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ぼくの時  作者: 西崎皓之
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はるか



    はるか



 梅雨が始まったが、三、四日雨が降った後、晴天の日が続いた。今年は空梅雨になるのでは、とラジオで言っていた。どのラジオかといえばカーラジオだった。はるかと初めてのドライブ。車は小型のレンタカー、色は薄いワイン色。


「隠してたわけじゃないけど、ぼくは高校を卒業してから一年家にいたんだ。夏期講習とか、予備校にも顔を出したけど、ほとんどフリーターって感じだったかな。受験にも熱心じゃなかったし、目標もなかった」

 天気は良くて空はどこまでも高いけど、少し暑いし、湿気を含んでいる。

「山、海」って聞いたら、すかさず海とはるかは答えた。

 ぼくも海に行きたかった。湘南の海ってやつを見たくもあった。ほとんど初めて。必死でルートや地図を頭に叩き込んだ。あのコンビニの角を左に曲がること、エトセトラ、エトセトラ。

 結局、いいカーナビがついていてほとんどノープロブレムだった。


 十一時にしようか一時にするか、出発の時間で迷った。はるかのいつも家に戻る時間を基準にして、いろいろシュミレーションしてみた。ほんとは長く一緒にいたいけど、午後からにすることにした。最初のドライブだから。

 池袋から首都高に乗って、東名高速を使うことにした。

 ネットの案内の最初にも乗っていたし、カーナビの設定でもそうなった。横浜町田で降りて保土ヶ谷バイパスに乗る。そのあと横浜新道、ここがややこしかった。そんな熟練者じゃないし、道も不案内なので、少し心配していたのは事実だった。ちょっと緊張気味かな、そういうのって伝染するよね。はるかもなんだか落ち着かなかった。

 大丈夫だよ、って感じで手を握った。カーブがくると、すぐ離したけど。


「私は、普通の都立の高校。どちらかといえば女子の多い進学校。父はそれで国立の大学に入れば喜んだかも。堅実な銀行員よ。それがなぜ、って感じなの。もう本当はあまり考えたくないの。済んだことにしてしまいたいの、しばらくの間は思いだしたくない」

 くりかえし、繰り返し疑問やら懐疑やら、わけのわからない感情やらが湧きあがってくるのだろう。はるかは混乱していてそのことに関しては、了解不能になっている。十分傷ついて、許容量をオーバーしていた。

 たぶん、幸せな家庭と家族であったのだと思う。それほど満たされていたということだ。その反動があって、だれの責任なの、と言いたい気持ちを抑えている。

 ぼくはそれほど満たされた家庭生活は送っていなかった。微妙にずれていく自分を意識していた。これは自分の責任だと思っていた。ぼくだけが浮いているんだ、と。

 はるかの一番の関心はこの家族の問題だった。それ以外はあまり興味を持っていないようにも思えた。

 江の島は橋の向こうにあった。イメージとは違った。何度も画像で観ていて、間違いはないけど想像していたものとは違う。ひどく古ぼけて、どこかの寒村へ来たようだった。まだシーズン前で人が少ないせいかもしれない。

 車を停めて、サザエが並んでいる土産物屋を眺めながら、階段を上っていった。手をつないで、そぞろ歩きで気分は良かったが場所への違和感が収まらない。はるかは何度か来ているようで反対に案内してくれた。ぐるっと回って、そそくさと車に戻った。空は高く、日が輝いて潮風が顔に当たった。

