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第十四話 反映されない新商品

 朝のオフィスには、まだ静かなざわめきが漂っていた。

 「おはようございます」と交わされる挨拶、ロッカーを開ける音、椅子を引く音。

 軽く体をほぐす者、メールをチェックする者、パソコンを立ち上げながらデスクを整える者。

 始業時間まであと数分。それぞれがいつものルーチンをこなしながら、一日のスタートに備えていた。


 そんな中、藤咲はデスクに座り、ファイルに綴じられた分厚いマニュアルを指でなぞる。


(えっと……なになに……?仮登録した商品は手動で……)


「おっ?藤咲ちゃん、またマニュアル読んでるの?」


 向かいのデスクから安川が顔を覗かせる。


「はい……。問い合わせ対応で焦ることが多くて……ちゃんと勉強しなきゃって思ったんです」


「へぇ~偉いじゃん。わからないことがあったら僕に聞いてもいいんだよ?」


「あ、はい……」


 藤咲は苦笑いを浮かべた。


――それは、数日前の出来事――


 橘たちが担当するD社では、システム担当になったばかりの坂本からの問い合わせが増えていた。

 これまで橘が対応していたが、橘の負担を懸念した課長の判断により、緊急時以外の問い合わせは藤咲が担当することになった。


『それで、この項目なんですけど、どこで使われてるんでしょう?』


 電話越しのD社の坂本の声に、藤咲はぎこちなく応じた。


『えっ……あの……確認して折り返します!』


 マニュアルを開くが、業務の流れもまだ把握できておらず、どこを読めばいいのか分からない。


(どこ……?どこに書いてあるの……?)


 焦りもあるせいで、なかなか目当ての内容が見つからない。

 長い時間待たせることはできないと思った藤咲は、結局、橘に助けを求めることになった。

 橘は藤咲が見ていたマニュアルを数ページめくった後、該当箇所を指差す。


「それはここで使う。最近追加したものだったはずだ」


「あ、こっち……。こっちにはどこで入力したものかの説明が書いてあるんですね……」


「帳票出力については、その情報が重要だからな」


「入力画面の方のマニュアルには、項目がどこで使われるかは書かないんでしょうか?」


「入力画面はそこまで詳しくは書かないな……。入力方法や機能の説明くらいだ」


「そうですか……もっと詳しく書いてあればいいのに……」


「納品するマニュアルは基本的な仕様のみ記載したもので、簡素な事が多い」


 藤咲は「うーん……」と考え込む。


「それで現場の人は使えるんですか?」


「このマニュアルは見ていない。現場では取引先のシステム担当が作った独自の運用マニュアルを見ている」


「えっ?……それって二度手間じゃ?」


「マニュアルをどの程度詳細に作るかは契約次第だ。詳しく作れば費用も上がる。最低限のマニュアルだけ納品してもらって、自社で運用マニュアルを作る方がコストを抑えられるんだろう」


「なるほど……。そういうことなんですね」


「とはいえ、問い合わせの対応は、このマニュアルに書いてある内容くらいは覚えておかないと、何を聞かれているのかすらわからないだろうからな。時間がある時は目を通しておいた方がいい」


「確かにそうですね。わかりました!」


(マニュアルを一通り見て、全体を把握しないと……って、先に坂本さんに電話だ!)


 藤咲がマニュアルに記載があることをD社の坂本へ連絡すると、坂本は古いマニュアルを見ていたようで、平謝りしていた。


――。


 藤咲が時間を見つけてマニュアルを読むようになったのは、それがきっかけだった。

 マニュアルを見ながら、パソコンの画面に表示したシステムを操作して、一つ一つ機能を確認していく。


「……あれ?」


(マニュアルの画面と違う……)


 藤咲はマニュアルを持ったまま席を立ち、橘に質問する。


「先輩、マニュアルのここ、今の仕様と違うみたいなんですけど……」


 彼は手を止めると、藤咲が指差した部分を確認する。


「マニュアルが古いままだな。最新のを印刷して差し替えておいてくれ」


「仕様変更時にそのままになってたってことですね?」


「そういうことだ。印刷したマニュアルはほとんど使ってなかったからな」


「もしかして私しか見てない?」


「まあ、そうだな」


「じゃあなんでこれあるんですか?」


 藤咲はマニュアルをパラパラとめくりながら、改めて表紙の古びた紙質を確かめる。長年放置されていたせいか、端が少し黄ばんでいた。


「今、お前の役に立っているじゃないか」


 橘は藤咲の方を向いて真剣に言う。


「ああ……。確かに……」


「気に入ったなら、表紙に”藤咲専用”とでも書いておけ」


「別に気に入ってませんけど!?」


「そうか?じゃあなんでそんなに大事そうに抱えてるんだ」


「えっ……いや、これは……重いから持ち直しただけです!」


 橘は藤咲が持っているマニュアルをじっと見つめる。


「かさばって邪魔だから、もうお前が保管しておいてくれ」


「邪魔者扱いはひどくないですか!?」


 橘がパソコンに向き直ると、藤咲はトボトボと自席に戻った。


(確かに重いし……かさばるけど……)


 藤咲は口を尖らせながら最新のマニュアルを探して印刷すると、古いままとなっていた部分の差し替えをおこなった。


(こっちが今の仕様ね。えっと……。商品は販売開始日の前日に自動でレジに同期するようになった……と。確かに自動で登録された方が便利だもんね。あれ?でも、元々はなんで手動だったんだろう?)


