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ぼくの時  作者: 西崎皓之
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キューピッド



    キューピッド



 長老がいなくなって、またぼくは部室で一人になった。前回は、もうすぐ帰ってくるだろうという見込みがあって、不在は一時的なものと認識していたが、今回は違う。

 完全な不在を意識しなければならなかった。これは思ったより堪えた。そのせいで、ときどき空白な席を眺めることになった。でも、訪れる人は相変わらずで、それほど寂しいということはなかった。

 野球部とよく話すようになった。二人とも付属からの持ちあがりで、高校の時からの同級生らしい。その手の話はその時が初めてだったけど、二人に対する違和感はそんなところからきていたのかもしれなかった。

 でも話せば、屈託のない明るい、まあ苦労がないというのだろうか、さっぱりとした気性の持ち主だった。特にセカンドは少し落ち着いてるし、考え方がまっすぐという感じがする。経済的な余裕もあるんだろうが、二人はよく飲んでいた。

 合コンまがいのこともするようで、その話で盛り上がっていたりもした。なんだか楽しいキャンパスライフだな、と思わざるを得なかった。気にするわけではないが、そこにはギャップと呼べるようなものがたしかにあった。そのことは彼らの責任でもないし、彼らが鼻にかけてるわけでもなく、かれらは、ただひたすら無頓着なだけだった。この構造はなにか記憶にあるものと同じ感じだった。えーと、なんだったろう。思い出せない、まあいいか、いつか思い出すだろう。

 ぼくは彼らの生活が全然羨ましくもなく、反対にある種の危うさを感じてしまうのだった。大丈夫か、野球部。ただし結局、彼らの与太話を聞くことになって、読書を中断させられる。そうか、長老がいればこういう状況にはならなかったのか。そんな長くいるわけではないから、適当に相槌を打って休憩することにする。ぼくにとっても、それは気休めにはなるのだろう、ほとんど他人の話を聞くことないんだから。

 性の話は大っぴらだった。女子の方がすごい、とか言っている。ファーストの一つ違いの姉の話だった。露骨な言葉や隠語で、かなり際どく状況を説明していた。それに親をだます方法とかまじえながら。

 ぼくだって性への関心はあるけど、どこか違うな。はっきりはしていないけど。何が違うんだろ。



 この二、三日天気が悪い。西の方では梅雨入りしたと聞いたから、そろそろその季節がやってくるのかな。ひどく降るというわけではないのだけれど、どんよりとした空からしとしとと間断なく雨が落ちてくる。

 気温は高く、じとじとしている。ベランダの壁にナメクジがいた。大きいのとその子供みたいに小さいやつ。

 こっちのが古いタイプで、だんだん殻をつけるように進化したんだっけ、わかんなくなっちゃた。違うよね、こっちのが最新鋭なんだよ。今日は身体がだるくて、動くのが億劫。雨も降ってるし、学校行くの止めた。初めての登校拒否、冗談だけど。うーん、頭もすっきりしない。熱あるのかな。こういうときは眠るに限る。一度起きたけど、また眠った。

 次、起きた時は昼過ぎだった。トイレ行って、何か食べなくちゃ、と思って残ってたインスタントのラーメン食べて、また寝た。その次、目が覚めたときはもう日が暮れそうな時だった。さすが腰が痛くて起きだして、蒲団の上でボーとしていた。あ、今日バイトだった、と思いでだして、店に電話した。

 店長はひどく不機嫌そうだったけど、初めてのことだし、お大事にとか言われて、電話を切った。

 だんだん日が暮れてきて、部屋が暗くなった。なにか栄養をとって、薬飲んだ方がいいかな、とも思ったけど、なんか億劫で、まだ動けなかった。熱はさらに出てきたみたいだ。寒気がして、これはやばい。病気はほとんどしたことがなかった。風邪も、たぶん今日みたいのもほとんど記憶にない。健康保険は持ってるけど、医者には中学生のころから行ったことがなかった。

 数少ない経験からいっても、この熱は寝汗をかいて次の日にならなくては下がらなかった。母が、面倒でも汗をかいたら、夜中でも下着を換えるようにと、うるさく言っていた。あったかいものを食べて、眠ることだな、と考えを決めた。

