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ぼくの時  作者: 西崎皓之
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第六章 超研の人々

 

 

 超研の人々

 

 

 窓際の広いガラス戸を開ければ、狭いベランダになっていて、洗濯ものが干せるスペースがある。そこにアンダーウェアを吊るしながら下を覗けば、線路が見える。レールを挟んで、赤茶色の敷石が帯になって続いている。駅はここからは陰になって見えない。鉄道ファンなら喜ぶのだろうか。そうでもないのかな。とにかくここに決めた一番の理由は家賃が安かったからだ。

 連休が終わって、部屋探しを始めた。それにアルバイトも。もともと伯母のところは、当座ということだから身の回りのもの以外、荷物も運んでいなかった。スーツケース一つで上京した。連休中に一度帰省して荷物をまとめて送れるようにしてきた。ワンルームマンションというのかな、住まいを決めたら送るよう姉に頼んできた。といっても、段ボール数箱で所帯染みたものはほとんどない。冷蔵庫を買わなくてはならないだろう。あとはパソコンと寝具一式を送っでくるからそれですべて間に合うはずだった。コインランドリーもコンビニも近くにあった。東京都内なんだから当たり前かな。

 初めての一人生活。念願というほどではなかったが、望んでいた生活ではある。人との接触は得意ではないけれど、ストレスになるほどでもなく、伯母の家でも居心地の悪さはそれほど、意識はしなかった。でも解放感は全然違う。この気持ちよさは手放したくないものだった。一人で声を上げたり、逆立ちをしてみた。下着姿でいられる。好きな時に風呂に入って、冷えたビール飲みながら外眺めてたら最高だね。

 その生活のためにバイトを始めることになった。本好きだったから、本屋の仕事。物事は簡単に考えることにしていた。週三日。夕方から閉店まで。最初はこんなとこかな。面接もあっけないほど簡単だった。店長は履歴書見て、時給とシフトの説明して、いつからできると言った。では、明日から。それで決まりだった。

 

 連休の後、ぼくは引っ越ししてバイトを始めたわけだけど、ぼくの生活はそれほど変わったわけではない。ただあの道は通らなくなった。学校を挟んで反対側へ引っ越したからだった。それにバイトはさらに先の、一駅向こうだったから通る必要がまるでなくなった。それと通学時間が大幅に短縮されたので、部室にいる時間はほとんど変わらなかった。バイトのせいで起きる時間は少し遅くなったけど、そのぶん近いから行く負担は同じだった。そのまま引きこもりそうになるけど、これは大事な習慣だった。生活のリズムといっていいのかな、それにそこへ行けば誰かに会えた。そのころにはかなり「超研」に馴染んで、仲間意識があったから。それも必要なことだった。

 ただ、長老が戻ってこなかった。音信不通というわけではないが、向こうに用ができたみたいだった。それで、ぼくが部室の主になってしまった。相変わらず女子の訪問は少ないけれど、そのぶん男子の頻度は増している。野球部はよく来るし、海保も学校に来れば一度は顔を出していた。海保は高校生のことは諦めていないけど、進展はなさそうだった。

「長い目で考えるよ、卒業までだって四年もある。機会があるかもしれない。今は友達でもね」

 それが、とりあえずの海保の結論だった。まあ、至極まともというか、現実的にはそうだろう、とぼくにも思えた。ただ海保の危なかしさは本命は彼女だけど、当面他の子でもみたいなところが見えるんだよ。それにそれを悪いとも思ってないみたいだし。いいとか悪いとかじゃないのかもしれないけど、どうなんだろう、その人の考えなんだよね、きっと。ぼくはまだ、その手前をうろうろしてるのかもしれない。そこが、「ぼく」の渾名の所以か、と自分で卑下した振りをしてみたりする。実際そんなふうには思っていないけど。

 進展があったのは卑弥呼だろう。

 最近、学内で会長と歩いてるのを見かける。暖かくなったせいもあるんだろうけど、着るものが軽く明るくなっていく。ダボダボのジーンズもやめて、すっきりした綿パンになった。髪型も少し変わったかな、相変わらず真ん中分けではあるんだけど、髪が少なくなって軽くブラウン入ったかな。遠くからでもはにかみ笑顔が素敵だ。

 会長は微妙だよね。もともとハンサムでそういう人って、極端な意地悪か、すごく優しいか別れるけど会長は超やさしいタイプだから、いつもにこやかだけど、面影が端正すぎるせいなのか、寂しく見えるときがあるんだよね。

 ちょっと距離を置いているって云うのかな、誰にでも、そういうスタンスではあるんだけど。まあ、いい関係で交際しだしたのは間違いないね。いいカップルだと思うけど。

 

 ジョガーは週に一、二度顔を出すけど長居はしない。部室好きじゃないみたい。

「表、行こうよ。気持ちいいよ」

 と、誘いに来るのだ。そうすれば、読みかけの本をしまって一緒に、だいたい図書館の前のベンチに出かける。確かに天気の時は木々を渡って涼しげなそよ風が流れて、伸びをして空を眺める。これってぼくたちのデートなんだろうか。でもあんまりジョガーに女性を意識しない。姉みたいな感じがするからかな。二人で遠く眺めながら、ぼそぼそ話したりする。

「彼氏いないの?」

 これって常套手段かな。ぼく自身は単なる興味からなんだけど。いつか彼女いないの、みたいに聞かれたお返し。

「うーん、秘密」

 そうか、秘密か、と思って振り向いたらジョガーと目が合った。すごく、唐突なんだけど、キスしたいナみたいに思った。目から口に視線が移ったの感づかれたよね。そしたらジョガーは背中の方に首傾けた。ぼくとしたら、余計身体が近づいてきたわけでどぎまぎした。

