第十三話 初任給と、新たな一歩
「……っ!!振り込まれてる!!!!!」
朝、スマホの画面を見た瞬間、藤咲は思わず布団の中で叫びそうになった。
銀行の口座履歴に表示される見慣れない桁数の数字。
「私の初任給……!このお金には、入社してからの汗と涙が……!」
(まあ、泣いてもないし、汗もほとんどかいてないんだけど……)
じっと口座の金額を見つめるうちに、じわじわと実感が湧いてくる。
「よし!今日は贅沢しちゃおうかな!」
勢いよく布団を跳ね除けたが、次の瞬間、現実が頭をよぎる。
「待てよ……家賃、光熱費、スマホ代、食費……」
一つずつ計算しながら、手元のスマホで試算していく。
途中までは「まあまあ余るんじゃ?」と期待していたが、最後の計算結果を見た瞬間――。
「……あれれ?思ったより自由に使えるお金、ないんですけど……?」
頭の中に浮かんでいた『贅沢』の文字がガラガラと崩れ落ち、その瓦礫の隙間から『現実』の二文字がどっしりと立ち上がる。
「新人だしこんなもんかぁ……」
そう思いながらも、「せっかくだし何か買いたいなぁ」と考えながら支度をして会社へ向かった。
――。
オフィスに入ると、すでに出社している同僚に挨拶をしながら自席へ向かう。
「おはようございます!!」
通勤途中、「ご褒美でも買おうか」と考えていたせいか、藤咲の顔には明らかに緩みがあった。
「あれ~?何か良いことでもあったのかい?」
席に着くと、向かいの安川が、すかさずニヤニヤしながら話しかけてくる。
「えっ!? あ、いや、初任給が振り込まれてたので……それのせいかも……」
自分の表情を意識して、慌てて両手で顔を触る。
「な~るほど! 僕も初任給の時はニヤニヤが止まらなかったな~!」
「お前は今でもニヤニヤしてるだろう」
隣から橘が冷静にツッコミを入れる。
「いやいや、流石にもう給料日くらいではニヤついたりしないですよ?」
「お前、さっき『何買おうかな~』ってニヤついてたじゃないか」
「げげっ、見られてた!」
安川は胸を押さえて「ぐはっ」と大げさにのけ反るが、一瞬で立ち直り、まるで何事もなかったかのように藤咲へ向き直る。
「で、藤咲ちゃんは何に使うか決めたの?」
「通勤途中にいろいろ考えてたんですけど、まだ決まらなくて……」
「初任給といえば、お世話になった人にプレゼントとか、ちょっと贅沢とかだよね~」
「まあ、そんなとこだろうな」
「ちなみに、橘先輩は何に使ったんですか?」
「俺か?俺はノートパソコンを買ったな。初任給だけでは足りなかったから、次の月の給料が出た時に買ったが」
「さすが橘さん。エンジニアっぽいな~!」
「何か目的があって買ったんですか?ノートパソコン」
興味深そうに藤咲が質問する。
「趣味の開発環境を構築した」
「家でもシステム開発……ですか?」
「エンジニアの鏡すぎる……僕にはない発想ですよ~」
「その当時、ちょっと作ってみたいアプリがあってな」
藤咲は興味を惹かれて、ワクワクしながら質問する。
「何を作ったんです?」
「……『デスクトップ2.22』」
「『デスクトップ2.22』? なんですか、それ?」
藤咲が首をかしげる。
「詳細は秘密だ」
「えっ!?教えてくださいよ!」
「だめだ。それに、そろそろ始業時間だ」
(2.22……なんか意味がありそうだけど……。う~ん、なんだろう……?)
