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第十二話 画面の向こう側にあるもの

 橘が黒猫に襲われた朝の出来事から一時間後――。


 猫に襲われた橘の姿を思い出しながら、藤咲はそっと隣を見た。

 いつも通りパソコンに向かい、冷静に仕事を進めているが、スーツの袖口にはうっすらと引っかき傷が見える。本人は気にしていないのか、それとも気にしている素振りを見せたくないのか。


(あの後、なんとか通勤途中の猫探しは阻止できたけど……)


 思わず笑いそうになるのをこらえ、藤咲は目の前の画面に意識を戻した。

 納品作業を控え、手順書を確認していると、不意に橘の声がした。


「藤咲。設定は終わったからファイルのアップロードを頼めるか」


「はい!了解です!」


 手順書を確認しながら、藤咲は取引先のファイルサーバーにログインする。


「えっと……ログインして、フォルダを開いて……」


 ファイルのアップロードが始まる。画面に進捗バーが表示され、数秒後に完了のメッセージが表示された。


「よし!完了っと」


 アップロードが完了したことを橘に伝えると、橘はすぐに取引先のシステム担当者に電話をかけた。


「納品完了しました。動作確認をお願いします。……はい、ドキュメント類はいつもの場所に置いています」


 橘が電話を終えると、藤咲が少し不安な表情で話しかける。


「ちゃんと動くかちょっと心配です……」


 今回納品したシステムは、藤咲が初めて一から制作したシステムも含まれており、いつもとは少し違った緊張感があった。


「気持ちはわかるが、切り替えて次の仕事を頼むぞ」


「はい……」


「まあ、今回は既存システムへの追加だから、もし何かあっても大きな問題にはならないはずだ」


 橘はそう言っていつものように淡々と仕事を再開する。

 一方、藤咲は不安を引きずったまま次の仕事に取り掛かった。


――。


 しばらくすると、橘のデスクの内線が鳴った。橘は席を外していたため、藤咲が電話を取る。


「お疲れ様です、橘の席ですが……」


『D社の坂本さんから橘さん宛に外線が入っています。折り返しにしますか?』


 先ほど納品した取引先からの電話だと知り、藤咲に緊張が走る。


(……どうしよう?)


 藤咲は一瞬、折り返しを頼もうと考えた。しかし、すぐに思い直す。

 内容次第では自分で対応できるかもしれない。もし分からなければ、その時に折り返せばいい。緊張しつつも、これも成長の機会だと自分に言い聞かせた。


(何事も経験だよね!)


 意を決して、「私が対応します」と伝えると、外線に切り替わった。


「お、お世話になっております!し、システム開発部の、藤咲です!」


 声が上ずる。息を飲み込むと、少し口が乾いているのに気づく。


(やばい、落ち着いて……!)


『あれ?橘さんは不在ですか?藤咲さんとは初めてですよね?』


 取引先の坂本が穏やかに尋ねる。


「あ、はい。橘が席を外していまして、代わりに対応させていただきます」


『そうなんですね、私はD社の坂本と言います。よろしくお願いします』


「あっ、こちらこそよろしくお願いします!」


 藤咲は思わず背筋を伸ばし、電話を持つ手に力を込めながら、自然と頭を下げた。


『実は私、最近システム担当になったばかりで、まだ慣れないことが多くて……正直、少し緊張しています』


「えっ、そうなんですか? 実は私も入社したばかりで、まだ電話対応にも慣れてなくて……」


『あ、本当ですか?じゃあお互い新人ですね』


「はい!なんというか……ちょっと安心しました」


『あはは。お互いがんばりましょうね。それで、本題なんですが、今日納品されたシステムについて質問がありまして……』


 藤咲は坂本の寛容な雰囲気に少し肩の力が抜けたような気がした。


「はい。どのようなご質問でしょうか?」


『販売データのレポート出力機能の使い方なんですが……』


 話を聞くと、問い合わせ内容は藤咲が制作したシステムに関することだった。

 藤咲は緊張しつつも、操作方法を説明する。


「あ、それなら……設定ボタンで設定画面を表示してもらってもいいでしょうか?」


『設定画面ですね……。はい。表示しました』


「えっと、その画面の右下に表示項目を切り替えるチェックボックスがあるんです。そこで切り替えができるようになってます」


『あ、そこにあったんですね。いやぁ、見落としてました。申し訳ない』


「いえいえ!」


『助かりました。それでは引き続き確認しますね。また何かあったら電話します』


「はい!よろしくお願いします!」


 電話を終えると、藤咲は大きく息を吐いた。


(はぁぁぁぁぁぁ!!緊張したぁぁぁ!!!)