 携帯見ると着信のランプがついてる。

 そうだ、今朝はるかにメール入れてなかった。二回メールが来ていた。一度目はおはよう、というものだった。二度目は午後、どうかした、と書かれていた。

 電話した。コール音、二度めで出た。

「ああ、ごめん。篠崎です」

 自分の声がこもって、鼻の奥の方から聞こえる。

「大丈夫、声、変だけど」

 それまで気付かなかったけど、ひどく鼻が詰まっていた。

 完璧に風邪だな。

 はるかは、看護婦みたいに症状を確かめて、今行くからって言った。

「いいよ、大丈夫、明日起きたら治ってるよ」

「そのために薬飲まなきゃ、栄養剤と風邪薬もっていくよ、それだけ。近所にいるし」

「そう、悪いね。助かるよ」

 ぼくもちょっと弱気になっていた。


 それから三十分ほどしてしてチャイムが鳴った。ぼくはパジャマ代わりのスェットだし、部屋も散らかってるから、中に入ってもらうわけにはいかないなと覚悟していた。ふつうは玄関先の対応の方が失礼かもしれないけど、この場合その方が穏当なのだろう。

 少しふらついたけど、急いでドアを開けた。

 はるかが心配そうな顔をして立っていた。Tシャツにジーンズで、七分のコートを羽織っている。

「これ、薬と栄養剤。それに温めるだけのうどんだから、それ食べてから薬飲んでね」

 手提げ袋を手渡された。

 初めての訪問がこれだからな、かっこ悪い。

「ありがとう、助かるよ」

 ほんと消え入りそうな声で言った。

 そしたら、はるかは、手をぼくの額に押し当てて難しい顔をした。

 そんな顔初めて見た。

「かなり熱あるね、一人で大丈夫」

「平気だよ、移ってもいけないから」

「わかった、暑いけど温かくして寝てよ」

 そう言うと、じゃあという感じで手を振って、戻っていった。

 やれやれ。心配かけちゃったけど、親身になってくれたのはすごくうれしい。でも、やはりかっこ悪いな。

 アルミの容器のそのまま火にかけるタイプのうどんで、あまり味はわからなかったけど、食べたらほっとした。あたたかいし、のど越しもいいし、消化もよさそうだった。それから薬とドリンク剤を飲んだ。あんな真剣なはるかの顔みたの初めて。

 あ、そうだ。メールしておこう。

「ありがとう、お休み」

 ついでに、「好きだよ」と入れた。熱に浮かれてるかな。

 しばらくしてメールが戻ってきた。

「お大事に、お休みなさい」

 そのあと「わたしも」 と続いて、ハートマークが赤く輝いていた。

 ぼくは、完璧に舞い上がって、飛び上がりそうになったが、頭痛がしてやめた。

 絶対明日までに治すぞ、と決意して心を鎮めて目をつぶった。頭の中が回転してるような感じがずっとしてたけど、いつの間にか眠ったようだった。


 でも、次の日にはまだ熱は下がらなかった。調子も悪かったので、その日もほとんで寝ていた。完璧に治ったのは、夜になってからだった。びしょびしょになるほど汗をかいて目覚めると、熱が退いているのがわかった。

 シャワーを浴びて服を着替えた。コイン・ランドリーに行って洗濯をし、コンビニでアイスを買ってきて、そこで食べた。ついでに、飲み物を数種類買った。有線の音楽は軽快で、自分の健康を祝福しているようだった。

 今までの苦痛が嘘のようで、はるかが来たのも夢のようだった。思わず、携帯を確認した。赤いハートマークは消えてはいなかった。はるかにメールを送った。

「ありがとう、きみのおかげで早く治ったよ」

 きみのおかげ、のところ思いきり念を込めた。

 すぐ返事が来た。

「よかったね、明日会おうよ、連絡ちょうだい」

 よかったね、の後にハートマークが付いてた。儀礼的ではあるかもしれないが、今まではなかったことだった。

 好きだよ、と告白したわけだから、付き合ってが次になるのだろうか。まあ、同じようでもあるし、確認しときたいところでもある。付き合っている、といえば恋人同士ってことになるわけかな。はるかって、付き合ってる人っていないよね。ぼくは全くいない。