 橋の上から浜を見ていた。サーフボードで遊んでいる人が遠くにはいた。少し落ち着いてきた。


 車に戻って、はるかにキスをした。


 初めてのキス。

 シートベルトをする前に、はるかに向き直って、目を見つめて顔を近づけた。彼女は目を見張って、それから目を閉じた。まつ毛が震えて、柔らかい唇が感じられた。


 舌で淵をなぞった。

 かすかに唇が開いて、舌先が触れた。甘い水をなめたようだった。手を下げたままなのに気付いて、はるかのひじをとった。

 それから左腕をシートの後ろに回して、少し抱きしめた。


 はるかの唇は触れたり、押しつけられたり、吸われたりした。

 柔らかくて、とろけてしまいそうだった。


 もっとキスをしていたかったけど、苦しいといけないと思って離れた。

 手はそのままだった。というより、左腕ははるかの肩を抱いていた。


 何か言おうとしたけど、その前にまた唇が動いて、はるかの唇をふさいだ。

 さっきよりもっと激しく舌が触れた。


 甘い水が流れ、うっとりとした時が流れた。

 今度は意識しないで腕を放した。


「ごめん、びっくりした?」

 はるかは首をゆっくり振った。握られていた指に力が入った。無意識に動いているようだった。

 ラジオから音楽が流れているのに初めて気づいた。

 エアコンは動いていたのに、ひどく上気していた。ぼくは手を握り返した。

 はるかが前を向いて黙っているので、そのまま車を動かした。のろのろと駐車場を出て、さてどこへ行こうか、と思った。


「左にする、右?」

「どちらでもいい」

「早めの夕食でもいい」

「そうして」

 それで、右にハンドルを切った。

 稲村ケ崎に海が見えるレストランがあるはずだった。

 バイトの時、雑誌の特集で見た場所だった。混むみたいだけど、予約とかは入れなかった。だめなら他を当たればいい。陽はまだ海の上の方にあって、きらきらと反射していた。

 五時前に着いたせいか、窓側から二列目の海が見える席がとれた。大きな岩に波が砕けて、盛大に白い泡が舞っている。水しぶきの音が、聞こえてくるようだった。

 簡単なコース料理を頼み、飲み物はノンアルコールのビールを注文した。ワインとかの方が、適してると思うけどここは我慢。はるかもぼくに付き合った。


「乾杯!」

 二人の未来に、とぼくは心に刻んだ。

「えー、何に乾杯」

 とはるかは言っている。

「二人の初ドライブを祝して」

 はるかは家族でよくドライブをしたそうだ。助手席には母親が乗ったり、彼女が乗ったりして、小さい頃は兄や愛犬も連れて出たと。

 湘南、箱根。中央高速や東名で日帰りできるところはほとんど行ったと言っていた。

 それが、今考えれば家族への罪滅ぼしで、カムフラージュの可能性もあっただなんて、とまたその話に戻ってしまう。

 ただ、はるかはくどくその話をしているわけではないんだ。話の行きつく先がそこになっていまうということなんだ。

 ぼくはそのことには触れずにそうだね、と相づちを打つことにしていた。彼女はぼくの論評なんか欲していないし、ただ聞いてくれることだけが彼女の望みなんだ。

 そうして徐々に痛手から回復していく、とぼくは理解していた。


「実を言うと、今月が誕生日で二十歳になるんだ」

「あ、そうなの――私は九月。何かお祝いしなくちゃね」

 誕生日に特別な記憶はなかった。なにかプレゼントをもらった気がしたが忘れてしまった。おもちゃとかゲームだと思うけど、クリスマスとかとごっちゃになってる。

 ケーキとか誕生会は、一度、誰かのお返しみたいに開いたけど定着しなかった。記念日みたいなのはどこか照れるみたいな家風だったのかもしれない。言い方、大げさだけど。父が地味な性格でそういうのを好まなかったんだろう。はるかは違うイメージをもっている感じだった。

 得てして女の子は記念日好きだけど。

 友だち呼んでワイワイとというプランも出たけど、やはり僕が気後れした。

「そういうの慣れてないなー」

 二人だけの誕生会、の方が断然いい。

 はるかは少し考えているふうだった。

 彼女はぼくのこと、どんなふうに思っているんだろう。

 ぼくは概して女の子との社交が苦手だ。慣れてないし、気づまりだしどこか偽善的だ。こういう言い方はおかしいのかもしれない、女の子一般ってものがあるわけではないからね。だからその内容なんだろうね。はるかが付き合ってる女の子たちの問題なんだ、きっと。

 彼女はどんな子と一緒にいるんだっけ。ぼくは結局、何も知らないで気後れしているだけなんだろうね。

 超研のメンバーが誕生会するのはどうも考えられないけど、ぼくはそこでなら、素直に喜べるし、感激するかもしれない。彼らのことはよく知っているし、祝ってくれたらすごくうれしい。


「まかしておいて、少し考えてみる」

 はるかって、こんなふうに言う子なんだ。なんだかびっくり。腕や脚が長くて、顔が小さいから成長期の子に思えるんだよね、 それで高校生みたいだと。


「スポーツやってたの」

「よく言われるけど全然、歩くのは練習したけど」

 歩くのって練習するんだ。考えたこともなかった。そういえば、背筋伸びてるし、腰から歩いてくる感じあるね。競歩の選手とは全然違うけど。うーん、誰も教えてくれなかったな。走るのはコーチについてたけど。


「ヨガみたいなストレッチとかも」

「それは、わかる。高一の時、体育の教師が体操の元選手で全一年生に、徒手体操の競技をやらしたんだ。よく試合の規定種目みたいな感じで、全員同じ演技をするんだ。それもかなり難しい。倒立とか前方宙返りとか、手は付いてもいいだけど。マットの上で跳んだりバランスをとって静止したり、2分ぐらいだったのかな。面白がって、みんなで練習した。点数とかつけたかも知れないけど、それは覚えていないんだ。そのとき、ストレッチはけがの防止と、整理体操。ヨガのポーズみたいのもあったよ」


「呼吸法なの」

 それも、深呼吸しか知らないな。腹筋運動とか腕立て伏せとか、よくやったけど、その時息止めるな、みたいなことよく言われたね。そのことかな。腹式呼吸のことかもしれない、今いちわからない。


「スポーツではないけど、運動はしているということ」

「そういうのを運動というなら」

「高校の時なんか部活、入っていたの」

「吹奏楽部」

「何やるの?」

「恥ずかしい、うまくないもの。挫折組、でも聴いてるのは好き。篠崎くんは?」

「ぼくはバスケやってたんだ。身体動かすの好きで、準レギラ―だったけど。とにかく走ったり、跳んだりしてればよかった。今考えると、バスケのことも、よくわかっていなかったな」

「どういうこと?」

「ぼくはポジションがフォワードだったんだ。それがなぜ決まったのかもわからなかったし、跳んでシュートを打つ練習をしていたけど、なぜそうしなければいけないのかもわからなかった。バスケットそのものに興味がなかったのかもしれない。野球とかサッカーの方が好きだったし」

「じゃあ、なぜその方をしなかったの」

「それには、理由があるんだ。部活の練習を見にいって、唯一まともな練習をしてたのがバスケ部だけだったの。そのクラブだけが県大会でも上位になっていたから。上位に重点があるんじゃなくて、上位になるためにはそれなりの練習が必要だってこと。ぼくはただ、身体を動かしたかっただけなんだ」