――。


 始業開始時刻になり、藤咲はマニュアルの確認を止め、今日の仕事に取り掛かった。

 それと同時に、橘のデスクの内線がけたたましく鳴る。


「はい。橘です」


 D社の坂本からの外線と伝えられ、電話が外線に切り替わると、橘が挨拶する前に切迫した声が飛び込んできた。


『橘さん! 大変です!!』


「おはようございます。橘です。トラブルですか?」


 受話器を持つ橘の表情が一瞬で険しくなる。

 藤咲は橘の「トラブル」という言葉が気になり、彼の様子を伺う。


『今日から販売開始の新商品が、レジに反映されてないんです! しかもチラシに載せた商品で、朝から問い合わせが殺到してて……!』


「それはまずいですね……」


 橘の声が低くなる。

 橘は受話器を肩に挟み、パソコンを操作しながら応対する。


『店舗側も混乱していて、店員が手打ちで値段を入力してるんですが、ミスも多くて……!』


「商品の登録作業は完了しているんですね?」


『はい、管理画面には表示されるんですが……』


「わかりました。その新商品の商品コードをメールで送ってください。システム側の状況をすぐに確認します。」


『はい!お願いします!』


 電話を切ると、D社の商品が登録されているデータベースの確認を始めた。


「新商品がレジに反映されない……。登録ミスか、同期エラーか……」


「えっ、朝から修羅場?」


 安川が冗談めかして言うが、橘は低い声で冷静に返す。


「そうだ。D社で新商品がレジに反映されない不具合が発生している」


「……とりあえず、データベース確認しましょうか?」


「ああ、今日販売開始の新商品データがデータベースにあるか確認してくれ。俺は同期処理のログを確認する」


 安川が「了解です!」と応じる。

 橘は素早くキーボードを叩きログの確認を始めた。


 一方、藤咲は以前の問い合わせを思い出していた。


(前にも似たような事があったよね……?確か、データベースに登録された商品データをレジに反映する処理が遅れたとかなんとか……)


 思わず口に出す。


「先輩、前もレジにデータが反映されなかったこと、ありましたよね?」


「……ああ、この前のは同期処理の遅れだったな。とりあえずそれを確認するか」


(私も手伝いたいけど……)


 藤咲は以前橘に言われたこと思い出す。


『データベースは間違った命令を実行したら、最悪全部の業務が止まる』


(データベース怖い!まだ無理……)


 藤咲は歯がゆい思いを抱えつつ、橘と安川の様子をじっと見守った。


――。


「商品データはデータベースにあるし、ログにもエラーはない……。どういうことだ……?」


 橘が画面を見つめながら呟いた。


「レジが壊れちゃったとか?」


 安川は腕を組みながら、片手の甲を顎にそっと当てて、原因を考える。


「いや、それもないな、さっき坂本さんにレジの確認を頼んだが、新商品が読み込めないだけで、エラーなどは出ていないそうだ」


「商品コードは間違ってないんですよね?」


「それもさっきの電話で確認済みだ」


「う~ん。じゃあ、やっぱり同期処理のどこかが止まってるんですかね~?」


「その可能性が高い……が、通常ならログに何かしらの異常が記録されるはずだ。エラーも警告も出ていないのは、おかしい……」


 橘は念の為再度ログを確認するも、やはりエラーらしいものは見当たらない。


 藤咲は、二人のやりとりを聞きながら、なにか引っかかるものを感じた。


(登録はしてるけど、レジに反映されない……。あれ?どこかでそんな状況を見たような……?)


――。


 安川が「うーん」と唸りながら大きく伸びをした。


「でも、こうなるとマジでお手上げじゃないですか~?」


「……少なくとも、俺たちの手元では再現できないな」


 橘の声は冷静だったが、その眉間には小さな皺が寄っている。

 まるで壁にぶつかったかのように、二人の会話が止まった。


 藤咲は二人のやりとりを聞きながら、引き続き小さな違和感を抱いていた。


(同期処理……同期処理……。うーん。なんだっけ……?)


 もやもやと考えながら、無意識にデスクの端へ視線を向ける。

 その隅に、朝に差し替えた古いマニュアルが置かれているのが目に入った。


(これは古いやつだから捨てないと……)


 何気なく手に取ったその瞬間、ハッとする。


(あ……!)


 マニュアルを見ると、「同期処理」の項目が目に留まった。

 見覚えのある文言を追っていると、ある注意書きが目に入る。


 ※仮登録した商品は手動で本登録に変更しないとレジに反映されない――。


(そうそう、これ!)