「おっ、今の電話、もしかして藤咲ちゃんが対応してた?」


 声の主は安川だった。向かいのデスクから身を乗り出し、ニヤリと笑っている。


「はい……もう、めっちゃ緊張しました……」


「おめでとう!電話対応デビュー戦、勝利ってことでいいのかな?初めてなのに落ち着いて対応できてたじゃん!」


「いやいやいやいや……もう何を言ってたかほぼ記憶がないです」


 藤咲は慌てて両手を交差するように振り、必死に否定する仕草を見せた。


「わかるわかる!俺も新人の時、電話鳴るたびに心臓バクバクしてたもん」


「えっ?交渉上手な先輩でもですか?」


「そりゃそうだよ~!でも、意外と一回やっちゃえば、なんとかなってくるんだよな」


「ほんとですか?」


「ほんとほんと。むしろ、これからは"また藤咲ちゃんに聞こう"って思われて、どんどん電話かかってくるかもよ?」


「えぇぇ!?それは困ります……」


「まぁまぁ、ちゃんと対応できたんだから自信持っていこう!」


「……そうですね!」


「たださ、ちょっと気になったんだけど……『入社したばかりで~』って言ったでしょ?あれ、向こうに余計な不安を与えちゃうかもよ?聞かれたなら嘘をつく必要はないけど、敢えて自分から言う必要はないからね。自分はベテランだと思って堂々とね!」


「確かにそうですね……。次は気を付けます!」


 藤咲がそう答えたその時、橘がデスクに戻ってきた。


「ん?なにかあったのか?」


「橘さーん。なんと藤咲ちゃんが”初”電話対応したんですよ!」


「あっ、D社の坂本さんから、今日納品したシステムの使い方について問い合わせがあって……先輩がいなかったので、私が対応しました」


 橘は少し意外そうな表情を見せた。


「ほう……で、ちゃんと答えられたのか?」


「はい!私が制作したシステムのことだったので、無事説明できました!」


 藤咲は質問内容についての詳細を橘に報告する。

 報告を聞き終えると、橘は感心したように頷いた。


「そうか。坂本さんは最近システム担当になったばかりだし、慣れるまではちょくちょく連絡が来るだろうな」


「おおっ!藤咲ちゃん。これはもう"D社担当"就任の流れだよ?」


 安川がすかさずツッコミを入れる。


「えええ!?それはまだ無理ですよ……」


 安川は「そうやって新人の仕事が増えていくんだよね~」と呟きながら、仕事に戻った。


 藤咲は、まだ興奮が冷めやらないまま、先程の電話を思い出す。

 自分の力で誰かの役に立てたことが、素直に嬉しかった。

 そして、自分が作ったシステムを使っている人がいることを、改めて認識した。


「なんか……。自分がちゃんと仕事をしているんだなって……。今更って感じなんですけど、実感しました」


 自分の手を見つめながら手応えを感じている藤咲。それを橘は静かに見つめる。

 藤咲は見つめていた手をギュッと握った。


「私……少しだけど、自信がついた気がします!」


 橘は何かを言いかけたが、考えるように視線を落とし、言葉を飲み込んだ。その表情はわずかに柔らかく、口元にはほのかな笑みが浮かんでいるように見えた。

 しかし、気を引き締めるように表情を戻すと、今度はわずかに口角を上げながら言った。


「なら、やはりD社の対応はお前に任せるか」


「ええっ!?それはちょっと……!」


「自信はどこいった?」


「うぅ……。今回の内容は大丈夫でしたけど、他のシステムについてはまだ無理ですよ……」


「確かにな……。まだまだ勉強が必要だろうな」


「はい……。正直、取引先でどんな業務が行われているかも、よくわかってないです……」


 橘は腕を組んで少し考えた後、話し出す。


「業務を知るには、まず基本的な流れを理解しないとな」


「基本的な流れですか……?」


「今、俺たちがメインにしているのは販売管理システムだが、販売管理の仕事は、大きく四つの流れになっている」


 橘は、指を折りながら説明を始めた。


「まず一つ目は販売。商品が売れれば、売上データが記録される」


「ふむふむ……」


 藤咲はノートを取り出し、素早くページを開くと、メモを取り始めた。

 橘はそれを見ると、普段よりゆっくりとした速度で話を続ける。


「次に二つ目は在庫変動。売れた分だけ在庫が減る。当然、店舗や倉庫の在庫が少なくなれば、補充が必要になる」


「確かに、売るばかりじゃなくて補充しないとですよね」


「それで三つ目は発注。在庫が一定数以下になれば、仕入れ先に発注をかける。発注をミスると、品切れになったり、逆に余りすぎたりする」


「発注ミスで大量在庫とかよく聞きますね」


 藤咲はなぜか山盛りのどら焼きを想像した。


「最後の四つ目は検品。仕入れた商品を倉庫に受け取り、品質をチェックして、問題なければ在庫に追加する」


「販売、在庫変動、発注、検品……思ったより、シンプルなんですね」


「シンプルにまとめれば、な。この『商品を売る、在庫が減る、必要なら補充する』という流れは、どの会社でも基本的には変わらない。そして、それが円滑に回らないと、業務が止まる」