 その話、したことなかった。そんな段階じゃなかったし。はるかから会おうよ、なんて言ってくることなかったな、考えてみれば。えっ、いい方、悪い方。ああ、心臓に悪い。

 そんなことを考えながらぼくは結構この状況を楽しんでいたのかも知れなかった。

 戻ってきても、一日中寝てたわけだから、眠くはなかった。妙に興奮していたのだろう。買ってきたサンドウィッチつまんでビールを飲み始めた。といっても、二本も飲めば眠くなってくる。観ていた動画オフにして、眠ることにした。横になったらすぐ眠ってしまったらしい。

 次の朝は快調に目を覚ました。

 夏が近づくにつれ起きる時間はだんだん早くなっていた。そのまま立ちあがり、窓を開けると空はもう明けていたし、雲もほとんどない快晴だった。西に向いているので朝日は見られないが、朝の光を受け町が薄赤く輝いていた。そしてその上に広がる青い空。雨上がりの空は透明に澄んで、その色調が目の奥にしみ込んでくるようだった。都会の空気がきれいとは思えないが、思わずさわやかな冷気を大きく吸い込んで伸びをした。太古からの人の記憶がそこに甦ってくるようだった。

 

 丸二日寝てたんだよね、曜日の感覚がなかった。指を折って数えると、今日は金曜日だね。そうだ、水曜は一限に語学あるから早めに出ようとしたんだけど、断念したんた。それからがひどく長いような気がした、寝てただけなのに。現実感が少し希薄なんだよね、ふわふわしてる。でも気を取り直して学校へ向かった。二限の演習でてから、部室にとりあえず行った。

 鍵が開いてて、海保がいた。

「やあ」と、声をかけると、

「どうした」と、海保は言った。

 えーと、何がどうしたんだろう。

「しばらく、こなかった」

 あ、そうだ。それは初めての出来事かもしれない。部室二日半顔を出さなかったのは。

「風邪引いたみたい」

 ぼくは、もう治ったよみたいに髪に手をやった。

 海保はタバコは吸わなかった。

 何してたんだろう。珍しいな、一人で部室にいるの。ぼくは、怪訝な顔をしてたのだろうか。長老がいつも座っていた少し手前のあたりに海保はいた。そういえば、あそこ海保の指定席だった。

「いや君まで、田舎帰ったかと思ったよ」

 なんだか微妙な言い回しだな。

 実際そんなふうには思ってないんだけど、海保はそういう話し方することある。素朴な言い方ではない。斜に構えるというか、言葉に含みがあったり、とげがあったりするのだけど、そのことで問い詰めたら、いやそんなことない、っていうんだろうな。自分の感情を微妙に言葉にするのがうまいともいえる。それもさりげなくだ。だから、ことばではなくて感情を読まなくてはいけないんだ。

 ああ、疲れる。で、ぼくは言葉が返せなくて黙ってしまうことになる。反対にこれは一つの武器で、意識的ではないけど、海保は沈黙に耐えられないから、うやむやになって次の話に移らなくてはならない。いつも人を相手にして生きてるからだ。

「斎藤と付き合ってるって」

 我慢しきれなくなって海保は言った。いずれその話題は出るはずだった。海保から言ってくれて助かった。

「そう、最近ふたりで会ってたりする」

 言葉にどんな影響があるなんかわからずに、感じたことを口にした。嘘をつかないこと、これは愚直に信じているぼくの処方箋だった。正しいかどうかはわからない。ぼくだって、そうでない方がうまくいく場合があることは知っている。だからあくまでも、ぼくの態度のことだ。

