第十話 いつもと違う夜
夕方のオフィスに、キーボードの音が変わらず響いていた。
ふと、藤咲の指が止まる。
壁に掛けられた時計の針は、定時を指している。
いつもなら、パソコンを閉じて帰る時間。でも、今日は――席を立つ気になれなかった。
(私のせいで……)
これまで既存システムの修正だけを担当していた藤咲だったが、先日初めて新しいシステムの制作を任された。制作は順調に進めていたが、ほぼ完成という段階で、藤咲が仕様を勘違いしていたことが発覚する。間違いないと信じていたため、橘に確認せずに進めてしまった。その自信が裏目に出て、橘も気づけなかった。
結果、大幅な作り直しとなり、完成は予定より数日遅れることに。その影響でテストスケジュールが後ろ倒しになり、最終テストが今日中に終わらなければ、明日の納品に支障が出る状態となっていた。
本来なら、とっくに終わっていたはずなのに――。
橘はいつも通り怒らなかった。
むしろ、自分のミスに気づけなかったことを悔いているようにも見えた。
それが、逆に苦しかった。
もし「何やってんだ」と怒られていたら、少しは気が楽だったかもしれない。
(私のせいで遅れたんだから、私も残ってやらないと……)
自分のミスで進捗が遅れたのだから、責任を取るのは当然だ。残業することに迷いはなかったし、むしろ、そうするべきだと藤咲は思っていた。
しかし――。
「定時を過ぎたぞ。もう帰っていい」
「……え?」
「残りのテストは俺がやる」
その言葉に、藤咲は息を飲む。
橘は、新人の自分がミスをするのは仕方がないと考えているのだろう。責めることも、無理に残らせることもしない。ただ、「気にするな」と伝えようとしている。
でも――その優しさが、余計に胸を痛めつける。
「……わかりました」
藤咲はゆっくりと席を立とうとした。だが、足が止まる。
(……帰るの? 本当に?)
ちらりと橘の画面を見る。まだテスト項目は多く残っている。
もし今日、先輩が一人で残って作業するなら――明日の納品に間に合わなかったら?
(それって、私が帰るせいじゃない?)
視線を橘へ向ける。彼は何事もなかったかのように作業を続けていた。
「……先輩」
決めた。ここで黙って帰るなんて、ありえない。
「私も手伝います!」
橘が手を止め、藤咲を見た。
一瞬の沈黙。
そして、ようやく、橘は小さく息をついた。
「前に、好きなだけ残業できるとは言ったが……無理をする必要は――」
「私のせいで遅れたんです。だから、私もやります!」
橘は少しだけ目を細めると、ゆっくりとうなずいた。
「……そうか」
こうして、藤咲は初めて、仕事に追われる夜を過ごすことになった。
――。
時刻は午後八時。オフィスの静寂が、次第に深まっていく。
気づけば、灯りがついているのは自分たちの区画だけだった。ぽつんと残されたデスクを、蛍光灯の冷たい光が静かに照らしている。
藤咲にとっては初めての残業。だが、不思議と不安は感じなかった。
もっと緊張すると思っていた。時間が遅くなるにつれ、焦りや疲労が押し寄せるものだと覚悟していた。
でも――。
(なんで、こんなに落ち着いてるんだろう……?)
手を止めず、画面を見つめながら、ふと考える。
隣に目を向けると、橘は変わらず淡々と作業を続けていた。指の動きは正確で、迷いがない。画面を切り替える速度も早く、無駄がない。
(この人は、いつもと変わらないなぁ……)
残業中の橘を見るのは初めてだったが、その姿は普段と変わらない。
姿勢を崩すこともなく、欠伸をすることもなく、ただ黙々と作業を進めている。
(あ、でも……いつもより少し目つきが悪いかな?)
静寂の中、二人の作業は続いた。
――。
しばらく集中して作業していると、橘がふと席を立った。
「ちょっとコーヒー買ってくる」
「はい」
藤咲は短く返事をしたものの、視線は画面に釘付けのままだった。テスト項目の進捗を確認しながら、ひたすら手を動かし続ける。しかし――。
橘がドアを開け、オフィスを出た瞬間。
急に静寂を感じた。
今まで気にしていなかったが、橘がいなくなると、途端にオフィスががらんとした空間に思えた。
(……あれ?こんなに静かだった?)
キーボードを叩く音、小さなため息、資料をめくる音――。
それらが消えたことで、藤咲は気づく。
(もしかして、先輩がいるから安心してた?)