 橘は藤咲に考える時間を与えるように少し間を置くと、続きを話し始める。


「今回お前が作ったレポート機能は、販売データを集計して、分析できるようにしたものだよな」


「あ、そうですね!」


「それは業務でどのように使われると思う?」


「えっ……?」


 唐突な質問に頭の中が一瞬真っ白になる。


(えっと……販売データを集計して、分析できる……ってことは、売上とかを確認するため……?)


「うーん……売上を確認するため?」


「まあ、それもあるな」


 橘は腕を組み、続ける。


「売上の確認は重要だが、それだけじゃない。レポート機能があることで、具体的にどんな判断ができるようになるかを考えてみろ」


「えっ、判断……?」


(判断って言われても……レポートがあれば売上が見える……それで、何を判断するんだろう?)


 藤咲は少し考え込み、メモを見返しながら答えた。


「例えば……どの商品が一番売れてるかがわかる?」


「そうだな。それがわかれば?」


「えっ……えっと、売れてる商品は在庫を多めに用意して……逆に売れてない商品は仕入れを減らす?」


「そういうことだ」


 橘は頷いて続ける。


「レポート機能は、ただ『データを表示するだけ』じゃない。『業務でどう使われるか』を考えると、この機能の必要性が理解できるはずだ」


「確かに……」


「ただ言われたとおりの仕様でシステムを作るのではなく、実際にどんな使い方をされるか、なぜこのシステムが必要なのかを想像しながら作れ。そうすれば、業務への理解度も高くなる。それによって、仕様の勘違いも減るし、問い合わせに対応する時にも役に立つはずだ」


 藤咲は「なるほど……」とメモを取りながら納得する。

 しかし、ふと疑問が浮かんだ。


「でも、実際の業務のことって現場の人に聞かないとわからないですよね?どう勉強すればいいんでしょうか?」


「うちの会社では定例会と呼んでいるが、定期的に取引先のシステム担当者と、システムの運用状況の確認や、現場から上がってきた改善要望などを話し合う会議がある」


「へぇ、そんなものがあるんですね」


「ああ、定例会では業務に関する様々な議題が上がる。それに、基本的には取引先の事務所で行うから、実際の業務を現場で確認することもできるし、現場の人間に直接話を聞くこともできる。それに参加するのが一番だろうな」


「ちょっと面白そうかも」


 橘は「はぁ……」と大きくため息を吐くと、呆れたように藤咲を見つめる。


「面白そうって……。お前は当事者意識が薄いな。もしシステムがバグまみれだったら、そこで袋叩きにされるぞ」


「えっ、怖い!」


「頼むから俺が袋叩きにされないようにしっかり作ってくれよ」


「わ、わかりました……!」


 藤咲は思わず背筋を伸ばし、橘の圧に気圧されるように頷いた。


「とはいえ、お前が定例会に同席するのはしばらく先になるだろうし、まずは問い合わせ対応を通じて徐々に業務を覚えていくことになるな。そのためには、まず各システムの仕様を把握する必要がある」


「全部覚えるのは大変そうですね……」


「そうだな……。問い合わせがあって、詳しい仕様を調べる必要がある場合は、お前にもいくつか頼むことにする。そうすれば嫌でも覚えていくだろう」


「あ、それはいいかもですね」


「あとは、引き続き既存システムの修正を頼むから、その修正を行う時、システムの仕様の確認と、さっき説明した業務の流れを頭に入れて、システムがどの部分を処理しているのかを考えながら触ってみるといい」


「わかりました」


 藤咲は少し考え込んだ後、静かに口を開く。


「少し成長した気でいましたけど、まだ入口にも立ってないような気になりました……」


「入社して一ヶ月程度ならそんなもんだろう」


「うぅ……でも、知るべきことが多すぎて、いつになったら一人前になれるんだろう……」


「焦るな。そのうち、"知らないこと"よりも、"知っていること"の方が増えていく」


「……そうなるといいなぁ」


 画面の向こう側には、人がいる。システムを使う人がいて、初めて仕事が成立する。

 藤咲は、その当たり前のことをようやく実感した。ただコードを書くだけではなく、その先にいる人のために何ができるのか――そう考えたとき、仕事の景色が少しだけ変わった気がした。


――今日の藤咲メモ

 ただ作るだけじゃなく、使う人のことを考えて作るのが大事

 (定例会は怖いけど、やっぱりちょっと楽しみかも!)

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