「ジムに通うみたいに」

「そうそう、かなりハードな練習をほとんど毎日やっていたから。それと今、気づいたけどコーチはしごきタイプの指導者ではなかった。温和で説明もしてくれたし、練習は熱心に見ていた。怒鳴り声なんか聞いたことがない。反対に言えばそうでなければぼくが続くはずがないから」

「ひどい先生たくさんいるものね」

「だんだん思いだしてきた。教育的配慮だと思うんだけど、練習試合の時は後半の10分ぐらいになると控えの選手を使ってくれるんだ。ぼくはその一番手なんだけど、どうもミスをしちゃうんだ。当然かもしれないけど、何をしたらいいのか理解してないからなんだ。ただ、ぼくは足が速かったり、ジャンプを高く跳べたりするからボールに触ることは出来るんだ、いいところまで行くんだけど結果が出ない。才能がないんだね」

「あまり楽しそうじゃないわね」

「いや、結構その中で冗談を言ったりして仲良くやっていたよ。今は連絡もしないけど、当時は毎日会っていたわけだし、そうそう、最初30人ほどいた部員は2年の時には10人になっていたし。残った連中は仲がよかったんだ」

「私は今、読者モデルみたいのをしてるけど、将来は記者みたいのに憧れてるの」

「いつも買ってくやつ」

「そうそう、あの手の雑誌よ」

「マスコミ関係のレポーターとか」

 あれ、ぼくは何がしたいんだろう。


 夕陽の海岸を背にぼくたちは出発して、逗子から横横へ出て、帰路についた。最初の海沿いの道路こそ渋滞していたが、あとはすんなり、順調に進んでいった。車にも道にも慣れて少し余裕は出てきていたけど、ぼくは帰るまで気を抜かないように、と言い聞かせながら運転していた。行楽の事故は、帰りの自宅に近づくころが多いそうだ。

 お腹も満足はしたし、辺りも暗くなって、車内はなんだか濃厚な雰囲気になってきた。疲れとか興奮とか、様々な刺激が静かに淀んで二人の間に漂っている。はるかは黙ってくつろいだように前を向いてる。テールランプが揺れて、道しるべのように瞬いていた。

 ぼくは低速レーンでトラックに続いて走っていた。制限速度は80キロだよね。手で探ってはるかの手をとらえた。彼女は心持ちこちらに傾いた。

 絵に描いたように幸せだな。ぼくは満たされてうっとりしていた。ラジオではカリブの音楽が流れてる。キューバ行ってみたいな。

 なんとなくそんなことを思った。


「バックパッカーもいいよね」

 ぼくは、はるかの手をまさぐりながら言った。

「男の子はいいよね、そう思ったらそうできるものね」

 ぼくは黙った。いつかそのことは考えたことがあった。海外の女の一人旅は危険だ、ということだ。男だって危険な場所はあるけど。だから、止めとくべきだとその時は思った。引き換えにすることの代償が大きすぎるからだ。

 いつかマスコミが自己責任をひどく歪めて使った例があった。用意周到であるべきだ。引き返す勇気も必要だ。十分な準備と細心の注意、大胆な決断。事故が起きたら仕方がないということかな。

 やめなよ、と言えても、絶対だめだとは言えないのかもしれない。今は何となくそう思えてきた。人の世話にならないで、生きてくことなんかできない。できるだけ人に頼らないで生きていこうということだね。

 首都高に入って、道が狭くなったのに、みんなやけに飛ばしてるね。ぼくはかなり神経を使って運転していた。もう少しだ。都会の夜景が流れていく。白い光の中に橙の照明、赤い車のランプが点滅したりして、速度の中で、幻想的な影が行き過ぎた。

 池袋のランプを下りたときは、正直ほっとした。ちょっと、もたもたという感じで明治通りをはるかの家の方に曲がった。

 少し前の街路樹で陰になっている場所に停車して、目を見つめあって、そして軽くキスした。今夜のお別れのキスかな。

「楽しかったね、また行こうね」

 はるかは降り際にそう言った。

 ぼくは、送るよと言って外に出ると、手を引いて、はるかを抱きしめた。はるかの身体の輪郭がわかるくらいにくっついた。手はしっかりはるかの背中に回っていた。はるかもなんだか腕を挙げて肩に手が伸びた。

 いい感じだな。映画だったら、彼女の脚は片方上がってるね。

 そのまま手をつないでマンションの前まで行った。いつものように彼女は手を振ったが、より親しみを感じたのはぼくの気のせいだろうか。彼女の身体の感触がまだ残っていた。

 残されて、ぼくは車を返しに行った。それで今日のデートは終わったんだ。




 田舎の方ではエアコンのある家は稀だった。当然、実家にもなかった。どうしてたかと思うが、扇風機で十分だった。それは、暑い日もあって汗もかいたが、じめじめとした感じはなかった。昼間、太陽が照れば温度も上がるが日蔭は涼しいし、朝夕は風が吹いた。要するに空気が乾燥していた。

 ところが、東京の夏だ。まだ盛夏には遠いというのに、空調なしでは暮らしていけなかった。空気は淀んで流れる風もない。

 部室からも避難した。そこには空調が用意されてなかった、なにしろプレハブなのだから。木々が日を遮って最初ひんやりとしても、段々蒸し風呂のようになって、長時間そこにいるのは無理だった。裸になれば別だろうが。