 海保は立っているままのぼくを見上げ、それから視線を下げてテーブルを見つめた。

 ぼくは回りこんで所定の位置に座る前に少し窓を開けてからカバンを横に置いて、海保を見た。

「きみが斎藤さんを好きなことは知っている。でもぼくも彼女が好きになってしまった」

 海保は手のひらを上にして、持ち上げた。

「でも、ぼくも彼女が好きになってしまったって、どこかで聞いたセリフだね。考えてたの」

 またぼくは言い返せない。それを見て海保は続けた。

「わかったよ、ただまだ終わったわけじゃないからね」

 そうか、恋のライバルはいくらでもいるというわけだ。

「まあ、きみは気のいいとこがあるから許すよ。ただ手加減はしないよ」

 これって一方的な宣戦布告ってやつ。ぼくの守り札は携帯にあるハートのマークだけだ。

「なにか変るの」

「斎藤の情報をぼくから聞けなくなるだけさ。それにネガティブな話が出てくるかもしれない」

 うーん、微妙な情報操作は海保の得意分野だからな。

「お手やわらかにね」

 ぼくは立ちあがって手を差し出した。海保も立ち上がって、握手をしてそのまま出ていった。なんかちょっと嫌な感じだな。ぼくは座ったまま、ぼう然としていた。これも海保の心理作戦なんだよね、と最後切りをつけた。そうでも思わないと、めげてきそうだったから。


「どこにいるの」

 はるかにメールした。すぐ、返事が戻ってきた。

「学校。お昼たべようか」

「了解」

 校門のところで落ち合って、アーケードの通りを歩いて行った。きょうはアップで帽子のように髪が巻きあげられていた。長袖はもう暑くなってきている。ジーンズにポロシャツで、ぼくは紺、はるかは水色でピンクのプリントがしてあった。昼、食事するのは初めてだ。いつも彼女は女友だちと一緒で、ぼくはそこには近づかなかったから。ぼくは一人で食事するのには慣れていたけど、彼女はそうではないみたいだった。そうだよね、女の子は一人で食事しないね。

 長老がいるときは、立ち食いそばか、お決まりの定食屋に行ったけど、今日はそういうわけにはいかないよね。

 で、何を食べるのか、どこに行くのか、決まらないままかなり進んできてしまった。そのあいだ、そぞろ歩きで、どうだったとか、大丈夫とか彼女は聞いていて、並んで通りを肩をくっつけながら歩いていた。そうしないと話が聞こえないからだったけど、なんとなくいい感じだな。

 途中で、ちょっとオープンにした、明るそうなレストランを見つけたのでそこへ入ることにした。

 ランチのメニューを頼んで、

「ここでよかった」とぼくは聞いた。

 限られた店しかないので、昼時は学生や会社員で一杯になる。でもここまでくれば、それほどの喧騒はない。

「うん。平気よ、でもここ来たことないんでしょ」

 そうなんだ、こういうとこって男同士では来ないかも。せいぜい、トンカツ屋とか中華かな。ラーメン餃子っていうのもあるけど。そう言えばこの通りにはファミレスってないね。そうだ、逆方向へ行けば、あったんだ、今度はそっちへ行こう。

 いろいろ話してて、海保のことも話題にのぼった。はるかと海保の間には何もないよね。前には会の仲間だって言ってた。

「そう、悪い人ではないけど、私のタイプとは違うわ」

 そうだよね、なんだかんだって言ったって、はるかの問題なんだから。でも、はるかがぼくに対して猜疑心を持ったらどうなるんだろうか。どうもマイナス思考だな。完全に海保の作戦にはまっている。しかし、ぼくはそのことを彼女に告げられない。どうもぼくの主義に反しているからだ。その次元に立ってしまったら海保と同じになってしまう。スパイ大作戦になっちゃうんだ。

「海保が変ななうわさを流すかも知れないから気をつけてね」

 と、はるかに告げてしまいたいけど、それをしたらぼくは負けなんだ。自分に負けてしまうんだ。主義といったけど、それほど確かなものではない。勘みたいなものかもしれない。ええっ、ぼくは何を信じたらいいんだろう。

「付き合ってくれるね」

 食事の後、はるかに言った。コーヒーを飲んでるときだ。

「どうしたの、付き合っているじゃないの」

 やはり、そうなんだよ。確認するまでもない。さらに他に付き合ってる人いるの、なんて言ったら、バカにしてるのと怒るだろうな。当然だよね。

「篠崎くんて付き合っている人、他にいないの」

 これは何かシビアに聞いてきたな。あれ、おかしいな。これはぼくが言おうとしていた意味とは少し違うな。

 ぼくは誰とも付き合っていないし、付き合おうとした人もいない。過去を探っても、一時の恋みたいのはあったとしても、それはそれだけのことだった。その季節の経験にすぎなかった。こっちが進もうにも相手にされなかったともいえる。だから、付き合った経験もなかった。いままで特定の恋人はいなかった。