 ここで一歩進めば、たとえば肩に手を掛けたりすることでもいいんだけど、何か出来たら何かが変わる。

 やあっ、止まちゃって、身体が動かない。

「だめ、だめ」

 ジョガーが前に向き直って言った。

 それで息を吐いたら、何とか元に戻った。指が動いた。

 やっぱ、だめだよね。心の中で呟いた。

 きっとジョガーには聞こえているんだ。

「また、なにか見えたの」

 ぼくはジョガーに訊いた。

「キューピッド」

「あの羽の生えた、恋の矢持ってる?」

「そう、ウィンクしてた」

「それで、その心は」

 もう自棄になった。

「なんだろ」

「へえ、きみにもわからないことあるんだ」

 ジョガーは、ちょっと目を見張って、

「怒ったの?」

 と訊いた。ぼくは怯んでしまって、また口ごもった。

「いやあ、そんなことないけど」

 とにかくどちらにも矢は放たれなかったんだ。警戒信号ぐらいかな。ウィンクなんだから。

 そのあと何もなかったように世間話をした。その中に会長のことが出た。ぼくが聞いたんだか、亡くなった彼女のことだ。知ってるの、みたいな感じだと思う。

 ジョガーは珍しく慎重な口ぶりだった。迷ってはいないけど、言葉を選んでいるようにみえた。

「あれは、一昨年のやはり今頃かな。桜が終わって、新緑が眩しくなってくるころ。雨が降り始めた朝だった。後で聞いたけど、雨の降り始めって、砂やほこりが湿って一番タイヤが滑りやすくなるんだって。曲がり角を減速しきれなかった自家用車のタイヤが流れて、信号待ちしていた一団の中に突っ込んだのよ。その真ん中にいたのが彼女だった。それはひどい有様だったらしいの。聞いただけでも、むかむかしてきそうだった。それを会長は目撃しちゃったのね。ひどいショックだった」

 ジョガーはしばらく目を瞑った。なんだか苦しそうだ。

「待ち合わせ場所のちょうど向かい側の横断歩道だったの。会長には見えていて手をふったら、彼女も気づいて手を挙げかけた瞬間だったの、横から車が飛び込んできた。そのまま彼女は飛ばされて即死だったらしい。苦しまなくてよかったけど、姿が無残だった。車は石柱にぶつかって大破、運転手も即死だったらしい。死んだのは三人、重軽傷者が五人の大事故になった」

 ジョガーは今度は、遠くから眺めている目つきになった。

「会長は駈けつけたけど、手が出せなかったようよ。茫然と立ちすくんでいたんだ。一目見て死んでいるのが分かったほど変わり果てた姿だった。それが二重にショックなの。何もできなかった、彼女を守れなかった自分と、抱きかかえて嘆くことができない自分に腹が立っているの。そこは修羅場で後は大騒ぎ。彼女の身体に自分の上着を掛けて立ち去ったようよ。それからしばらく会長の姿が消えたの。家族には心配するなと言い残して」

「絵里、彼女の名前だけど、絵里は私が高校のときの同級生で親友だったの。学祭に来てくれたとき、会長に紹介したのも私よ。彼女はすぐに舞いあがって恋をしたのね。運命の人に出会ったと言ったりして、ヴィジュアル的にもお似合いのカップルだった。なんの問題もなかった。運命が悪戯をしたのね。悲しいことよ。会長も自分の分身を見つけたと確信したはずだから」

「あとで会長がいなくなったと聞いても私は心配はしなかった。自分が動揺していることを人に見せたくなかっただけだから。それに彼女の記憶を一人で確かめていたいだけだったから。それがたぶん彼の彼女への弔いだった。追悼の仕方だったの。旅の間、彼には彼女がずっと付いていたわ。でも、それと彼の生活とは違う。彼女を忘れることはできないけど、彼女なしで生きていかなくてはいけないことを彼はそのとき決意したはずよ。そのための旅でもあったの。彼女と一緒に行こうと約束をしていた土地での彼女との決別。それができなければ、彼は死を選ばなくてはならない。それは彼女を喜ばすことには決してならない。それはわかっていたの」

 ジョガーは話し足りない感じだったけど、とりあえずって風に話をやめた。切ない気持ちで、ぼくはもう胸が張り裂けそうになっていた。ちょっと喉が詰まる感じだった。悲しい話は聞いていても辛い。二人とも可哀そうだ。ぼくは、なんにも言えなかった。なんだか遠くの方を見ていたけど、焦点は全然定まらなかった。

 しばらく二人黙っていた。

 風がゆっくり流れて、白っぽい風景が揺れていた。

 

 下を向いたらようやく目の焦点が合って、アリが動いていた。どこからかまた現れて、手に何か抱えている。よく見るとアリの行列だった。ベンチの奥の方に巣があるみたいだった。

「行こうか」

 とぼくは言って、立ちあがった。

「よかったらまた話の続き聞かせよ。今日はもう手いっぱいだ」

 ジョガーも頷きながら立ちあがって、二人でとぼとぼ歩き始めた。日、長くなったナ。冬の間ならもう暗くなっている時刻だった。あ、そうだ。今日バイトの日だった。

 改札の所でいつも別れて徒歩で行くけど、遅れるといけないので、バイト先まで一駅電車乗ることにした。

 ジョガーの方の電車が先に来て、ジリジリとベルが鳴って、乗りこむジョガーに手を振った。少し沈んでいる彼女見るの初めてみたいで、なんだか心が動いた。抱きしめたいみたいな欲求が起きていた。これってぼくのツボかもしれないナ、彼女がすごくいとおしく思えてきた。

 

 ぼくが勤めている書店は駅ビルや駅前に小・中規模なショップを展開しているチエ―ン店だった。一度も本店とか行ったことないけど、コンピュータでつながってる。問屋、取次っていうんだけど、そこにも繋がっている。その繋がりが形に表れているのがレジだった。レジはもともとお金の受け渡しとその記録、販売データが集まるところだけど、人や商品の管理までしている。検品や発注の端末がそこにくっついているからだった。まあ、近距離の通信機能なんだけどね。

 ぼくの仕事は音声付きの自動販売機に似ている。

「いらっしゃいませ」

「ありがとうございました」

 商業用ことばがあることを知った。聞いたことはあったんだ、後で考えると、でも日常で使うことはない。たとえば、畏まりましたとか、承りますとか。接客のマニュアルがあって、その通りにやることが基本だ。まあ、経営的には当然だよね。それがいいことだと決定されているわけだから。だから従業員としては口癖になるみたいに慣れておかなければならない。店でもやらされ、帰ってからも練習しろってことだから、夢にまで出てきそうだ。

 こんばんは、こちらでございますか、……円でございます。……円預かりします、お返しは……円です。ありがとうございます。忙しくなると、レジに入ってから帰るまですうーっとそれを繰り返していなければならない。無我夢中って感じかな。

 暇なときは本の整理をする。雑誌売り場なんてひどい状態になっている。まあ、棚に詰めすぎてることもあるけど、元の場所に雑誌を戻すことがないから、最初から並びなおした方が早いくらいだ。それにずっしり重いのやら、一番いやなのは紙で指を切ったりすること。すごく痛い。女の子なんかは軍手したりしてるもんね。品物は朝来るからぼくらは検品とかはやらない。ただ、検収したままで陳列し残したものがあったりすると、店長の手伝いをして並べたりする。店長は黙々と自分の仕事をこなしていくタイプで、あまり余計なことを言わないから助かる。小言ブツブツ言われたらけっこう傷つくから。