 ぼくの居場所は図書館に移った。そこは涼しくて快適なのだが、どうも人の蠢く感じが気になった。落ち着かないのだ。

 でも最後、レファレンスルームが最適なのを発見した。

 ただここは椅子が限られていて名前の記帳が原則いるし、時間制限もあった。でも実際は利用する人は限られていて、ぼくはすぐ係の人と顔見知りになった。出来るだけ調べ物をするようにした。それで、近世の資料を少しずつ調べていった。

 ぼくは何をしてるのだろうか、と時々思うことがある。

 こんなことして何か役に立つのだろうか。学者にでもなるつもりなのかな。それはそれで大変なのだろうし、その時にならないとわからない。今はただ興味があって楽しいからそうしてるだけなんだろうね。そう考えると、どうもいつもぼくは目的意識が足りないんだよね。

 まあ、そのことはあまり考えずに過ごそう。


 だいたい授業のとき以外はそこにいて、夏休み中も開館しているというから、秋までそこがぼくの居場所なるんだろうね。でも、午前中か午後どちらかで、そこに通してはいられなかった。係の人は林という男の人と、小泉という女の人だ。ネームプレートしている。

 二人とも30歳ぐらいなのかな、長老より年は上だろうがもっと若く見えた。というより長老が老け過ぎていたんだね。もう四十歳に近く見えたもの。どうしてるかな、うまく進んでるといいのだけど。


 昼ははるかと食べることが多くなった。役所の先のファミレスがいつもの場所だった。連れだって行くこともあったけど、メールで連絡してそこで落ち合うことが多いかな。ドリンク飲んで待っていれば、彼女が顔を出す。

 窓際の席なら彼女が歩いてくるのが見える。

 うーん、あれが練習した歩き方か。やはりモデル歩きだね、あるいはアメリカ映画に出てくるキャリアウーマン。弁護士とかFBI捜査官、スーツ着たらね。

 今日はブルーのレギンスに紅めのミュール。上は明るい半そでのシャツ、肩から大きめのバッグを提げている。

 入り口を入って、さっと見回して、ぼくを見つけると手を挙げる。花が開いたように笑みを浮かべている。

 ぼくはあんな風には笑えない。ちょっと顔を引いてほほ笑むだけだ。

 近づいてきて首をかしげ、待った? みたいに目を輝かせる。ぼくは手を広げてから、座って、みたいな合図をする。

 彼女が歩いてくるのを眺めたくて、わざと遅めに連絡して待っていることもあったんだ。

 彼女はぼくの半分ぐらいしか食べないかな。ぼくが食べすぎるということもあるけど、一人前頼んでもぼくに半分くれたりする。それがとってもいいんだって。食べたいものはあるけど、残したくない、と考えると、注文できないメニューがあるらしい。その分ぼくが食べれば、問題は解消するし、ぼくもお腹いっぱいになる。

 ダイエットとは言わないけど、あまり量は摂らないようにしているんだって。その方が精神的にも肉体的にも調子がいいらしい。


「吉田君、最近学校来てないみたいよ」

 あれから海保には全然会っていなかった。きみには、情報が届かなくなる、とか言ってたけど、気にもしてなかった。というより忘れていた。あのとき、はるかになにも言わなくてよかった。

 で、はるかはどこから聞いてきたんだろう。


「守屋さんが、吉田君がいないって騒いでたの。

 どうしたんですか、と訊いたら何かトラブルがあるらしいって」

「策におぼれたかな」と、ぼくは少し冷淡に言った。はるかは目を浮かせたけど、話を続けた。

「右翼か過激派かわからないけど、その手の人に睨まれているって」

 え、どっちなんだろ。

「どこかの集会で、やじったらしいの。それもかなりしつこく、そうしたら、追いかけられて連れて行かれちゃったらしいの」

「学校の中で」

「そうなの」

「いつの話なの?」

 はるかの口調はあまり現実感がなかった。


「ええっ、今よ。ここに来る途中で守屋さんに会ったの」

「そうじゃなくて、連れていかれたの」

「二、三日前みたい」

 そうか、そのころ通用門のグランドよりのところで、政治集会やってた。海保は時々顔を出していたみたい。彼の情報活動の一環かもしれない。そんな派手な動きはしないはずなんだけど。

 まだ長老がいるときだけど、長老は彼の情報源は学生課がらみじゃないかと言っていたんだ。学校の事務局に知り合いがいるらしい、ということだ。だから、学内の情勢を探っている。その見返りに情報をもらう。

 彼は徒党を組まないから党派性はない。彼独自の考えで動いているんだ。そこが彼のいいところではあるんだけど。

 彼が拉致される理由があるとすれば、スパイ行為と疑われたのだと思う。でも、それほど大それたことではないはずなんだ。まあちょっと脅かされるかな、自己批判しろみたいに強要されるか、ただ拘束はされるだろうな。

 怖い話ではある。

 解放されていると思うけど、しばらく彼は姿をくらます、というわけだ。こけし捉まえて話きかなくちゃ。

 でも、ひとりで野次るなんて海保、勇気あるな。ぼくなら絶対ビビる。


 こけしは違う用事で海保を探していたみたいだった。

 それで連絡がつかないので、ヤキモキしていたということだ。事情を知っていたのは卑弥呼だった。

 卑弥呼は現場に居合わせたらしい。海保と男たちでやりあっていたら、もうすでに海保は取り囲まれてしまったらしい。

 それで、連行されそうになったので、周りにいた人と小競り合いがあったんだ。そのとき、卑弥呼が通りかかったということだ。彼女が割って入ると、海保は殴られたみたいで、口から血が出ていたという。それで、くってかかったんだけど、海保は引きずられていったらしい。