「いないよ」と、ぼくは言うしかない。

 他にどういえばいいんだ。

「そう」と、はるかは、言葉を飲み込むようにつぶやいた。

 だめだ、だめだ。

 何かおかしい。何か言わなくちゃ。

「そうだ、なにか用があったんじゃなかった」

 こんなこと聞いて何になるんだ、ああ嫌だ。最悪。

「もう、いいの」

 なんか気まずいな。ぼくが付き合って、と言ってからなんだよね。

 あれ、ジョガーかな。ジョガーのことを言ってるのかな。あのキューピッドか。あれはぼくとはるかを結びつけた矢だったのに。

「菅原さんのことなら誤解だよ。それは何度か二人で話をしたけど、そういう関係とは少し違うんだ。彼女はぼくのことなんか相手にしていない。彼女は超能力者なんだ」

 それからぼくはジョガーと、会長と前の彼女のことをはるかに話した。はるかは目を見張ってぼくの話を聞いていた。彼女はかわいいな、きょとんとした丸い瞳はユーモラスでもある。少し口を尖らしてみせる表情はさらに心ひかれる。彼女に憂いの翳を与えてはいけない。彼女がほほ笑めば、ぼくは幸せになれた。

 ジョガーよりはうまく話せなかっただろうけど、会長の悲劇ははるかも心打たれたと思う。目が潤んできたのがわかった。ぼくははるかの手をとった。外国の映画でよくするように。彼女の細い指はなめらかで、しっかりぬくもりが伝わった。話し終わってぼくは手を離し、はるかは遠くを見ていた。

 ぼくらはひどく親しくなったような気がした。その後はるかは教室へ、ぼくは部室に向かった。


 なにか予感がしてたんだけど、やはりジョガーは現れた。それでまた、図書館の前のベンチに座った。今日は大忙しだ、みんながぼくを探している。本当はぼくの方がジョガーに一杯聞きたいことがあって、それを察してジョガーが現れたんだ。彼女はぼくのことなんか相手にしてないけど、それにも増してぼくは彼女の何を知ってるんだろう。

 彼女はぼくに何で興味があるんだろう。だって、ぼくは彼女のことを何も知らないのに、彼女はぼくのことがわかっているから。もちろん情報収集したのでなくて、彼女にはわかっているんだ。そのメカニズムは知らないし、万能でもないと思うけど、とにかく彼女は何かを察知することができる。

 あの日、はるかは来るようにしてぼくのバイト先に現われたけど、幾分かはジョガーが見たキューピッドに関連しているとぼくは思う。暗示のように感じているんだ。そうでなければぼくは彼女に声を掛けられなかったんだ。何かが閃いて、会おうかとぼくに言わしたのはその暗示なんだ。その暗示をかけたのはジョガーだった。

「ひどく久しぶりの感じがするね、なんだか一季節が過ぎてしまったみたいだ」

「それはよかったわね」

 ジョガーは笑いながらだけれど、クールに言った。

 え、何が良かったんだろ。やはりはるかのことだよね、それしかない。ぼくは知らない振りして、

「合宿行くんですか」って、訊いた。

「だって、私の実家に泊まるのよ」

 えっ、どういうこと。やはり、ぼくは何にも知らないんだ。

 彼女は由緒ある、修験者なども来る大きなお寺の娘だった。その宿泊所で合宿をとり行うというわけだった。高尾山みたいな感じなのかもしれない。もしかして飯綱権現、なわけないか。でもそれに近いかも。

「修行したんですか」

「それなりにはね、でもほとんど体質みたいなものよ」

「ぼくなんか全然わからないけど…」

「近視の人とか、遠くがよく見えるとかと同じなのよ」

 そうだな、それは聞いたことあった。アフリカの狩人がすごく遠くが見えるように、

 彼女も普通の人の見えないものが見える。でもそれはそれだけのことだ、と彼女は言うのだ。

 いまいち納得はできないんだけど、説得されちゃうかも。超一流の選手の能力って、超・人であるし、超・能力だよね。一般じゃないということだよ。自閉症の人がすごい記憶力を持っているとか。ただ、偽物も多いから気をつけなくてはね。