 店長に社員二人で、あとはみんなアルバイト、パート。夕方にはもう帰っちゃうけど、ひどくベテランのパートの人とかいるみたい。おはようございます、というのが、出社の時の挨拶。夜なのに変だとは思うけど、もう定着しているみたい。ロッカーで着替えて、レジに行ってタイムをスキャンする。自分の名札にバーコード付いてるんだ。なんかそんなの不思議。実家の方のバイト先タイムカード、ガシャだったから。

 

 久しぶりに監督が部室に顔を出した。髪がすっきりして、もうミュージシャンぽくなかった。創作の動画、撮るんだって。映画監督だったんだ。いいキャストあったら出てよ、みたいなこと云ってた。まあ、誰にでも声かけてるのだろうが。そうか、貴婦人はそっちつながりか。

 やはり、主演の女優だって。納得。

「ポルノじゃないですよね?」

 恐るおそる訊いた。

「必要があれば、それだけを目的にしてはいないけど」

 それが、何か。みたいな感じだった。

 不思議少女は触手が動くみたい。感性が豊かだし、それが表情に出るんだって。

 うーん、それはわかる気がする。貴婦人はどうなんだろう。

「セックスはどうしてもテーマなんだよ。それなくしてはこの年代を表現できない。それに肉体なくしては映画にならない。肉声の言葉でイメージを膨らませることはできるし、試したこともある。そういうのだけじゃないってことさ」

 語りだすと止まらないみたい。熱く、なってくる。

「超研のメンバーを集めてキャスティングして一本映画撮ってみようか。シナリオ考えておくよ」

 なんで、ぼくにその話してるんだろう。たぶんたまたまなんだ。今思いついたのかもしれない。なんか、やっぱり監督は自分で納得してるみたいだ。

「はあ」と、ぼくは一応、先輩だし頷いておいた。

 いや止めてくださいよ、とぼくは言えないけど、海保なら、しらっと云うだろうな。そんな気がふとした。

 

 そんなことのあった日、バイト先のレジの前に高校生が立っていた。

 こういうとこで見ても高校生は群を抜いている。気の利いたスカウトがいれば声を絶対掛けるよね。もしかしたらそういうこと結構あるのかもしれない。監督それ目当てかなと、ちらっと思った。

 手に持っていたファッション雑誌、カウンターに置きながら財布探してたのかな、顔あげたとき目が合った。いらしゃ、ぐらいで声が止まった。

「あ、あっ」

 と、高校生は声を上げたけど、本当にびっくりしたのはぼくの方だった。偶然だよね、こういうの縁があるっていうのかな、シンクロニシティー…

 いろんな言葉が頭を巡った。すごく嬉しかった。

 とりあえずレジの作業は続けながら、声をかけた。

「ここら辺来るの?」

 聞いていた住まいの場所とは違ったから。

「うーん。越したの」

「えー、そうなんだ」

 なんとなく、閃いて、

「今度、近くで会おうか?」と訊いた。

「連絡して。じゃーねぇ」

 と、手をばたばた振って高校生は出て行った。

「ありがとうございました」

 ぼくは、後ろ姿に声をかけた。一度も掛けたことなかったけど、連絡網みたいな感じで携帯の番号は聞いていた。

 

 仕事終わって歩いて戻ってくる。明治通りを逸れて支線に入ると、途端に暗くはなるけど、街路灯やら周りの灯りで夜道という感じではない。ただ道幅は狭くなる。どこで脇道に入るかは、その日の気分だ。どちらにしても、あの道のようにぼんやりとはしていられない。

 安全と云う事を考える。海外で女の人が一人で旅行していて事件に会ったりする。それは不幸なことで同情はするけど、ぼくは怖くてできない。それはぼくが一度も事件に遭遇してないからなのかもしれない。危ないところには近づきたくない。危険と好奇心とを秤にかけて結局尻込みするタイプだ。だからと言って、この道をびくびくして歩いていたわけではない。少し用心していた、っていうところかな。今の住まいがなぜ安いかと云うと、前の道路は車が通れないからだ。今はもう建築基準法とかで、建てられないはずだけど、そんなに古くは感じない。たぶん無許可で改築してるんだと思う。

 正味二十分ぐらいで着く。でも考え事はできない。

 部屋に入るとほっとする。厳密には違うかもしれないが安全を確保した気がする。服を脱いですぐシャワーを浴びる。温いのから始まって最後かなり熱めの湯を浴びて出てくる。さっぱりして気持ちがいい。こんなことでも幸せと感じる。今日は冷蔵庫から冷たいお茶を出して、グラスに注ぐ。ビールのときもあるけど、いつもじゃない。

 中学のときバスタオル型、ローブ派みたいな話があって、半々だったりした。ぼくはバスタオル腰巻き派ってとこかな。体育の教師がそれはしてはいけない、とかなりマジめに言っていたけど、あれってなんだったんだろう。授業に身が入らないで、自分の草野球の試合の調整ばかりしていた人だったけど。すごくグラマーな教育実習の先生が来て、ひどく鼻を伸ばしてたな。それは生徒の方も大興奮だったけど。

 あれ、なんだってこのこと思い出したんだろう。

 

 テレビはないし、新聞もとってないけど、インターネットの回線つないだからパソコンのスウィッチを入れる。ワッツナウって感じかな。ついでにネットラジオで音楽を流す。防音されてないんで音量は小さめに、と不動産屋に念を押されていた。それなりに世界は動いているようだ。

 なんにでも、スゴいこだわりはない。ユルいのかな。最後きて、もうダメみたいになるとしたら、まわりは驚くよね。そのパターンあるかも。自分抜きで進められた話、あとで拒否するみたいな。

 何も言わなかったから納得してるんだと思ったと、女の子に言われたような記憶がある。何のときか忘れたけど。大体はそのままずるずる行く。

 実を言うと、高校生のこと考えないようにしていたんだ。頭の片隅にはあるんだけど、そのままそこに置いておこうって感じかな。妄想しだすとマズい。

 