 彼女がそれほど行動的だとは信じられないんだけど、すごいね。

 それですぐ、会長を呼んだ。彼は自治会の幹部だから、顔が聞く。交渉にあたってもらったらしい。

 もともとは誤解なのだからと言って、会長が身元の保証をするということで解放してもらったようだ。もともと学内のことだからと押したらしいが、発端は部外者だったみたい。外人部隊がいたらしいんだ。

 ほんと危なっかしいよね。

 それで、その場所がプレハブの部室というから驚き。超研の部室のすぐ近くだ。イスに縛られ、猿ぐつわというから、海保もトラウマになるかも。

 何考えているのか、彼らも妄想系だから。パラノイア入ってたら超危険。会長、すぐ捉まって良かったね。

 そのあと、いろんな情報が入ってきたけど、ぼくは興味がなかった。たぶん、そのサークル「政治研究会」に関わり合いになることもないだろう。

 ぼくはちょっと注意ぐらいの警報で済ましてしまった。


 次の次の週には海保を見かけるようになった。こけしに言わせると、ぜんぜん変わってないって。でも、遠くから見てても警戒してるように見えたりするけど。意外とわざとやってるかも、海保なら。

 次に見かけたとき、海保はぼくの方に寄ってきた。

 近くで見ても、とりわけ変ったふうには、確かに見えない。そのときぼくは、ピンときた。海保は全然ビビったりなんかしてないし、トラウマのかけらもない。ただ、口が切れたり、腫れてたりするのが治るまで待っていたにすぎないんだ。


「うまくいってそうだね」と、海保は言った。当然はるかとのことだ。

 まあ、ともいえないんで黙っていると、

「諦めたわけではないけど、やることが一杯あるのでしばらく休戦だ」

「ひどい目にあったみたいだね」

「きみにはわからないよ」

 ぼくにはどうわからないんだろう。

「きみには影がないからぼくのことが理解できないんだ」

 ニキビ跡の顔を少し傾けて海保は言った。黒ぶちの眼鏡、微妙に前のと違う。彼は確実に、僅かな時間だとしても拉致されたんだ。

「とにかく、無事でよかったね」

 本当は彼はナイーブだから、ぼくは彼を刺激しないようにいつも話している。

「じゃ、また」

 彼は寄ってきたときと同じように去っていった。



 はるかは母親と夜一緒にいることに意義を見つけていた。だから外泊することとか、夜遅くなることには抵抗があった。合宿とか、旅行の予定があれば別だろうけど。

 そこの心理はぼくにもわかる。ある期間だけでもできるだけ母親と一緒にいてあげたいのだ。そうすれば、母親は自分の生活を始めるだろう。それが目的でもあるのだから。何十年続けてきた生活を変えていくのには時間と覚悟がいる。はるかもそれで、その生活に慣れようとしているのだ。お互いにそこから親離れ、子離れをしていくことになるだろう。

 ぼくたちの身体の接触は、ぼくはすごく望んでいるけど、ひどく緩やかなものだった。それに、はるかはそのことに奥手であった。ぼくは、焦るなと自分に言い聞かせていたし、はるかの気持ちを大事にしようと決めていた。

 猜疑心って止まるところがないね。自然に、というのがぼくの信条だから、そこから外れないようにしないと。男女の性愛は自然だから、それに逆らう必要はないんだ。(避妊しないとかいうのは違う話だよ)

 だからお互いが楽しくなければ意味がない。     

 ぼくたちはいつか結ばれるだろう、とお互いに思っているはずだった。それであれば、ぼくはいつまでも待てる気がしていた。


 でも、あっけなくぼくたちは結ばれたんだ。勢いということだし、抑えきれないものなんだろうね。それは素晴らしい体験だったし、ひどく気持ちの良い思い出になった。

 はるかが愛おしくて、ぼくは有頂天だった。何もかもが素敵だ、とぼくは大きな声で叫びたかった。

 はるかがぼくと同じに満足したかはわからない。

 聞いても、正直には答えないだろうし、実際答えられないかもしれない。

 まったくそのことに意味はないのだが、はるかは初めてではないような気がした。なんだか意外な気がしていた。

 でも、全然思い違いかもしれない。

 ぼくは浮き浮きとして、顔も晴れ晴れとしていたと思うけど、はるかはそうでもなかった。うつむいて、なんだかじっと黙っていた。

 それで声をかけるのは、少し憚られる感じだった。こんなとき、下手に想像力を試すと、碌なことにならなかった。

 土壺にはまって、とっぴんしゃん、だ。

 何も考えない。これは、ぼくが会得した対人関係の法則だった。とうぜん自分のことも考えない。よかっただとか、悪かったなんか気にしない。もし必要があるなら、どこからか矢が飛んでくる。そこから考えた方がましな考えが浮かぶ、ということにしていた。