そう思った瞬間、自分の中に芽生えた感情に驚く。
(いやいやいやいや、違う違う。先輩だからじゃなくて……誰かがいたから、だよね?)
ごまかすように頭を振り、再び画面に向き直る。
寂しいのは当たり前だ。こんな広い空間に一人なんだから。
他に誰かがいれば安心する。ただそれだけ。
藤咲は落ち着きを取り戻し、作業を再開した。
それから数分後。橘が、無言で戻ってくる。
「トン…」
藤咲のデスクの端に、ペットボトルの水が置かれる。
「え?これ……?」
何も言わず、橘は自分の席に座ると、缶コーヒーのプルタブを開ける。
藤咲はペットボトルを手に取り、橘を見る。
「……ありがとうございます」
「集中するのはいいが、水くらい飲めよ」
いつもの先輩らしい一言。
それだけなのに、なぜか胸がざわついた。
――。
時刻は午後九時。
藤咲は画面に映るテスト項目を、一つ一つ確認しながら進める。しかし、いつの間にか集中が途切れがちになっていた。
さっき確認したはずの項目をまたチェックし直している。
無意識に、ため息が漏れた。
(……頭が回らない)
そのとき――。
「藤咲」
突然、橘の低い声がした。
顔を上げると、彼の視線は画面ではなく、まっすぐ藤咲を見つめていた。
「大丈夫か?」
「……すいません」
「無理をする必要はないぞ。先に帰っても――」
「いえ! さすがにここで帰るのはなしです!」
「そうか……」
橘はそれ以上何も言わず、再び画面に視線を戻した。
藤咲はペットボトルの水をひと口飲む。
冷たさがじんわりと染み込んでいく。
「ふぅ……」
小さく息をつき、肩の力を抜いた。
橘は変わらず淡々と作業を続けている。
その姿を横目で見ながら、藤咲はそっとペットボトルのキャップを回した。
(先輩も大変なはずなのに、私のこと気にしてくれてたのかな?)
藤咲は姿勢をただし、気合を入れ直す。
「……よし!まだまだ頑張りますよ!」
気持ちを切り替えるように、明るい声でそう言うと、橘はわずかに口元を緩めた。
「まぁ、もうすぐ終わるんだけどな」
「じゃあ、このまま納品まで行っちゃいましょう!」
藤咲が、軽いノリで冗談を言う。
すると、橘は一瞬手を止め、藤咲を見つめた。
「それもいいな」
「えっ!?」
思わず藤咲は椅子を揺らし、橘の方を向いた。
まさかの反応に、目を丸くしたまま橘を見つめるが、彼はごく自然に作業を続けて――いや、それだけではない、橘の画面には今まで表示していたテスト項目の資料ではなく、納品スケジュールの資料が表示されていた。
「え、えっ!? 先輩、マジですか!? いやいやいやいや、さすがにそれは……」
慌てて言葉をつなぐ藤咲。
だが、橘は画面を見たまま、淡々とした口調で返す。
「冗談だ」
「もう!!!!」
藤咲の悲痛な声が、静まり返ったオフィスに響き渡る。
「ほんとに冗談なのか怪しいですよ……心臓に悪いんですよ……」とぶつぶつ文句を言いながらも、藤咲は渋々作業に戻る。
静けさを取り戻したオフィスで、二人の作業は再び続いていく。
――。
時刻は午後十時過ぎ。
「……よし、終わったな」
最後のテストを終えた橘が静かにそう呟く。
隣に来てその様子を見ていた藤咲は、拳を握り勢いよく両腕を上げた。
「終わったぁー!!!」
解放感に満ちた声がオフィスに響く。
挙げた腕をそのまま横に倒し、ゆっくりと体を反らせると、心地よい疲労がじんわりと広がった。
藤咲はじわじわと達成感がこみ上げてくる。
「……終わりましたね」
さっきよりも静かに、今度はしみじみとそう呟く。
橘は腕を軽く伸ばすと、帰り支度を始める。
「これで明日の納品も問題ないだろう」
「はい!」
夜の作業はつらいかと思っていたが、不思議といつもと変わらなかった。
それはきっと――。
「先輩……」
橘はデスクを整理しつつ、いつもの調子で、淡々と返す。
「なんだ?」
藤咲はしばらく言葉を探した。
(私、何を言えばいいんだろう)
この残業の原因を作ったのは自分だ。
だから本来なら「すみません」なのかもしれない。
でも、それだけじゃない気がした。
今回の残業中もそうだけど、先輩はいつもフォローしてくれた。