 きのうはカーテンも閉めず、そのまま眠ったみたいで、

 目が覚めた時は窓は明るかった。どういうわけなんだか電車の音はほとんど気にならないんだけど、微妙に揺れるので、電車が通過してるのがわかる。それも始発とか朝の早い時間帯だけだ。位置的には下の方を線路が二本通っている。最初は驚いたけど、三、四日したら慣れた。それよりも生活音というのか、水洗の音やテレビの音がかなり響く。ただ単身の人が多いせいか人声はしない。どちらかといえば、ひっそりとみんなが暮らしている感じだった。右隣は二十代の女の会社員ふう。左は三十過ぎの男の人。夜いるのは分かる感じ、でも外で会うことは頻繁ではない。会っても会釈するぐらいかな、話したことはほとんどない。

 洗顔したりしたあと、窓を開けて、簡単に掃除片付けしてから、買っておいたパンとコーヒーで食事。サッシの窓開けるとさすがうるさいので早々に閉める。ネットでメールやニュース、ブログ見てから出かける。

 今日は唯一、一限に必修の語学入ってるので、早めに出てきた。

 クラスは七割が女の子で居心地は良くない。あんまり馴染めないから終わればすぐ部室に急ぐ。最近は携帯のジャーに、お茶かコーヒー持参だった。鍵が開いていて、誰か来てると思いながら入ると、長老が所定の位置に座って本を読んでた。

「久しぶりです」

 と、ぼくはあいさつした。連休前からだから、かれこれひと月になるのか。

 長老はやあ、と云って手を挙げた。そして、そのまま目を本に落としたので、ぼくも少し窓を開けて、椅子に座った。すぐ本を読む気にはならなくて、ぼんやりしてたんだと思う。別に何も考えずに、目の片隅には長老がいたけど、気にならないというのかな、ひどく落ち着いた感じだった。それからジャーからコーヒー注いで飲んだ。もちろん長老はタバコをくわえている。ぼくは腕を組んで宙を眺めていた。この二カ月のことが焦点定まらないまま浮かんでるみたいに。それからぼくも読みかけの本を読みだした。

 かなり時間経ったのかな、戸が開いて会長が顔を出した。あ、そうだ今日は定例会の日だ。連休後は二週間に一回になっていた。長老は会長と話し始めた。家業を継ぐので学校をやめると云うことらしい。夏休み前に引き上げる。そんなことをぼそぼそと話していた。

「そうですか、それは残念ですが、そういう決断の時期でもあるということですね」

 会長はそう言うと、ではまた、と出て行った。

 長老は見送りながら、またいつものように、ぼくに初めて気づいたみたいに、

「食事でも行くか」と、尋ねた。

 

 高尾山へ行ってから初めての定例会だった。

 あの時は、新宿へ着いたら飲みなおそう、とファーストは張り切っていたんだけど、みんななんか疲れたね、みたいな雰囲気になって、まあ、それでも去りがたしということでファミレスへ繰り出した。

 お腹どうかな、と言いながらもそれぞれ注文を始めた。

 ビール頼んだのファーストと海保だけだった。あとは食後のデザート的な注文だった。みんなお酒飲んだ後のけだるい感じで、口数も少なかったけど、元気なのはファーストと比較的こけしかな。二人でほとんど話してた。ある作家の陰謀論だった。世界は少数のグループによって牛耳られていて、それに人々は操られているという話だ。

 日本がアメリカに支配されているというのは事実なんだろう。それが比喩的であるのか、暗示的なのか、それともある部分なのか、比較的多くの部分なのかはわからない。

 経済的にもアメリカがくしゃみをすれば、日本が風邪をひくみたいなことは少しあるのだろう。いつからだ、といえば、そういう議論は聞いたことはないけど、戦争に負けてからというのだろうか。じゃ、その前はどうしたんだというのは歴史の話なんだが、そこには興味がないらしい。

 いつも世界は出来たものとして始まっているんだ。神がすべてを創造した話と似ている。アメリカには進化論を教えるのをためらっている州があるという。人々はまだ宗教を必要とするし、そのために戦争をしている。

 

「与那国島は、沖縄返還のとき、アメリカが防空識別権をそのままにしていたために島の東側は台湾が持つということになっているのよ。日本の国なのに」

「そんなこといったら、まあ極論ではあるけど東京の管制権はアメリカの横田基地がもってることになるんじゃないのかな」

「それとはちょっと違うと思う」

 こけしは結構がんばっていた。

 

 監督くるのかな、と思っていたけどまだ来ない。こないような気がしてきた。女子たちも集まってきて、いつもとは様子が違う。ぼくは窓際の席は動かない。ぼくの奥に野球部を押し込めた。

 あとは四月のときと同じかな。やはり自分の指定席ってあるよね。役割とか、性格とか、いろんな要素絡まってね。ジョガーは一度もこの会に参加したことない。あのあと一度顔出したけど。なんか理由あるのかな。わからない。

「じゃ、始めようか」

 と、会長が言って、立ちあがった。

「秋山くんのリクエストで陰謀論やってみましょうか。少しまとめておきましたから配ります」

 ファーストって秋山っていったんだね、忘れてたよ。

 かなりお勉強会みたいになって、本来そういうものなのかもしれないけど、活発な意見というより課題を与えられて次回発表みたいな感じになった。歴史上の陰謀、あるいはその噂のある事件について。9.11事件と「テロ戦争」。ロスチャイルドとロックフェラー。

 対象を限定してその事実性を検証する、ことにしか意義はないことを確認した。

 それでそのテーマは終わって、こけしから夏休みの活動で、パワースポット体験合宿の提案があった。

 良ければ日程を詰めます、ということで、全員が賛成した。

 長老から来月、学校をやめるので超研にも出席できないという報告があった。では、送別会をかねてこれから飲み会をということはすぐに決まった。それで前回の居酒屋へ行った。みんなに親和性があって、坦々と和やかに進んでいた。

 実はきょう新入会員が一人来ていた。こけしが連れてきたみたい。坂崎と言っていたかな、一番手前だから、ぼくの前に座ったことになる。目立たない、おとなしそうな感じの男子だった。でも意外とはっきり自己紹介していた。

 

 部室でぼくは、ちらちらという感じで高校生を見ることになった。ちょうど視界に入るか入らないかの境だったから。今日は髪を下げていた。少し大人ぽく見えるかな。赤いカチューシャですっきり留めて、白い襟の広いシャツを着ている。上着の肩につやのある髪がかかっている。この間、遇然あったことを素振りにも出さなかった。ぼくの記憶違いかな、みたいに思わせるほどだった。

 あれ、どうしてだろう。そんな日が経ってないから、まだ連絡はしていない。次の日にでもした方がよかったのかな。そういうとこ、マメじゃないというか、照れちゃうというか、構えちゃうのかな。変なくせかもしれない。