 それで悪い結果が起きたとしても、それだけのことだ。

 縁がなかったと諦める。

 抜けたら、どんどんこしょ。あれ、土壺がどうして茶壺になったんだろう。

 ずいずいずっころばし、ごまみそずい。

 何かこのメロディーが頭の中を駆け巡っていた。どちらにしても、ぼくは上機嫌だったんだ。

 ぼくたちは並んで腕をとるように歩いていたけれど、はるかのそそくさという速度も、一本明るい通りに出ると、緩んでいた。それで、手をつないで、なんだか幼稚園児の行進の感じになってきた。それが、さらに大きな通りに出て、そぞろ歩きのようになった。


「なんだか、お腹すいたきた」

 はるかの久しぶりの発言だった。その前なんて言ったかな。

「わたし、前から行列のできるラーメン店入って見たかったんだ」

 たぶん、その店はこの近所で、路地を曲がればあるはずだった。

「行ってみようか」

 ぼくは手を引いて、前に進んだ。はるかは、独りでラーメン店に行ったことはないし、家族でもラーメン屋というのは行かなかったらしい。それなら中華料理店みたいな感じらしかった。

 自慢じゃないが、ぼくは東京に来て、有名店ももちろんだけど、チェーンの安売り店でも、どこでも、かなり場末のところにも足を運んでラーメンを食べてきた。当然大盛り、あるいは何かのセットメニューで。自分でも即席の作るから、ほとんど主食と言ってもいい。

 その店も一度行っていた。実を言うと、ぼくはラーメンにあまりこだわりはない。だから反対に行列してまで食べたいとは思わない。たまたま並んでしまうときは仕方がないけど。

 もちろんそこも並ばずに席についた。頼んで、料理出てくるまでが、ワクワクするよね。給食の前の子供みたいに、手を下において二人並んで待っていた。

 カタっとカウンターに器が置かれるまで、ぼくは白日夢の中にいるようにボーとしていた。はるかは夢の中にいたわけではないだろうが、じっと前を見ていた。

 そこそこ店内は混んでいたから、身を潜めて静かにラーメンを食べた。まあまあだけど、少し値段が高い気がしていた。


「おいしかった、ありがとう篠崎くん」

 会計を済ませて外に出ると彼女はそう言った。ぼくは手を振って、先に立った。財布の中身はほとんどなくなった。給料前借りできるかな、誰か店長に頼んでいたのを思い出した。



 浪人している間、これ表現が古すぎだけど、変わりに使える言葉がない。仕官してない状態とは関係ないけど、遊学というのが実際かな、予備校に所属してれば、それも使えるけど、夏の間、市民プールに通っていた。

 出来たばかりの体育館の中にあって、知られていないのか、いつもガラガラだった。午前中、近くの図書館で勉強、これが微妙なんだけど、何の勉強かといえば、受験勉強とは何の関係もないものだった。とにかくそこで本を読んで、ノートをとったりして、その後プールに繰り出した。

 とにかく冷たい水は気持ちが良かった。

 そのとき、いろんな小説やら哲学書やら入門書を手当たり次第、読んでいたね。その言葉が頭の中を駆け巡ってた。頭がぐるぐる回って、冷たい水に飛び込む。がむしゃらに身体を動かしたり、浮かびながら空をみていたり、飽きたら上がって日光浴だ。

 夏の間に真っ黒になったね。

 今考えると不思議だけど、ぼくはいつも一人だった。

 まあ、反対に当然なのかもしれないが、ぼくに付き合おうとする人はいなかった。陸上をやった人はわかるけど、

抜かされるときはどうにもならないんだ。それが加速の問題だと気付いたのはだいぶあとだけれど、もがいても、あっけなく抜かされてしまう。

 能力の限界を悟る瞬間なんだ。それには周到な準備やら、練習が隠されているとしても、到底追いつかないナ、と感じてしまうんだ。

 ぼくは受験勉強にそんな考えを持っていた。


 とりあえず、受験生なので受験について考えることがある。これは本来サイコロでもいいのじゃなかと、思い始めていた。能力のある人はどんなことをしても現れてしまうような気がする。その人を探すゲームなのだろうか。その人の能力とは果たしてなんなのだろうか。社会が必要とする能力ともいえる。どちらにしても差別化されなくてはならないんだ。

 でも人にはいろいろな能力があって、それを一つの基準で判断することはできないはずだった。もちろんそんなことはわかっているはずなので、科挙のシステムと同じ方法をとることにしたんだ。よりよい役人になるための素養とか、技術者になるための知識だ。

 ぼくはその競争を放棄してしまった。

 たぶん先頭を走っていた自分が嫌になったんだ。一生このまま走り続けるモチベーションがみつからなかった。たぶん才能のある人はそんなことを考えずにコースを回るように思える。

 それがさっき考えた能力の限界を悟る瞬間なんだ。

 同級生でも、どうしてもその大学や学部に入らなければならないと覚悟した人は、多くがその目的を達するように思える。よいとか悪いとかではなくて、その選択肢しか残されていないからだ。そしてそれに挫折してしまったら、それは深い傷を残す。一生のトラウマになるだろう。

 失恋に似ているかな。

 人の人生なんてどれだけのものだろう。傷を認めて乗り越えられることもまた一つの才能だ。

 で、ぼくはぼくらしく生きるためにはどうしたらいいのかを考えていたんだ。

 たぶん様々に言われるだろうし、蔑視されるかもしれないが、ぼくはそのコースを外れてしまったんだ。

 コース・アウト。

 失格だ。誰にも相手にされない。でも自分で決めたことだ。


 そのプールで紅い水着の理沙に会った。

 何度か顔を合わせるうちに関係ができた。

 ぼくは初めての経験で、当然のように彼女の身体に溺れた。が、急に彼女はプールにこなくなって、ぼくたちの関係はあっけなく終わってしまった。初めから彼女に会う手だては残されていなかったんだ。もともとそのつもりであったろうし、関係が深くなる要因がなかった。