藤咲は気になりつつも、仕事を開始した。
――。
昼の休憩時間。藤咲は昼食を終えて自席に戻ると、橘がノートパソコンを開いて作業をしているのが見えた。
(そういえば、先輩って昼休みにたまに私物のノートパソコン開いてるけど……)
朝、初任給でノートパソコンを買ったという話を思い出し、気になって話しかける。
「先輩、それって……朝言ってた初任給で買ったノートパソコンですか?」
「いや、これは二台目だ。初任給の時のは古くなったから買い替えた」
「そうなんですね……」
画面を覗き込むと、『デスクトップ2.22』の開発画面が開かれている。
「えっ? これ、新人の頃に作ったって聞きましたけど、今でも開発が続いてるんですか?」
「調整に調整を重ねて、最近やっと満足がいく出来になってきた」
「すごいこだわりですね……というか、結局どういうアプリなんですか?」
「じゃあ、ちょっと試してみようか」
橘が『デスクトップ2.22』を起動すると、画面の片隅に小さなドット絵の猫が現れ、ゆっくりと瞬きをした。そして、頭上に吹き出しが表示される。
「にゃ~ん」
「え!?猫!?」
「『デスクトップ2.22』はデスクトップ上で猫を飼えるアプリだ」
「あっ!『2.22』って、バージョン表記じゃなくて、『にゃんにゃんにゃん』って意味が含まれてるんですね!」
猫がデスクトップの端から端へ歩き始める。ウィンドウの隙間を縫うように、まるで生きているように動く。
「これ、ずっと歩き回るんですか?」
「そうだ。自由に動き回ることで、よりリアルな猫の行動を再現している」
「……かわいいですけど、視認性がめっちゃ悪いですね。アイコン見えなくなってる……」
「猫がそんなことを気にするわけがないだろう」
「いや、まあ、そうですけど……」
藤咲がマウスをゆっくり動かすと、猫がじっとカーソルを見つめ、瞬間的に飛びかかる。
「わっ、ついてくる!かわいい!」
「なになに~?二人でなにしてるの?」
安川が気になって覗きに来る。
「橘先輩が作った猫アプリですよ」
「おぉ!マウスカーソルに猫が!」
「猫パンチが来るぞ」
「わっ!先輩! マウスカーソルが猫パンチで飛んでいったんですけど!?」
「これ、作業できないんじゃない……?」
安川が呆れたように画面を見つめる。
「先輩、ゴミ箱のアイコンが猫用の食器みたいになってるんですけど?」
「よく気づいたな。そこにテキストファイルを捨ててみろ」
藤咲がテキストファイルをドラッグすると、猫が駆け寄り、画面上でファイルがエサに変換された。
「うわっ、食べた!」
「ちゃんとモグモグしてる……かわいい……」
しかし、しばらくすると猫が画面の端で不満そうに尻尾をパタパタと揺らし始めた。
「……あれ? なんか怒ってません?」
「一定時間内にファイルを捨てないと、猫が機嫌を損ねてデスクトップのアイコンを荒らす仕様だ」
「えぇっ!?そんなに頻繁に捨てるファイルないですよ!」
「じゃあ適当にファイルを作って捨てろ」
「理不尽すぎますよ!!!」
猫がすごい勢いでデスクトップ上を駆け回ると、デスクトップのアイコンがあちらこちらに散らばってしまった。
「あ~あ、アイコンの位置がぐちゃぐちゃになってるよ~」
藤咲が「うぅ~……」と唸りながらアイコンを元の位置に戻そうとすると、猫がまたもやマウスカーソルを狙い、猫パンチを浴びせる。
「あっ!ちょっと!」
なんとか猫パンチを回避しつつ、アイコンを元の位置に戻すと、再び猫はお腹を空かせたのか、アイコンの位置をぐちゃぐちゃにした。
「もう!なんですかこの無限ループ!」
「藤咲。猫を思い通りに操れると思うな」
「修正パッチを希望します!!!」
「仕様だ」
「納得できません!!!」
「橘さん、なんか嫌な事でもあったんですか~?酷い仕様ですよこれ」
藤咲は大量のファイルを作ってゴミ箱に捨て、猫が餌を食べている隙に、なんとかアイコンを元に戻した。
「ふぅ……疲れた。ところで、猫をクリックしたらどうなるんですか?」
「ああ、質問機能が起動する。クリックして何か聞いてみろ」
藤咲が猫をクリックすると、猫が座ってこちらを見つめてくる。そして、吹き出しにマイクのマークが表示された。
それを確認すると、藤咲が話しかける。
「猫ちゃん、今日の天気は?」
猫が音声を認識したのか、クルクルと駆け回る動作をする。吹き出しには考え中の文字が表示された。
藤咲と安川が期待して待っていると、少しして回答が返ってきた。