 それじゃ、いつ連絡するつもりだったんだろう、と自分に尋ねてみる。だめだ、延びたそばみたいになっちゃう。

 ぼくは決意する。今日、必ず会う日を確認する。

 ああ、緊張してきた。

 あのときぼくはこう思ったんだ。急に引っ越しが決まるなんて普通じゃない。なにかが起きたんだ。だからぼくに何かができるかもしれない、少なくともその話を聞くべきだ、ってね。彼女もそう言った以上話したいはずなんだ。だって誰もそのことを知らないんだから。まだ大っぴらになっていない話なんだ。

 

 居酒屋へ行く途中、なにげなく話すことにした。着いたら難しいし、その後はわからないから。だからうまく間合いを取って近づいた。他の人には気づかれたくない。

 でも、そんなこと無理だ。海保は高校生の横、陣取ってるし。だから携帯なんだ。頭ぐらぐらしてきた。なにやってんだろ。けっきょく、そのまま高校生追い越しちゃった。

 でも小声で、「きょう電話するよ」って言った。

 高校生、頭、動かしたから聞こえたかも知れなかった。


 今日の主役はもちろん長老だ。みんなに促されてスピーチというのか、ともかく話し始めた。こけしと卑弥呼の間に座っていた。両手に花かな。

「みなさんも知っての通り、私は一度学校をやめようと思い、九州の実家へ戻ろうとしたのですが、最後、自分を試してみたくなったのです。甘い考えかもしれませんが、私は自分で稼いだことがなかった。アルバイトもしたことがなかった。半分親をだまして、司法試験を受けるからとお金をもらっていました。もちろん実家の家業はあるのですが、そこで若旦那、三代目と言われるのはわかっていました。そこから逃げられるのか、逃げてどうなるのか、もちろん私に実力があれば、自分で人生を切り開ければ、それはそれで親も納得したかもしれません。だが、どっちつかずで、それこそ負け犬のように、田舎へ戻ることに私自身が納得しなかった。実際はただ、町工場に勤めただけです。それも事務職でした。本当にやっていく気があるのか、面接のときに何度も確認されました。私なりの覚悟は伝わったのか担当の部長は私を採用してくれました。そして彼の下で働くことになりました」


「携帯電話の部品の製造と修理をしていました。下の作業場には二十数名の工員とそれもほとんどパートの女子でしたが、階上の一角で私は仕事をしていました。手とり足とり工程や機械の説明を受けることから、会社全体の経理、庶務的なこと全般、部長の下には女の社員が二人しかいませんでしたので、ほとんど雑務、下との交渉ごとをやらされることになりました。仕事の段取りを理解したときには、部長は外回りに出るようになりました。ひどく忙しかったけど、やりがいはありました。あっという間に一年が過ぎました。部長も期待してくれて、ここで一生を終えてもいいかななんて考えていました」

「そう、今ごろの季節です。私は会社で倒れたのです。心臓の周りで何か破裂したのです。すぐ救急車で運ばれ、そして専門の病院が近かったおかげで、今ここにいるのですが、たぶん一度死んだんだと思います。まあ、心臓は止まりましたが、死んではいなかった、といってもいいかな」

 

 長老はここで一度顔をあげた。今まで自分の手を見ながら話していたけど、聞き取りにくいことは全然なかった。みんな飲みものとか手にしてたけど、しんとした感じだった。反対に遠いところで騒ぎ声が起こっていた。みんなが聞いているのを確認したみたいな感じで、長老はまた話し始めた。


「不思議な体験でした。記憶の中で、しばらく眠っていたと思います。それがどのくらいの時間なのかは全然見当がつきません。暗い中で目を覚ましました。幽体離脱という言葉があると思いますが、身体から魂といっていいのか、意識が離れていき、自分の姿を上の方から見つめているものです。よく聞くので自分の状態がそうであるのじゃないかと思いました。しかし、そんな感じではありません。ただ、痛みとか身体が普通感じる皮膚の意識がありません。暗くて目は見えませんが、しっかり目を開けている状態、もちろん筋肉の意識はありません。音だけは聞こえます。やはり身体からは分離しているような、等身大だけど、身体が透けているような感じです。自分の意思で動くことはできません」

「しばらくそうしていました。起きていましたが寝ているような状態です。次に覚醒したときは、光の中を飛んでいました。羽のように、重さは感じませんが、空中を漂っていました。風ではなく磁石で操られているような気がしました。明るい光の中にきれいな色の花が咲き乱れていました。大きな樹が見えます。なんじゃもんじゃの木、広げた枝の中へ吸い込まれました。そのとき、ひんやりとした気を感じました。前では光が乱舞しています。少し暗くなった木の内部で私は自分が木に同化したのを感じました。全部ではないが、私は木でした、木の一部でした。大地とつながった自分を意識しました。どのくらい時間が経ったのでしょうか、私は自分で目を開けました。自分が自分の身体とともにありました、ひどく幸せな気分でした。

これが私の臨死体験です」


 長老は話をひとまず引き取って、おいしそうにビールを飲んだ。みんなも、なんだかお互いの顔を眺めて飲み物に手を出した。野球部も神妙にしている。まあ、ここでこちょこちょ、やってたら気がおかしい。

 会長がやはりみんなの顔を見まわしてから、

「貴重なお話ありがとうございます。私が一年の時はもう木村さんは学校にいらっしゃらないでしたし、戻られてからも詳しい経緯はお聞きしませんでしたから、まったくそのような体験をなされたとは知りませんでした。少し質問をさせてもらっていいですか」

 長老はグラスを置いて手を広げた。

「木と一体化したというのが、ひどく特徴的であると思われるのですが、それについてはどんな感想を持たれていますか」

「そうですね、確かに他の人の体験にはあまり出てこないですね。木自体はよく登場しますけれどね。それは後で調べていて気付きました。ただその時はそれが特別だとは意識していませんでしたが」

「そうでしょうね、聞き方がわるかったですね。それでは角度を変えて、光と言うのはまぶしいものなのですか」

「暗がりで光をあてられたら眩しくて目があけてられませんが、もっと全体に光が渡っている感じですね。空全体が光っているというのでしょうか、地上からも光が反射して、とにかく明るいのですね。だから光というより明るさと言っていいと思います」

