第十一話 真実と誤解と、届かぬ愛
布団の中でアラームがけたたましく鳴る。藤咲は手探りでスマホを探し、ようやく見つけると、力なくアラームを止めた。
しばらくぼんやりとしたまま、布団の中で夢と現実の境界をさまよう。頭が重い。まぶたは頑なに開こうとしない。ふとオフィスの隅にあった、起動にやたらと時間がかかる旧型のパソコンを思い出す。
「……私は新型のはず……いや、新人型……?」
そんなどうでもいいことを考えながら、寝返りを打つ。
昨日は初めての長時間残業でぐったりしていたはずなのに、布団に入ってもなかなか寝つけなかった。仕方なく動画を見始めたら、気づけば午前二時を過ぎていた。
「……まさか、こんなにハマるなんて……」
先月ドラマ目的で契約した動画配信サービス。
しかし、懐かしのアニメを見たのが運の尽き。そこからおすすめに表示される未知の作品たち――。
「アニメって、いっぱいあるんだねぇ……」
そんなことを考えているうちに、頭が少しずつ冴えてきた。
(そういえば……今日、何か大事なことがあったような……)
……。
……。
(あ!納品日だ……)
体が重い。でも、会社が私を待ってる……。布団の誘惑を振り切るように、なんとか身を起こした。
キッチンに向かい、トースターに食パンをセットし、スイッチを入れる。その間に冷蔵庫を開け、ジャムとパックの豆乳を取り出す。扉を閉めながら、大きなあくびが漏れた。
(残業後は、無理にでも寝たほうがいいね……)
トースターがパンを焼く間、スマホを手に取る。カレンダーアプリを開き、今日のスケジュールを確認する。昨日、最終テストを終えたシステムの納品がある。
(今日は早めに行って、作業手順をもう一回確認した方がいいかな)
ついでに天気予報もチェックする。
(よし、傘は必要なしっと)
ちょうどそのとき、トースターが「チン」と音を立てた。
焼きたてのトーストを取り出し、ジャムを塗ると、リビングのテーブルへ向かう。スマホを片手にしながら、のんびりと朝食を口に運んだ。
SNSのタイムラインをスクロールしていると、友人の投稿が目に入る。
「出張か……私もそのうち行くことになるのかな」
ぼんやりとトーストを食べ、口の中の甘さを豆乳で流し込むと、少しずつ頭が冴えてくるような気がした。
(納品、問題なく終わるといいけど……)
最後のひと口を食べ終え、豆乳をストローで飲みながらニュースを見る。
(うん。やっぱり今日は早めに行こう)
食器を片付けた後、洗面所へ向かい、顔を洗って歯を磨く。冷たい水のおかげで、ようやく頭がスッキリしてきた。
(うわ、クマひど……)
鏡を見ながら手早く化粧を済ませる。
スーツに着替えた後、バッグを肩に掛け、玄関へと向かった。
靴を履き、ドアノブに手をかける。
「行ってきます」
小さくつぶやき、ドアを開けると、澄んだ朝の空気が体を包み込んだ。
(よし!今日も頑張る!)
藤咲は颯爽と家を出た。
――。
駅を出て会社へ向かおうとすると、ふと前方に見覚えのある大きな背中があった。
(あ、先輩だ)
いつも通り、背筋を伸ばし、堂々と歩く橘。
昨日、遅くまで残業していたのに、疲れた様子は全くない。
一方、自分はまだ眠気が抜けず、頭もぼんやり。
(疲労回復の裏ワザとかあるのかな……?)
そんなことを考えながら歩いていると、ふと気づく。
(あれ?……なんかこれ、探偵っぽくない?)
最近見たアニメのセリフが頭をよぎる。
たった一つの真実見抜く!
(見た目は大人!頭脳は新人!その名は、名探偵・藤咲!)
軽快なBGMを頭の中で流しながら、意気揚々と尾行を開始する。しかし、橘の歩くペースは驚くほど速い。じわじわと距離が開き、気づけば遠ざかる背中――置いていかれる!?
(こうなったら気を高めて……ぐぐぐぐ……。カラダもってくれよ!!三倍、かい……なんだっけ?……かいろうけん?……まぁいいや!三倍なんとか拳だっ!!!!!)
