さんに彼女がいるかどうかも知らないから。今日は奏ちゃんにいろいろ聞こうと思ってたんだけど」
「私も知らないよそんなこと」
藤咲は口を尖らせて言う。
それを聞いて、飯島は目を丸くする。
「えっ?そうなの?」
「さっきも言ったけど、先輩って必要なことしかしゃべらないからさ……」
「そっかぁ……。じゃあ、必要だと思わせればいいんじゃない?」
「どうやって?」
「プライベートなことも知らないと、一緒に仕事できませんって言うとか?」
「さすがに無理があるような……」
「信頼関係を築くには必要なことじゃない?」
「そう……かなぁ……?」
「とにかく、橘さんのこと、もっと知りたいんだよね!」
飯島は身を乗り出し、藤咲の顔を覗き込むようにしながら、期待に満ちた目を輝かせる。
「だからって私に探らせるの?」
藤咲は思わず身を引くが、飯島は勢いそのままにテーブルに手をついてさらに前のめりになる。
「だって、奏ちゃんが一番話せるじゃん!」
「そうだけどさぁ……。なんか誤解とかされる可能性もあるし……」
(あ、奏ちゃんはもしかして、今の関係が崩れるのが嫌なのかな……?)
藤咲の困った姿に飯島は一瞬ためらうが、そのままの勢いでもう一押しする。
「気をつけて聞けば大丈夫だよ!」
「そんな適当な……まあ、機会があったら……ね」
勢いに押され、藤咲は仕方なく了承した。
しかし、納得がいかない表情で、うつむいたまま飯島をじっと見る。
すると、飯島は意味深に微笑んだ。
「……でもね、知ろうとすると、気持ちって変わるものだよ?」
「えっ?」
「ふふっ、なんでもないよ?」
さらっと流されたはずなのに、藤咲はその言葉がなぜか引っかかる。
(気持ちが……変わる?)
そんなこと、考えたこともなかったのに――ふと、橘の「ありがとな」の声が蘇る。
「……っ!」
慌ててカップを持ち直し、ストローを噛む。
飯島はそれを見て、ますます意味深な笑みを浮かべたのだった。
――今日の藤咲メモ 私は先輩のこと知りたい……のかな?(でも、どうやって聞くの!?)