「なるほど、暖かさとか、涼しさのようなものは感じられるのですか」

「意識しませんでした。木の中に入った時はひんやりとした気を感じました。だからその前は暖かったんだろうと、類推はできますが」

「わかりました、私からは以上です」

 会長は、腰を下ろした。長老は当然座ったままだった。

 

「身体の具合はどうなんですか」

 と、こけしが訊いた。

「目が見えるようになって、びっくりしたよ。ひどく身体がやせてしまったし、髪は真っ白になっていた。肌はぱさぱさ、血の気が通ってないようだった。大手術だったらしい。腹には縦に切開の跡がある。でも、一命を取り留めて、二月もしたら元に戻ったよ、身体的にはね、ただ頭の方がうまく適応できないんだ。一年ぐらいは正常ではなかったね。そのとき田舎に帰るよう説得されたけど、わがままいって東京に残らせてもらった。通院しなければいけなかったのもあるのだけれど、何とか自分で片をつけなくてはいけないというような気がしていたのだ」

「どんな状態なんです」

「一言でいえばショック反応だね。

 急に自分が倒れるのではないかという恐怖が常に頭の片隅にある。気が付くと、動作が止まっているのだね。考えているわけではないのだけれど、意識が飛んで茫然としていることが多い」

「臨死体験の影響はありましたか」

「それについて考えるようにはなったけれど、直接影響されたようなことはないような気がする。ただ、霊感というのか感受性は鋭くなったね。まったくの不信心で霊魂の存在なども否定していたけれど、いまでは存在してもいいのではないかと考えるようになった。それで守屋さんとも話があうわけだ」

「木村さんの体験は肉体を離れて霊魂になった体験と捉えていいんですか」

 こけしはかなり突っ込んできてる。

「そこがね、気分的にはそうです、と断定したいのだけど、厳密に言うとどうだろう、と考えるね。意識を主にすれば、仮死の状態になってまだ意識があるとすればそれは霊魂であるといえるのだけど、夢を見ていたのだ強弁されれば、夢ではないがそれに近いものかな、と認めなくてはならない。これは、カウンセリングで何回も医者と話したことです。自分が考えやすいように理解しろというのが結論なのですよ。それで私の結論は霊は存在するです。その方が自分で楽なのですよ」

「そうですか、わかりました。もっと強い主張かと思いましたが」

 こけしはちょっと、がっかりした感じで口を噤んだ。

「でも、がちがちの唯物論者である私に、そう思わせるだけの体験であったことは間違いありません」

 長老はまわりを見回し、誰も何も言わないのでグラスにビールを注いだ。長老は瓶ビール派だ。みんなジョッキの生を好んでるけど。ぼくは今日は初めからサワーにした。

 

「ちょっといいですか」

 と、ぼくは手を挙げてしまった。長老はこちらを向いた。少し恥ずかしい。

「音が聞こえていた、と言っていましたがどんな音が聞こえていましたか」

「私の場合それはブーンというような、何かが振動しているような音だね。気圧が変わったりすると耳の奥で何かが聞こえてくる、あれと同じ感じだよ」

「たとえば、人の話声とか、物音はするのですか」

「キーンというような不快な耳鳴りとは違うのだよ。たまたま音がしなかっただけで、音源があれば、聞こえたような気がする。シーンとしている感じではなく生活音とは違うのだけど、そのような通常な感じかな」

「かさかさ、というように枯葉がこすれるような音に似ていますか」

「それとは違うが、そのようなという意味ではイエスだ」

「両耳から聞こえるのですよね」

「イエス」

「ありがとうございます。自分にも音の体験があったものですから聞きました。あ、それに瓶ビ-ルには何かこだわりがあるんですか」

 長老は片手を振って、

「習慣だよ、銘柄も決まっている。それがうまいと思うのさ」

 

 ぼくが話し終えたら自然と雑談が始った。ぼくが鐘を鳴らしたみたいだった。

 食べて飲んで喋った。あっという間に時間が経った。


 会計を済ませてみんなで外に出た。どうしようかな、そういう意味ではずっと考えていた。話の輪の中で高校生とも二、三言葉は交わしたけど、どうしようかな。どうする、って本当は聞きたいんだけど、それではだめなんだ。みんなに知られないように、ということがプレッシャーになっている。でもそれは、ぼくのためではなく彼女のためなんだ。わかった、どうしてこんな簡単なことに気づかなかったんだろう。

 野球部とか飲み足りないみたいで、新宿のなじみの店行くけど、みたいに誘われたけど今日はパス。長老と海保が付いて行った。改札で分かれて、徒歩のぼくは信号渡ったところで電話した。電車乗る前に捕まえなくちゃ。

 呼び出しがかなり続いて、高校生がでた。

「あ、篠崎ですけど」

「ちょっと待って」

 何か誰かと話しているのかな。

「ああ、ごめん。行っちゃたからどうするのかと思った」

「あ、そうか、電話するつもりだったから」

 みんな電車乗ってしまったから、駅まで来て、ということになってぼくは戻った。まだ八時を少し過ぎたところだった。何もないんだけど密会って感じだね。

 

 駅前に出てきていた彼女は、ちょっと不安げだった。タイトのスカートに濃い色のアッパーだから、いかにも女子大生と言う服装だった。

 気づいて二人、手を上げた。

「ごめん、勝手わからなくて」

 

 近くのケーキ屋の奥が落ち着いた喫茶室になっているので、そこへ行くことにした。気まずくはないんだけど、オーダーしたあと、しばし沈黙。

 ぼくは、なんだか緊張して落ち着かない。あせってはいけない、と言い聞かせる。

 かなり沈黙に対する忍耐心があるから、そのこと自体は苦にならない。

「木村さん。大変なことあったんだね」

 高校生は何気なく話し始めた。

「それに比べれば、私の抱えてる問題なんか大したことないよね」

 え、高校生って下の名前聞いたことあったっけ。

 わたしは篠崎浩樹、十九歳、あなたのお名前は。

 なんかバカなこと考えてる。

 高校生はちょっと上目づかいにぼくを見た。

 えーえっ。ぼくは高校生のこと何も知らない。

 そのミカンの房のような目と、桃の花色の唇と、小ぶりの顔に服から出ているすんなり伸びた指と脚以外は。

 注文の飲みものきたので、その間に体勢立て直さなくちゃ。ぼくはコーヒー、彼女は紅茶頼んでいた。

「そのせいで引っ越したわけ」

 ぼくはコーヒーカップ持ち上げながら訊いた。だいたいどたばた喜劇だと、ここでカップひっくり返すんだよね、と、ちらっと思った。

「そうなの、事情があってね。まだみんなには言いたくないの。だから篠崎君も黙っててほしいの、隠しているわけじゃないのよ、時期が来れば言うし、まだはっきりしてないこともあるから」