自分がやると決めたことを、止めずに受け入れてくれた。
言葉にしようとすると、どれも違う気がして、まとまらない。
だけど、自然と口をついて出たのは――。
「ありがとうございました」
その一言だった。
橘は少し疑問を感じ、藤咲の方を見た。
しかし、藤咲の表情を確認すると、何かを納得したように言葉を返した。
「まぁ、なんだ。お疲れ」
その時、藤咲は疲れた様子を滲ませながらも、満面の笑みを浮かべていた。
藤咲は帰り支度を進めるが、作業が終わった安心感と集中が途切れたことで、忘れていた感覚を取り戻す。
「うぅ、お腹空いた……」
「途中で食べに行ってもよかったんだぞ」
「え?そうなんですか?」
「ああ、多少の休憩時間は認められている」
「……まぁ、今日はそんな事を考える余裕はなかったですけど」
藤咲は軽く肩をすくめる。
「空腹の方が集中できるし、食べなくて正解だ」
「でも、遅い時間に食べると太るって言うし……」
「じゃあ、食べないで寝ればいい。残業ダイエットだな」
「残業だけでもキツいのに、追い打ちかけるのやめてもらえません!?」
そんなことを話しながら、帰り支度を終え、オフィスを後にした。
――。
ビルから出ると、ひんやりとした風が頬をかすめた。
昼間の喧騒が嘘のように静まり返ったビル街を、二人は駅へ向かって歩き出す。
一定のリズムで響く足音。
見上げた街灯が、ぼんやりと足元の影を伸ばしていた。
(話しかけたら答えてくれるんだろうけど……)
少し期待して待ってみるが、橘から話しかける気配はない。
ちらりと様子を伺うも、彼は淡々と前を向いて歩いている。
(何も話すつもりないな、この人……)
何度か様子を伺っていると、視線が合ったような気がした。
藤咲は慌てて目をそらす。
(……今、なにか言おうとした? ……いや、気のせいかな)
そんな小さな攻防を繰り返しながら、結局、一言も交わさないまま駅へと辿り着いた。
(期待するだけ無駄だったかぁ……)
私から話してもよかったけど。
今日はなぜか、待ってみたい気分だった。
夜の駅前は、昼よりも人影がまばらだった。
改札へ向かう人々の足音が、かすかに響く。
少し冷えた風が吹き抜け、藤咲は小さく肩をすくめた。
改札を抜け、ホームへ向かう途中。藤咲は橘に尋ねる。
「先輩、どっち方面に帰るんですか?」
「俺は南だな」
「あ、じゃあ別の電車ですね……」
藤咲は一度視線を落とすが、すぐに顔を上げ、少しだけ声のトーンを明るくして言う。
「じゃあ、先輩、お疲れ様でした!」
「ああ、お疲れ」
橘は立ち止まることもなく、ホームへと続く階段を下りていく。
藤咲はその場に残り、何気なく背中を目で追った。
橘の後ろ姿が見えなくなったとき、自分がじっと立ち尽くしていることに気づいた。
(……あれ?帰らなくちゃ)
藤咲は小さく息を吐き、自分の乗る電車のホームへと歩き出した。
駅に到着する電車の音が響く。
微かに残っていた気配が、その音にかき消された気がした。
――。
橘がホームに着くと、すぐに電車が滑り込んできた。
電車の扉が開くのを待ち、ゆっくりと乗り込んだ。
ほとんど空席の車内。適当に座り、スマホを取り出した。
画面を見つめながら、ふと、藤咲の「お疲れ様でした」という声を思い出す。
(……あいつもしっかりしてきたな)
初めは指示を出さなければ動けなかった新人。
けれど今は、自分の判断で最後までやり遂げようとしている。
「自分の責任だから」と残業を申し出た時、素直に嬉しく感じた。
窓の外には、夜の街並みが流れていく。
変わらない帰り道。
(そういえば、帰りに俺をちらちら見てたようだが……)
いや、考えても仕方ない。
橘は小さく息を吐き、スマホをポケットにしまう。
車内アナウンスが流れ、次の駅の名前が告げられる。
視線を窓の外に向けたまま、軽く首を回す。
この程度の残業は慣れているのに、今日はやけに長く感じた。
(あいつのフォローは大変だが……悪くはないかもな)
そう思いながら、橘は目を閉じた。
――今日の藤咲メモ 一人で残業は無理かも(でも、橘先輩がいれば大丈夫、かな)
――橘の新人教育メモ 新人が自信に満ちている時ほど疑え(慣れた頃が一番危ない)