 それでもうその話は終わってしまって、二人でまた空を見ていた。この季節には珍しく澄んだ感じで、そうか、雨しばらく降ったからね。木々の緑がより深くなったみたいだ。空は高くて、刷毛で塗ったような薄い雲が浮かんでいる。気持ちのいい天気だった。

「高橋さん、会長とうまくいくんですかね」

 ぼくは言ってから、そんなことより自分の心配をしろ、みたいな気にはなったけど。

「彼女だって、見てたはずだし、却って惹かれたこともあるかもしれないよ」

 そうなのかな、ハードル高そうな気がするんだけど。違うんだろうな、ジョガーの言う通りなのかもしれない。

 易きにつく人は多いだろうけど、そうでない人もいるんだ。そういうもんだよね。

「菅原さんっていつも何してるんですか」

 ひどく素朴な質問。訊かれた人もイヤかも、でも言っちゃうんだな。

「学生だよ、勉強して走って、心身を鍛える」

 そんなふうにしてたら、やはりすごいな。なかなかそう言えない。そうだよ、ぼくだって鍛えなくちゃいけないんだ。うーん、そうか。

「なんか、緩むことないんですか」

「きみに会うことかな」

 あちゃあ、なかなか癖のあるいいかたなんだな、ジョガーは。でも、ぼくの質問がいけないわけだからお返しなのかな。きつい冗談だけど、実際そうなのかもしれない。ぼくと会うことは彼女のリラックスの方法というわけか。それなら、なんとなくわかる気はする。ぼくも変に考えることもない。

「どういうことですか」

 なんとなく、とぼけて訊いてみる。ぼくは一年生で、みんな先輩のわけで、後輩の役割をしてるわけだから、こういうきき方も許されるはずだ。ジョガーがある程度ぼくをからかうんだって、自分が先輩だと思っているからなんだ。ぼくは、運動部にいたからこの感覚は身についてる。会社でいえば、上司みたいなものなんじゃないかと思う。

 先だちはあらまほしきもの的な部分と命令指示関係かな、むやみに威張ったり、ハラスメントにならなければ、ある種の意味がある気はする。

「全く言葉通り、きみといるとリラックスする」

 これ微妙です。誉められてる気はするけど、そういう自分の位置がよく理解できない。ぼくはなにか、ためにしてるわけではないから気にする必要はないのだけど、「ぼく」と呼ばれている後遺症がまだ抜けない。このこと訊いてみようかな。

「どうしてですか」

 ジョガーはぼくがわざと聞いてるのに気付いているだろう。でも親切に答えてくれた。

「それは、きみと私の前世からの因縁なの」

 そうか、そういう答え方ってあるんだね。もともと説明なんかできない類なのかもしれない。

 そう言われたらどんなと訊きたくはなる。でも、訊かなくてもわかる気がする、だって、ぼくはいつもそう感じていたからだ。やっとわかったの、みたいな顔してジョガーはぼくを見ている。

 うーん、なんだか認めたくはない。

「安寿と厨子王、知ってるでしょ」

 えっ、そこまでくる。

「そういう関係であったのよ、彼らではないけど。お話にまとめられる前のたくさんの人たちのうちの一組。離れ離れになった姉と弟、会えばほっとするのは当たり前よ」

 ぼくは何とも言えなかった。そんなふうに説明されれば、そんな気がするけど、前世なんて非科学的だみたいな考えもわかる気がした。どうなんだろう。

「理解できなければ、比喩だと思えばいいわ」

 これは、声には聞こえなかったジョガーの言葉だ。僕の目を見てちょっと悲しそうにした彼女の表情がそう言っていた。本当はジョガーの言葉をぼくは信じるべきなんだ。彼女はぼくのことを可哀そうだと思っているのだろう。彼女の目は慈愛に溢れているし、それは気づけば、肉親の情ともいえる。ぼくのことが心配なんだ。実の姉よりも強い思いだった。