「わかった、それは大丈夫だよ。ぼく、余計なこと言わないから」

「この間はびっくりした。篠崎君がバイトしてるのは聞いてたけど、

 まさかあの本屋でとはね」

「家近いの」

「そう、明治通り越えて十分ぐらいかな」

「偶然だよね」

「そうだね」

 照明そんなに明るくなくて豆ランプで明りとってるから、かなりいい雰囲気。遠くから見れば、恋人同士に見えるかもしれない。酔ってはいないけど、リラックスしていい気分だ。でも、高校生は問題を抱えてる。

 

「篠崎君ておもしろいよね。私のこと無視するでしょ」

「えっ、そんなことないよ」

 興味がありすぎるのを、抑えているだけなんだ。それに、たとえば高校生に鼻であしらわれたら、耐えられそうにない。だから、傷つかないようにしてるだけだ。

「ちょっとシャイなだけさ」

 カッコつけすぎたかな、ついでだ。

「きみって、すごくきれいだから、近づきにくいんだよね」

 正直な感想ではあるんだけど、浮いてるかな。

「損だよね、そういう子って。私も自分で意識しちゃう。あ、ごめん。そういう意味じゃないんだよ。自惚れてるわけじゃない。そういう風に見られてたら、やだなって話」

 難しいんだろうな、器量の悪い子はそのことで悩み、良い子はそのことで疎外される。それを武器にしたらいいのだろうけど、性格のいい子はそれが負担だ。ぼくだって、彼女の身体への興味が第一なんだから。そんなこと否定できない。でも、そのことを告げたら彼女は自分を見誤ってる、と感じるのだろう。まあ、告げる必要はないんだけど。ぼくは、彼女と二人でいるだけで幸せな気分だった。

 

 それからちょっと空を見上げて、彼女は話はじめた。

「父と別居したの、それで母と私でそこへ引っ越してきたというわけ。私は父親っ子だったけど、母を見捨てることは出来なかったの。どちらが悪いということではないのよ。離婚なんてしない方がいいけど、お互いの事情というのがあるのね。母はすぐ働き始めたわ。私には父親のところに残るという選択肢があったけど、そのほうが楽よ、と勧めてくれる親類もいたけど、母がかわいそうに思えたの、同性ということがあるわね。父を嫌ってた兄が残ってるのは皮肉だけど、近々結婚して家を出るというから。みんな取りあえずなのよ。意志の固いのは母ね、限界だったらしいの。父の女性関係の話なんか興味もないし、聞きたくもないけど、だいぶ悩んだ末の結論だからといってね」

 彼女は一気というほどではないけど、ぼくが口を挟む間もなく話していた。ぼくに意見というものなんか、どちらにしてもなかったけど。


「そのことはもういいの。どうも私たちが大きくなるまで育ててくれてありがとう、というほかないのよ。父は寂しくなるかも、でもそれは父が自分で考えることだわ。私は自分をしっかり持って自分の道を行くだけなんだわ」

 たぶん彼女は自分の考えを誰かに話したいんだ。それが、ぼくであることはすごくうれしいことだった。なんで、ぼくって気もしなくはなかったけど、ちょっと誤解しそう。とりあえず彼女も辛かったんだな、ということはよくわかった。そして、これからもしばらくこの状態が続くんだろう。長老が一年もさまよっていたショックとは程度がちがうけど、高校生もひどいショックを受けているということだ。

 

「ぼくもね、二月に母を亡くしたからその感じはいまも残っているんだ。自分がしっかりしなくてはいけないんだってね。逝ってしまった人のことをいつも感じていることは、その人にとっても本意ではない気がしたんだ。ちょっと違うかもしれないけど」

 彼女を慰めてあげたい気がした。

「そうだったの、わたしには考えられないけど、それは気を落とすわよね」

 しばらく二人黙った。

「ぼくでよかったら、話してよ。また会ってくれる」

「いいわよ、連絡してね」

「わかった、遅くなるから行こうか。送って行くよ」

「ありがとう、でも大丈夫よ」

「全然、帰りは歩いてくるから」

 あんまり関係なかったかな、ぼくはうきうきとしていた。冗談でも言いたい感じなんだ。

「走って帰るかもしれないな」

 彼女は微妙に笑った。あんまりおもしろくないジョークだな。

 

 それで二人で並んで駅まで行った。通勤や通学に電車をつかっている人は慣れているんだろうけど、ぼくはこの騒々しさや、慌ただしさが、どこか別離を想像させて淋しく感じられるのだ。別れを押し殺して、無理に、はしゃいでいるような気がするんだ。さらに言えば、雑踏の中の孤独とでもいえるのだろう。

 でも今、横には高校生がいる。ラッシュの時間帯も終えたから、それほどでもないが、やはり酔客が夢想の中に漂っている。彼女を守るように隣に立った。彼女の顔がぼくの肩の方に近づいたが、何も言わずに、視線もからまなかった。そのまま黙ってこの時間をやり過ごしていた。

 駅について乗客は、どたどたと連れ立つように降りた。流れに乗って行かなければならない。ぼくはSPのように抜かりなく動いた。ターミナル駅はこの時間でも多くの人であふれていたけど、心もち家路に急ぐ感じが出ていた。

 せかせかと歩く人たちを縫って、ぼくたちは東口の方に歩いて行った。

 しばらく行くと、確かに彼女がとる進路の先に、ぼくが働いている本屋が見える。彼女がそこに寄る理由がわかった気がした。その前の路地を左に折れ、狭くなった道を進んでいくと、

「あそこのマンションなの」と、彼女が指差した先にかなり高層のといっても、ぼくのアパートに比べればという意味だけど、建物が見えた。前まで行って、

「じゃ、」 と、ぼくは手をあげて、引き返そうとした。

「あ、」 と言って、彼女はバッグから手帳を取り出して何か書いてぼくに渡した。

「メルアド。電話よりいいかも」

「わかった、連絡するよ」

 紙をお互い持ったままだった。それで何かが通じているような気がした。

「さよなら」と、高校生は静かに言って、踵を返した。

「さよなら」とぼくは少し元気を出して応えた。

 入り口のドアを開けるとき、彼女は振り向いて、ゆっくり手を振った。

 