「にゃにゃ、にゃにゃにゃーん!」
「……え?」
「……は?」
「天気を猫語で答えている」
「わかりませんよ!?」
「わかるかい!?」
藤咲と安川は声を揃えてツッコんだ。
その後もしばらく猫で遊んでいると、猫が画面の端へ向かい、そのままスッ……と姿を消した。
「えっ!? 猫ちゃんがいなくなった!?」
「猫が同じ場所にじっとしていると思うな」
「いや、まあ、そうですけど……」
「家猫が脱走する緊張感を味わえる仕様だ。地図アプリを開いて捕まえろ」
「地図アプリとも連動してるんですね……橘さん、無駄に凝りすぎですよ~」
「いや、ぶっちゃけめんどくさいんですけど!?」
藤咲が仕方なく地図アプリを開くと、現在地の周辺が表示される。画面には、レーダーのような機能が追加されており、猫の居場所が光って表示された。該当の場所をクリックすると、捕獲ミニゲームが起動する。
画面には「素早くクリックして猫を捕まえよう!」というポップアップが表示され、猫が素早く動き回る。
「え、ちょっ……速い!?」
藤咲が焦りながらカーソルを追うも、猫は画面の隅を縦横無尽に駆け回る。
「くっ……!ここ!あっ……!待ってよ!」
何度か失敗した後、ようやくクリックが成功し、猫が捕まると画面に「無事保護しました!」のメッセージが表示された。
「……終わった……」
「橘さん、もうちょっとまともな機能ないんですか~?」
「なら、お片付け機能だな」
橘が猫を掴んで「猫ちぐら」の形をしたアイコンにドラッグすると、散らばっていたウィンドウがすべて整然と並べられ、アイコンも最初の状態に整列した。
「……さっき必死にアイコンを戻した私の努力を返して……」
藤咲はガクッと肩を落とし、虚ろな目で遠くを見つめた。
「元に戻す機能はシステムの基本だろ」
「それなら最初から言ってくださいよ!先輩、わざと黙ってましたよね!?」
藤咲は、ぷくっと頬を膨らませ、眉間にしわを寄せながらムスッと口をとがらせた。
「……さて、もう時間だ。終わりにするぞ」
橘は何事もなかったかのように、ノートパソコンをシャットダウンした。
「ちなみに、今見てもらった機能は全部ジョーク機能だ」
「は!?」
「え!?」
「今回は”気まぐれモード”で起動したからな。通常は、猫が静かに見守る”癒やしモード”か、猫のお世話が主体の”育成モード”で起動する」
「もう……最初からまともなモードで起動してくださいよ……」
「へぇ~、他のモードも見てみたいな~」
「まあ、機会があったらな。さて、仕事の時間だ」
「うぅ……今まさに癒やしモードが必要ですよ……」
「ほらほら元気だして!午後もがんばっていこ~」
安川が藤咲を励ますと、藤咲はしぶしぶ席に戻って仕事を開始した。
――。
その日の仕事を終え、藤咲は駅へ向かう。
スマホを取り出し、銀行アプリを開き、初任給の振り込み額をじっと見つめる。
「……何に使おうかなぁ」
家賃や生活費を差し引くと、自由に使えるお金は思ったより少ない。
贅沢はできないけれど、せっかくの初任給。何か記念に残るものを買いたい。
(先輩はノートパソコン買ったんだっけ……)
朝の会話を思い出す。橘の「趣味の開発環境を構築した」という言葉が、なぜか妙に引っかかっていた。
(……私も、何か作ってみようかな?)
今日、橘の作ったアプリを見て、単純に「面白い」と思った。
ジョーク機能ってことだったけど、自由すぎる猫についつい夢中になっちゃった。
仕事でシステムは作っているけど、それは「やりたいこと」じゃなくて「やるべきこと」。
そうじゃなくて――。
(私が作りたいもの、かぁ……)
仕事の延長じゃなく、もっと気軽に。好きなことを形にする感覚で。
初任給の使い道として、参考書を買うのもアリかもしれない。
それを手に取ることで、新しい一歩を踏み出せる気がするから。
「……なんか、ちょっと楽しみかも」
そういえば、お父さんからもらったお古のノートパソコン、どこにしまったっけ?
久しぶりに起動してみるのもいいかもしれない。
(……あ、そうだ。お父さんとお母さんに何かプレゼント買わなきゃ)
両親のことを思い出し、ふわっと胸が温かくなる。
しばらく連絡を取っていなかったことにも気づいて、少しだけ寂しくなった。
「帰ったらお母さんに電話しよ……」
スマホを握る手に少し力を込めながら、藤咲は夜の街を歩き出した。
――今日の藤咲メモ まずは両親に何かプレゼント!(残ったら参考書かなぁ)