謎の赤いオーラを纏い、独特の効果音を発しながら、普段の三倍の早足で橘を追う。信号待ちで少し追いつくものの、限界を超えた速度に身体が悲鳴をあげ、また離される。
(動け!動け!動いてよ!今動かなきゃ、何にもならないんだ!)
自分にそう言い聞かせるが、身体は限界を迎え、その場で沈黙した。
「はぁ……はぁ……」
寝不足のおかしなテンションで楽しくなっていたが、息を切らした途端、ふいに冷静になった。
(はぁ……こんな事で疲れてどうするの……)
ため息を一つ吐くと、今日仕事が終わったらどのアニメの続きを見ようかと考えながら、かなり小さくなった橘の後ろ姿を追った。
曲がり角に差し掛かり、先を行く橘が角を曲がる。
少しして藤咲もそれに続いて曲がる――が、次の瞬間、思わず足を止めた。
(えっ!?)
橘が、曲がってすぐのところでピタリと立ち止まっていた。
反射的に近くの壁際にピタッと寄る。
……そして、そのまま固まった。
(……いや、私、なんで隠れてるの?)
自分でも意味がわからない。
(……まぁいいや、それにしてもなんで止まったんだろう?)
橘の視線の先を見るとその原因が街路樹の陰から現れた。
黒猫だ。
(あの猫……目つき悪い……)
すべてを見透かしているかのような鋭い目つきで、静かに歩道を睨む。
しっぽをわずかに揺らしながら、スッと歩き出す姿には妙な貫禄があった。
焦る素振りはなく、一歩一歩がやたらと堂々としている。
(……なんか、先輩みたいだな)
そう思っていると、黒猫の目が橘を捉えた。
(あれ?そういえば先輩は猫に襲われるって前に……)
次の瞬間、橘が黒猫に向かって猛ダッシュした。
(あっ……)
なぜか全力で駆け寄る橘――!それを見た黒猫が一瞬固まり――
「シャァァァァ!!!!」
「ぐはっ!?」
炸裂するシュバババババ!!!という猫パンチの嵐。
あまりのスピードに、橘はまともに反応する間もなく連打を浴びる。
「俺たちに話し合いの余地はないのか!!」
藤咲は遠くから呆然とその光景を見守る。
(いや、先輩、全力で駆け寄ったら、そりゃ戦闘開始の合図ですよ……)
「俺は……ただ、撫でたかっただけなんだ……」
静かに呟く橘。だが、猫にその思いは届かない。
むしろさらに猫の目つきが鋭くなる。
「シュバババババ!!!!」
「くっ……俺の愛は……届かないのか……!」
(先輩の愛が重すぎるのでは!?)
橘の困惑をよそに、黒猫は怒涛の猫パンチで追撃する。
猫パンチの雨に、橘は一歩後退した。
そして、猫は勝ち誇ったように颯爽と去っていった。
「……なんで俺は毎回こうなるんだ」
呆然と立ち尽くす橘。
その様子を見ながら、藤咲は冷静に結論を下した。
(いや、先輩……それ、自業自得ですよ……)
前に聞いた話では、先輩は「何もしなくても」猫に襲われるんだと思っていた。
だが、これは……どう見ても違う。
先輩が猫に襲われるというより、完全に自分から喧嘩を売っているようにしか見えない。
しかも、それをまったく認識できていない……!?
(……猫との接し方を教えてあげよう)
藤咲はそっと物陰から出て、橘の背後にそっと近づく。
少し息を整え、ニヤリと微笑む。
「おはようございます、先輩」
「……うおっ!?……」
橘がビクッと肩を揺らし、振り向く。
その反応に、藤咲はさらに口角を上げた。
「お前、いつからそこに?」
橘は警戒するように藤咲を見るが、藤咲はすました顔で肩をすくめる。
「さあ?いつからですかねぇ?」
「……そうか」
橘は藤咲の表情になにかを納得すると、ネクタイを直しながら、遠くを見つめた。
そして、どこか寂しそうに、ため息混じりに呟く。
「……やっぱり、俺の愛は猫に届かないようだ……」
(哀愁を漂わせながら言うようなセリフですかね……?)