 これが、ぼくと彼女の最初のデートだった。

 もしそう呼べるならだけど。それから、ぼくは朝と夜に一度、はるかにメールすることになった。そう、高校生は斎藤はるか、十八歳。

「おはよう、」

「元気かい、」

 というような短いのが多いけど、夜時間があるときなんか、ラブレターまがいの長い文章を送ったりした。

「こんばんは。」

「なにしてるの、」

「おやすみ」

 そんなメールが戻ってきた。

 彼女ときどき買い物には来るけど、ぼくの帰りが遅くなるので、終わってから会うことはなかった。バイトの休みのときとか、前行った喫茶室で、放課後お茶したりした。みんなに隠してるわけではなかったけど、二人だけで会っていた。海保に知られるといやだな、とは思っていた。そのことについては、彼女は何とも思ってなくて、関係ないよ、という。付き合ってたわけでもなく、超研の仲間ってだけだし、とかいうけど、そうするとぼくは会の仲間ってだけではないんだな、と思ったりする。

 近くで見るとよけい肌の表面が陶器のように白い。それで、つやがあって弾力がある。つい手を出してしまいそうになる。赤ん坊のほっぺ突つくみたいに。彼女は授業には、よく出てるみたいだ。でも女の子とは、いまいち波長があわない、付属校からあがってきた人たちとは距離があると言っていた。

 会長と高橋さんだんだん仲良くなってくね、守屋さんて強いよね、とか高校生はぽつりぽつり話した。

 はなやかな印象を外見から受けるけど、なんかふつうの女の子なんだな、と思う。よくはわからないんだけど、わがままで、きまぐれで、感情的、すぐ怒るって感じするけど、彼女はどちらかという温和な印象がする。

 でも、不思議少女であることは間違いないんだ。占いとか好きだし、高尾山でもおみくじ楽しそうに引いてたの覚えている。それに超現象系の雑誌定期購読してるし。

 ぼくは実家の信州の町のこととか、中世のお城興味あるんだ、とかの話題。要するに、よくあるそんな事を話してたんだ。あの音楽いいよね、とかそんな本読んでるんだ、とかあの俳優きらいとか、だんだんお互いの趣味がわかってきて、この部分は合ってるなとか、へー、そうなんだみたいなことを理解していった。

 彼女は紅茶党で、何かあまりわからない銘柄を頼んだりする。さいしょ香りを楽しんでからスプ-ン一杯の砂糖。

 とても優雅に、そこだけはティータイムのレディーみたいに。ぼくはコーヒーオンリー。銘柄とかけっこう試したけど、けっきょくアメリカンタイプのをマグカップで飲みたいタイプかな。砂糖もミルクもその時は入れない。でも、甘ったるい缶コーヒーも嫌いじゃない。

 実を言えば、この喫茶室は利用したことがなかったんだ。男が一人で入るところではないし、男どうしでも浮く感じかな。なにしろ、ケーキ屋なんだから。色とりどりに並んだケーキの大きなショーケースの横奥に喫茶室があった。初めての人は戸惑っても、中に入っていまえば、広い空間が落ち着いた照明に彩られて目に優しい。夜しか来ていないけど、男女のペアが多い。声だかに話す人はいなくて、静かになにやら語らっている。まあ、ぼくたちもその仲間ではあるんだけど。

 九時過ぎまで、すぐ時間は来てしまう。ぼくは下を向いたり、視線を逸らしたり、結局彼女の目を見ることになって、そのままじっと見てるのに気づいて驚いたりする。彼女はどちらかといえば、話すときは相手の目を見て、みたいな感じでいるからなんだけど。目が輝いて相槌を求めたり、口をすぼめて呆れて見せたり、かなり表情たっぷりに話した。あくまでもぼくに比較して。

 それから、やはり彼女を送っていった。別れるときハグしたくなるんだけど、ちょっとどこかに触れるだけにする。彼女も別れがたそうに見つめてから、手を振った。それからぼくはちょっと急ぎ足で、自分の部屋に戻って、彼女に帰宅の報告とお休みのメールを送る。

「おやすみなさい、きょう楽しかった!」

 返事が来て、ぼくは寝る準備を始める。

 

 朝は目が覚めればすぐに起きだす。布団の中でぐずぐずはしていない、特に暖かい時は。勉強するとしたらこの時間帯かな。コーヒー飲みながら単語おぼえたり、動詞の活用、記憶したりする。時には書き物をする。内容はなんでも、雑感ってやつかな。演習のレポートも書く。二、三時間してから学校へ行く。徒歩十分、散歩にしても短い。

 ぶらぶら歩いてきて、そのまま部室に行く。鍵は開いていて、いつものように長老がいた。窓を開けて換気する。それから読みかけの本を取り出す。最近メモをとることにした。

 気が付けば時間が過ぎ、長老が何か言った。了解するまで間があった。――食事に行こうか。

 長老と行くのは、はるかと行く喫茶室の、その先のゲーセンの階上。まったくここは女子がいない。いたずらに時間を潰している人、半分寝てる人、照明も暗くて神経を休めるにはいいのかも。BGMもかってるんだか掛ってないのかわからない。長老はそこが好きみたいだ。駅前で立ち食いのそばを食べてからここへきた。決まった時間に決まったことをして、極力変化を感じさせない。それが長老のモットーだった。

 なぜぼくを誘うんだろうか。長老は一人で今までしていたはずなんだ。まあ、海保が言うように、ぼくはあまり長老の邪魔にならないのかもしれない。却って気を遣ってるとか、海保は言ったけど、それは考えられないな。誰にでも気をつかうことはない、と断言できる。

 海保は薄々ぼくとはるかが会っているのに気が付いたみたいだ。そうだよね、はるかの後ろ、少し前までくっついていたんだもの。微妙に避けているような、会っても何も言わないんだけど雰囲気的に感じる。ぼくから説明するべきなのかな。

 「きょう田舎へ帰る」

 と、長老が急に言ったのはそこのエレベーターを降りて、ゲーム機の間を抜けている時だった。

「みんなに会うと、悲しかったりするからそのまま行くよ。帰ったと伝えておいてくれ」

 ちょっと振り返ってぼくが聴こえたのか確認するようにして、そのまま先に立って歩いていった。

 ぼくは驚いて立ち止まりそうになったけど、遅れないように追いかけて、長老に並ぶと

「それでいいんですか」と、訊いた。

 返事はわかっているけど、聞いとかなくてはいけないことがある。

「ああ、頼むよ」 といって、長老はそのまま駅の方に歩いて行った。

 ぼくは迷子にでもなったように、途方に暮れて長老を見送っていた。


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