 今考えればそう思えるが、当時はまだぼくに未練があって嘆いたものだった。

 秋が来てぼくもプール通いを止めた、ほんとにある夏の経験だった。

 それがあったからか、子供のころ近所に道場があって、遊びのように通った経験があったからか、秋からその体育館で空手のコースに参加した。結局、型をやっただけで終わってしまったけど、身体を動かしているのは楽しかった。そのときは頭が空白でそのことに没頭できた。

 ひどいプレッシャーがあって、時々押しつぶされそうになる。

 何からなのかはわからなかった。

 一人で立ち上がろうとすることへの重力のようなものなのかもしれない。受験生だったけど受験に対する不安は少しもなかった。前年も実際ぼくは試験を受けていなかった。 全くばかげた考えだが、受けたふりをしたんだ。家族の手前、そういうふうにしてたけど、失格の確信犯だった。無理しなければ合格する自信はあった、確率の問題だけど。

 だからぼくは違うものと戦っていたんだ。

 たぶんそれは、エスタブリッシュメントみたいにいわれる、出来上がった体制や考えだったんじゃないだろうか。

 簡単に言えば、ぼくそのルール知りません、という立場だ。 いまでもルールが知らないうちの作られることに我慢がならなかった。人間の歴史がそれを巡って動いているのかもしれない。そしてそれはみんなのためじゃないんだ、そういうふうに仮託されているとしても。

 ぼくが嫌いなのはそうすることではなくて、そう仮託することなんだ。カレーが食べたいならそう言え、といいたいんだ。 みんなのためにカレーを食べるんだから、とか

どうしてもカレーを食べなくてはいけないとか、理由をつけてカレーを食べさせるのは止めてくれ、と叫びたい。ぼくは、うどんが食べたいんだ。

 たぶんぼくは孤立しすぎてしまったのかもしれない。伝達を遮断されたように自分で感じて、世界とうまく接触できなくなってしまったんだ。自分でそれを望んでいるにも拘わらず、その孤独に押しつぶされそうになっている。

 解決法は簡単だ。ぼくが手を挙げるか、手を広げればいい。降参するか、諦めればいい。

 それに夢のように空に浮かんだ希望がなかった。それが見えれば、それに向かって努力ができる。細かな技術に磨きをかけられる。くには目指すべき何ものもなかった。

 ぼくが自殺という考えに一番近づいた瞬間に違いない。

もちろん自殺をするつもりなんかなかったけど。あるいは宗教的分野に入り込みそうな時期であったのかもしれない。

 それらはなにか自意識のようなフィルターがそれを許さなかった。ぼくはだから自分の中のそのフィルターだけが頼りだった。それはぼくらしさであり、ぼくであるための根拠だったし、そういう意味でいえば、磨かれるべき能力だった。

 今となってはわかるが、そのときは丸ごと世界を飲み込めるような考えを夢想していたんだ。科学が絶対であるような、哲学でも、経済でも、なんでもいいんだけど、そうなるとやっぱ宗教的感覚かな。あるいは自分が絶対であるような。

 でもぼくは夢想家の資質があまりない気がする。それに自分は享楽的だと思うし、生活も楽しみたかったりするから、この時期の危機は知らないうちに乗り越えてしまったんだ。結果的にそれはそれでよかったような気がした。自分を追い込み過ぎてちょっと辛かったから。


 金欠でもあったし、簡単な試験があったりして、はるかと二、三日会わなかった。もちろんメールの交換はいつも通りだったけど。本当の理由を言えば、ちょっと照れくさかった。

 どこかで、偶然あったりしないかなと思ってた。

 偶然ではないけど、三日目の夜、店にはるかがやってきた。週に一度は買い物に来るから、現れるのはふつうだった。

 やあ、って手を振って入ってきた。ぼくはドキンとした。ちょっと上がっちゃう感じだった。

 ふわふわなワンピースに七分のパンツ。さっ、さっさっと歩いてくる。棚から雑誌、取り出すとぼくのところへ、

まあ、レジがあるからなんだけど。


「終わったら、家に寄ってよ」

 ぼくは、きょとんとしていた。

「ママが、誕生祝いやろうって」

 ぼくは自分の誕生日を忘れてた。

「私も手伝って料理用意するから。帰るとき連絡してね」

 ぼくが、もごもごしてる間に、

 じゃ、と言って行ってしまった。

 サプライズなら完璧に成功したね。誕生日のこと最近全然話題にならなかったから。前から準備してたんだろうか。

 そうなんだろうね、彼女の母親にどう接したらいいんだろう。

 わー、マジ怖。

 それからの時間、ぼくはドキドキしながら過ごすことになった。


 ぼくはあまり自己主張をしない方じゃないかな。

 多く黙っているからその機会もないということかもしれないけど。でも聞かれれば、意見だっていえるよ。ただ慎重だし、言った言葉にこだわるかもしれない。ういうの日本的っていうのかな。東洋的ってあまり分からないんだけど、違う気がするな。島国根性なんていわれたけど、日本人の美徳みたいなのあるよね。ぼくが勝手に思っているだけなんだけど。