藤咲は思わずツッコミたくなったが、ぐっとこらえる。
落ち込む橘に、藤咲は「とりあえず行きましょう」と声をかけ、歩き出した。
橘も無言でそれに続き、二人は会社に向かって歩き出した。
「先輩は猫に対する愛が重すぎるんですよ」
「む……」
「猫は警戒心が強いですから、”俺は君に興味ないよ”くらいの感じでいた方がいいですよ?」
「それでは猫に近づけないぞ?」
橘が眉をひそめる。
「そうです。近づかないんですよ。猫が来てくれるのを待つんです」
「しかし、それではいつまで経っても――」
「今のやり方を続けても、仲良くなることはないですよ……」
藤咲は橘の言葉を遮るように、ため息混じりに言い放つ。
「そうなのか……?」
「そうですよ」
藤咲はコクリと頷くと、続けて説明を始めた。
「朝は時間もないので難しいですけど。もし、時間がある時に猫と出会ったら、少し離れた所に座って、猫が来るのをじっと待ってください。目安としては、猫がこちらを見つめつつも逃げる素振りを見せないくらいの距離ですね」
「ただ座るだけでいいのか?」
「はい。なかなか近くに来ないからといって、さっきのように駆け寄ったりしたらだめですよ。来ない場合は諦めてください。さっきみたいにびっくりさせたら、猫が可哀そうです」
「す、すまん……」
「それで、もし猫が近づいてきた場合ですが、静かに手の甲を差し出すといいですよ。手のひらを見せると威圧感を与えることがあるので、甲の方がいいんです。あと、急に動かしたり、上から手を出すと怖がられるので、低い位置にそっと出してください」
「手の甲を低い位置にか……」
橘は腕を組んで考えたあと、おもむろに自分の手の甲をじっと見つめ、低い位置にそっと差し出してみる。
それを見た藤咲も「こんな感じですよ」と言いながら、同じように手の甲を突き出す。
二人は歩道の真ん中で、真剣な表情のまま手の甲を差し出し、静かに向かい合っていた。
――その様子を、すれ違った会社員風の男性がちらりと見て、足を止めかける。
(……何してるんだ、この人たち……?)
男の視線を感じて、藤咲はハッとして手を引っ込めた。
橘も状況に気づき、無言のままスッと手を下ろす。
数秒の沈黙。
「……今、完全に怪しい人になってましたね?」
「……たしかにな……」
二人は何事もなかったかのように、会社に向かって歩き出す。
藤咲は「コホン」と咳払いし、気を取り直して話を続けた。
「……えっと、とにかく、手の甲を出した後、猫が身体を擦り寄せてきたら、撫でてもいい合図です。そしたら、優しく頭を撫でてあげてください」
「詳しいんだな、藤咲」
「私も猫は好きですから。というか、ネットで調べたりしなかったんですか?」
「調べたんだが、いろんな意見があって、どれが正しいのかよくわからなくてな」
「少なくとも、全力で駆け寄れとは書いてないと思いますけど……」
「……よし、次に遭遇したら試してみるか……」
その瞬間、橘の表情がわずかに変わった。
目が鋭くなり、口元がわずかに上がる。
(あ、この人、絶対すぐやる気だ……)
藤咲はわずかに目を細め、呆れたように橘を見る。
「朝にそれやって遅刻しないでくださいね」
「……ああ、わかってる」
橘はそう言いながら、ふと視線を横へと流した。
首をわずかに傾け、路地の奥や街路樹の根元をじっと見つめる。
まるで、今まさに猫を見つけようとしているかのように。
(……ちょっと待って……)
藤咲は顔を引きつらせる。
そして、即座に橘のスーツの袖を掴んだ。
「先輩!今から猫探しはやめてください!遅刻しますって!」
すると、橘は一拍置いて、わずかに口元を緩めて藤咲を見る。
「冗談だ」
藤咲がじっと橘を見つめ続けると、橘は少し目を逸らした。
「やっぱり!!今回は絶対冗談じゃなかったですよね!?絶対探してましたよね!!!」
「……そんなことはない」
「そんなことはありました!!!」
二人はそんなやりとりを交わしながら、足を速めて会社へと向かうのだった。
――今日の藤咲メモ あれ?先輩の猫愛が人に向いたら……(どうなるの!?)