 椅子を押しのけて立ち上がる。


「先輩!!」


 橘の席へ向かい、マニュアルをデスクに置いた。

 そして、指で先程の注意書きを指す。


「これ、見てください!!」


 突然の藤咲の行動に、橘が視線を向ける。

 その顔には「何事か?」とでも言いたげな表情が浮かんでいた。


「……"仮登録"?」


 橘の眉がピクリと動く。

 腕を組んで考え込む。


「その機能、今はもう使ってないはずだが……」


 藤咲の鼓動が速くなる。

 次の瞬間、橘の目が鋭くなった。


「……いや、可能性はあるな」


 そう呟くと同時に、彼はすぐさまデータベースの確認に取りかかった。

 緊迫した空気の中、キーボードを叩く音だけが響く。


 画面を覗き込む安川が、小さく息を呑んだ。


「……まじか~」


 橘の指がピタリと止まる。


「……やられたな」


 短く言いながら、橘は藤咲の方を見た。

 そして、軽く頷きながら、ポンッと肩を叩く。


「お手柄だ」


 その言葉が、じわりと胸に響く。


(私……役に立てた?)


 背筋にゾクッとした感覚が走ると同時に、胸の奥が少し熱くなるのを感じた。


 橘はD社の坂本に電話をかけ、原因の説明を始める。


「坂本さん、仮登録という機能はご存知ですか?」


『えっ?仮登録ですか?昔聞いたことがあるような……』


「現在の仕様では、商品を登録した際に、販売開始日の前日に自動でレジに反映される仕組みになっています。ただし、"仮登録"の状態で登録すると、手動で”本登録”に切り替えない限り、レジには反映されません」


『えっ……もしかして、その仮登録のままになってるってことですか?』


「はい。以前は、"仮登録"にしてから本部のスタッフが内容を確認し、手動で"本登録"に切り替えていました」


『二重チェックの仕組みですね?』


「ええ、そうです。現在は運用の効率化のため、その工程は廃止されました」


『つまり、昔の手順で"仮登録"したため、いつまで経ってもレジに反映されないと……』


「その通りです。おそらく、登録した方が昔のマニュアルを見たか、旧仕様しか知らない人が登録してしまったのではないでしょうか?」


『なるほど……。私は旧仕様を知らないんですが、本登録はどうすればいいのでしょうか?』


「ああ、それは……」


 橘が手順を説明すると、坂本は『さっそくやってみます』と応じた。

 数分後――


『レジに反映されました!』


 坂本の明るい声に橘の表情がかすかに緩む。


『すみません、どうやら普段登録しているスタッフが不在で、別のベテランスタッフが登録したようなんですが、最新のマニュアルを確認せずに、前の手順でやってしまったようです……』


「なるほど……今後のためにも、スタッフの方には注意喚起したほうがいいですね」


『そうですね。全スタッフへ通知します』


「はい。よろしくお願いします」


 橘は軽く頷き、電話を切った。

 慌ただしい対応が終わり、オフィスに静寂が戻る。


「……解決だな」


 橘が背もたれに軽く体を預け、肩の力を抜く。


「ふぅ~、よかったよかった~」


 安川はそう言って、大げさに伸びをして自席に戻る。


「よかったですね!」


 藤咲は胸元で小さく拍手しながら、安堵の表情を浮かべる。


「仮登録のことはすっかり忘れてたな……。お前がいなかったら、今頃まだログを漁ってた」


 橘の言葉に、藤咲は一瞬きょとんとする。


「あっ、いえ、偶然見つけただけですし……!」


「いや、お前が仕様を理解しようと、マニュアルを読んでいた結果だ」


「そ、そうですか?」


 藤咲は、頬をかきながら「えへへ」と少し照れてはにかむ。

 橘は、少し考え込むように視線を落とした。そして――


「本当に助かったぞ。……ありがとな」


(えっ……)


 一瞬、耳を疑う。

 けれど、確かに橘の口から出た言葉だった。

 しかも、ほんの少しだけ、言うのを迷ったような間があった気がする。


(先輩が……ありがとうって……言った?)


 視線を向けると、橘はもうパソコンに向き直っている。

 まるで、何事もなかったかのように、いつもの淡々とした様子だ。

 突然熱くなった胸の奥をどうにか落ち着けようと、ぎこちなく自席へ戻った。


 戸惑いながら、これまでのやりとりを思い返す。

 いつもは「助かった」で終わりなのに。

 こんなふうに真正面から「ありがとう」って言われたのは——初めてだ。


 鼓動のリズムが少しだけ乱れる。

 仕事のことで褒められただけ。わかってる。


(いやいや、ちょっと待って……私、何を意識してるの!?)


 口元に浮かぶ笑みを隠すように、無意味にペンを手に取る。

 頭では「ただの仕事の評価」とわかっているのに、頬の火照りがなかなか引かない。

 視界の隅で、淡々と仕事を続ける橘の背中がちらりと見えた。


(ダメだ。しばらく冷静になれそうにない……)


――今日の藤咲メモ 先輩の『ありがとう』(また聞けるように頑張る……!)

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