 義理と人情系とは異なるもんだよ。

 それってどこから来てるのかな。お祖父ちゃんかな、あるいはその上の年代の人。そういうのって、本とかではないところからの気がする。摺りこまれているっていうのは信じないけど、ほんとどこから来るのかな。

 言葉っていうのは重要だよ。思考パターンとか考えの内容まで規定されてる気がする。その上に乗っかって考えだって進んでいくんだ。それはすごい時間がかかって形成されてきたんだね。そこから逃げられはしないんだ。引き受けなくてはならないものなんだ。

 ナショナルなものって、かなり気恥ずかしいし、熱くなる人って相手を貶すから好きじゃない。フェアっていうのが基本にあって成立するような気がする。それに夜郎自大じゃないけど、客観的な認識も必要だよね。

 気を紛らすためにぼくはそんなことを考えていた。

 きょうは暇な日だった。雑誌の発売日によって来客数が違った。土、日は週刊誌も発売ないし、配送もほとんどないから静かな夜だ。酔っ払いの客も来ないし、学生も少ない。

 ぼくは派手なことはそんな好まないけど、非社交的ではないと思っている。

 母親は社交的な人だった。

 ワイワイするのが好きだったし、ボス的に振舞うのが似合っていた。ぼくは少し苦手なんだ。気に障るというのとは違うんだけど、無理するなよ、みたいに見えるときがあった。でもうまく根回しをしたり、基本明るくて磊落な人だから誰からも好かれたし、華があった。母が現れると座が盛り上がるし、話もうまかった。みんなを楽しくさせるコツを知っていた。


 連絡して出かけると、はるかは玄関のホールまで向かいに出てきてくれていた。少し面倒なの、とオートロックの解除をした。

 さあ、どうぞ、と言ってエレベーターに乗り込み、八階建ての六階に案内された。その間、ぼくは居心地悪そうに扉を見ていた。

 下りて右手に出て、三つ、四つ先がはるかの部屋だった。 通路の回りにも建物があって、見晴らしは良くない。

 ドアチャイムを鳴らして、はるかは振り返りニコッと笑った。準備オーケー、みたいな感じだった。なんだか初舞台に上がる役者みたいだな。


「やあ、いらっしゃい」と、にこやかに出てきた人は、

 ぼくの想像より若々しかった。すこしお世辞ぎみにいえば、姉妹という感じだけど、はるかがすごく似ているわけではない。そうするとはるかは父親似なんだろうね。


「おじゃまします」と、ぼくは努めて明るく言った。

 大丈夫、このテンションでいけそうな気がした。

 すぐテーブルに着いて、晩餐が始まった。

 さまざまな料理が並んでいた。刺身の盛り合わせもあったし、オードブルのような前菜、つまみが色とりどりに並んでいた。

 まずはおめでとう、ということでシャンパンで乾杯。


「適当につまんでよ、」と母親は言って席を立った。

 ぼくは、はるかと顔を見合わせ、食べはじめた。

 それからメインのローストビーフが出て、お酒もワインと、ビールが運ばれた。

 まずは腹ごしらえ、おいしかった。久しぶりの家庭での食事という気持ちもしたし、さりげなく気を遣ってくれているのが心地よかった。

 恐縮しながらも遠慮はしない、食べ方だったかな。少し恥ずかしいけど。いろんな話をして、微妙に避けてる話題はわかった。

 動物の話は受けた。

 飼っていたイヌやネコの話で盛り上がった。このマンションではペットの飼育は禁止されているようだった。

 はるかがママと呼ぶので、ぼくも、どうしても言わなくてはいけないときはママを使った。ぼくは、ママと呼んだ経験がなかった。母親に直接呼びかけることはほとんどなかったけど、強いていうときはお母さんと呼んだ。すごく古風かな。 父がお母さんと呼んでいたから、それほど不自然ではなかった。

 外では父、母でふつうに使っていた。

 そのママだけど直接使うんじゃなくて、たとえば

「そのとき、ママなんて言ってたの」

 みたいに、はるかに何か聞くときそう言った。別に相談したわけではないんだけど、ついでに誕生祝いの話が出たとき、ママが、

「来てもらってここでお祝いしましょうよ」

 と、言ってくれたという。

 はるかには、そのプランは頭に浮かんでなかったので、ママの顔を覗き込んだらしい。


 最近よく会っている彼、というのがぼくのことだ。

 やはり心配だろうから、一度会っておくべきだと判断したのだろうか。遅く帰ってきたときもあるし。

 ぼくがママのテストに合格したかはわからない、

 たぶんそういうことを直接いったり、表情に出したりする人ではないみたいだ。ただぼくが楽しくて、感謝したことは間違いない。はるかも外で見るときより、落ち着いて心持ち静かな、淑やかな印象があった。それがママのせいなのか、自分の家のせいかはわからなかった。

 礼を言って辞去したあと、はるかが見送り出てきてくれた。

 外に出ると反対にむっとするような熱気があった。

 はるかから抱きついてきたのでびっくりした。ママの手前、手も握っていなかったから。

 ぼくたちは慣れたようにキスをして、お互いの身体を感じていた。お酒の酔いも手伝っているのか、いつもより長く、濃厚であるような気がしていた。

 それから手をつなぎ、肩を抱くようにして下に降りて別れた。


 ぼくの二十歳の誕生日はこんな形で終わった。

 そして、未成年のぼくの時も幕を閉じたのだった。




     第一部  ぼくの時   完




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