 それは、盲目的な愛といえるのだろうか、それは彼女の中の確信だからなのだろう。純化された肉親の愛。同身といえるのだろうか。

 はるかにぼくが感じる愛は、もっと肉欲的なものだ。それがなければ男女の愛とはいえないだろう。動物的と言っていい。においをかぎ合うような、ひどく野蛮な行動スタイルだ。はっきり言えば、そんな本能がなければ子孫が絶えてしまうから、定められ、与えられた存在の条件なんだ。そういうものに規定された生存なんだ。前に野球部たちの話に違和感を覚えたのは、このことに関係している。彼らの方が正直だというのだろうか。

 いくら上品にしていても、トイレに行くのだろう、というような話と似ている。トイレには行くが強調することではないだろうということだ。そんなことは当たり前なのだから、取り立てて言うほどのことではないだろう、という考えだ。否定することはないが、強調することではないと。話をするときに何を選ぶのかはその人の裁量であって、それによってその人のあり様が規定される。で、それによって彼らから何を読み取るのだろうか。反対に言えば、掴んだものは何かという問題だ。

 性行為はある種、崇高な行為でありうる。一方、惰性に満ちたひどく日常的な行為でもあるし、怠惰で肉欲的な快楽の満足でもある。果たされた行為は、精神の消耗でもありうるし、罪悪感や空虚さをもたらすものでもありうる。相手を貶めたり、自分を損ねたりすることもある。だから、すべての行為と同じように動機に正当性や妥当性を求められる。文化による洗練さが求められるというわけだ。ある種、民主化の要求に似ているかもしれない。

 世の中は、下司な勘ぐりや下卑た物言いに溢れているし、罵倒や恫喝、詐欺や揶揄、相手をやりこめ自らの憤懣のはけ口にしている。要するに、欲求不満の人々が蠢きあい、他の人を傷つけようと手ぐすね引いて、待っている状態だ。そんなところへ、わざわざ落ちていくことはない。その中に巻き込まれることはあるだろうけれど、それもうまく切り抜けて、それ以外の地平に戻ってこなくてはならない。

 たぶんそれがぼくの生きる道なんだ。僕の生き方だと思う。ジョガーといて、空を眺めながらぼくはそんなことを考えていた。ぼくは自分がどう生きたいのかで、悩んでいるのだと思う。それが問題なんだ、きっと。

「会長も悩んでいたわ。自分の分身を亡くしていまって、生きる張り合いがなくなりそうだったの。食事もほとんど義務的に口に入れるだけ。あらゆる欲求が霧散してしまったの。動作も緩慢になって、このまま徐々に死んでいくのではないかと、考えたそうよ。それならそれでいい、そこへ向かって行く道なら、自ら断つことはなくても導かれるままだと覚悟したの」

「それは魔の領域ね。エアーポケットのような陥りやすい黄昏どきだわ。そこに迷い込んで抜け出せなくなるの。医者が言えば、ASD(急性ストレス障害)やショック性の鬱、PTSD(心的外傷後ストレス障害)と診断するかもね。でも、そんなこと何の役にも立たない。知ることは意欲には結びつかないの。彼は、彼女と行くはずだった地に立って、自らに決別しなくてはならないと心に決めたの、それがターニングポイントね」

 ぼくは、彼女の話を前を向いて聞いていた。大きな木が枝を伸ばしている。手を広げて、さあ、おいでとでも言うように。

「電話が、あったの。よほど辛かったんだと思うの、めったに泣き言なんかいわない人だから。私は黙って聞いていただけ。話すことによって掴んでいくものなの。私を通して何かを見てるの。それは神のように、あるものではなくて、ないものなの。混沌として無定形な何か。比喩的に言えばビッグバンの前の世界。仏が未明といったような何かなの。そこの中で掴んでいくものは、明るい光の世界ではないわ。かといって二元的な陰の世界でもない。光と影が混ざり合ったカオスの中の無の世界。そこで小さな意識が芽生えるの。それが生きる力なの。私を通して見えるものの正体はそれよ」

 ぼくは、上手く理解はできなかった。でも、それはいつかぼくも遭遇する領域のようにも思えた。そのときぼくもきっと理解するに違いない。

 ジョガーはまた、名残惜しそうに話を終えた。突然、停止の指令が出たみたいに。

 それで、ぼくたちは立ちあがり、並んで再び歩き始めた。



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