第五章 高尾山
第五章 高尾山
新宿駅東口、交番横、八時集合、八時半出発。
学生は時間を守らない。守らなくてはいけない理由が良く分かっていないからだ。このスケジュールを見て、八時には誰も来ない。ふつう、八時半ごろから人が集まり、人がそろうのが九時、出発は九時二十分と読まないと、ツアコンはできない。(ツアコンになる必要はないけど)
べつに一刻を争うわけでもないし、遅れたから不都合であることもない。だいたい用のある人はいないのだから。時間を押して行けばいい話だし、極端にいえば次の日になったっていい。さすが、女子はそうもいかないんだろうけれど…
でも、ぼくは八時には新宿に着いていた。(これって、ふつうの所ではすごくふつうのことなんだけど)交番と集合場所と、誰もいないのを確認し付近を歩いた。まあ、新宿が珍しいということもあったけれど、時間つぶしかな。
集合場所で待っているのは、ぼくの美学には反した。
でも十五分ぐらいして戻った。卑弥呼とこけしが来ていて、こけしはご立腹だった。あいさつしたけど、口をちょっとすぼめただけだった。八時集合なのに誰も来ないのどういうことなの、って顔してた。何も言わなかったけど、いらいらモードがめらめらと燃えている。
卑弥呼は相変わらずだ。ぼくが来たら花壇の淵に腰かけた。ぼくも隣に座った。
「天気、よさそうですね」
「そうね、よかった」
短く会話して前を見ていた。どちらかといえば、太めのジーンズに薄い色のシャツ、暗めのブルゾン。いつも同じ印象だよね、卑弥呼は。今日は底の厚い靴はいてる。こけしはまず、登山帽が似合ってる。ベージュ系で統一して、相変わらず、頬が赤い。登山用のリュックを背負ってれば、かなりの山に登れそうだ。
会長が来て、こけしは落ち着いたみたいだ。ようやく腰を下ろした。高校生と女の人、(菅原さんとわかった)が相次いでやってきた。
「ごめんなさい」
と、高校生はみんなに謝ってた。
「一本乗り遅れちゃって」
え、えっ、その格好、っていうほどぼくには強烈だった。すごく短いひらひらのスカート、ひだ襞入ってるし。下には黒いタイツ、ちょっと厚めの。なんとか、って云うんだよね、忘れちゃたけど。
脚きれいなんだな、膝まっすぐだし。青い薄手のトレーナーに、靴はグレーのズック、リボンついてる。
なんだか、ため息でる。時計を見たら九時少し前だった。ゆっくりと、海保登場。どっかで見てたようにだ。
(絶対先に来ていた)
一番遅れてきたのは野球部の二人だ。お互い突っつきあいながら。
「そろったら行こうよ」
と、ファーストが言った。
彼は、たぶん昨日の服をそのまま着ているだろう。細めのパンツにカーキ色のトレンチコート、しょぼくれた探偵みたいだ。通勤用の革靴はいてるし。その実、外見と中身が全然違うんだよね。セカンドは作業着タイプ。いつもジャンパー着てる。
会長が、本当のツアーコンダクターみたいに行程を説明して、みんなを先導していく。私鉄で行く方が早くて、安いらしい。新宿の地下街を歩く。一人では迷うかも。シルバーのウインドブレーカーにブーツタイプのトレッキングシューズ。やっぱり会長は決まってる。
休日の午前中の構内は空いている方なんだろうか、電車がちょうど発車するところで、慌ててみんな乗りこんだ。そのままベルが鳴って出発した。
固まるでもなく、離れるでもなく、ばらばらっと広がって後部の車両に収まった。電車の中で、真剣な話ができるのは恋人同士ぐらいのものだ。当たり障りのない、聞こえても聞こえなくてもいい話を野球部がしていた。
まだみんなエンジンがかからない感じだった。騒音の中、大声で話すエネルギーが足りてないのだ。どこかまだ眠ってる。浮きうきはしているんだが、セーブしてる感じかな。海保はちゃっかり高校生の隣に陣取り、何か話しかけていた。
ぼくは吊革にもたれて、目をつぶった。
「きみって、足速いでしょう?」
ん。ぼくに訊いてるんだよね。
目を開けて振り向くと女の人がいた。
「はい、でも県大会では予選までですよ」
確かに遅くはないけど、選手じゃない。
「そう、もうやってないんだ」
「もともと、陸上やってたわけじゃないし…」
「まあ、そんな気はしたけど」
えっ、どういう意味?
「菅原さんはどうなんですか?」
とりあえず、振ってみる。
「わたしは現役、でも大会にでるとかじゃないけど。ジョガーっていうやつ」
「あー、そうか。ぼくは歩くだけですよ」
「じゃ、ちょうどいいじゃん、ピクニック」
目いっぱい明るい笑顔だな。たぶんからかわれたみたいだけど、気にしなかった。ぼくの今履いているウォーキングシューズは、正規品で、清水の舞台から飛び降りるつもりで購入したんだ。(表現、古いなあ)
高校生のときは、そのメーカーの廉価品だけど、シューズを履いていた。少しこだわりがある。
ジョガーの人と同じマークだ。気づいていたのかな。
でも山道では、ジョグシューズは底が柔らかすぎる。
ぼんやりと、ぼくはそんなこと考えていたけど、電車は穏やかな日差しの中、快調に進んでいった。いく駅かに停まり、何度か人が乗り降りして、一時間もたたないうちに高尾山口という駅に着いた。思ったより早く到着した気がした。遠くに感じていただけなのだろうか。
これから歩きだすという。リフトやケーブルカーはあるらしいが、若者は経費節減、体力勝負。一時間半で頂上に到着らしい。そんだけ、と思うか、そんな、と思うかはその人次第。
覚悟を決めて歩きだした。ただ、ぼくの考えは狂っていた。まず、山道は全部舗装されていた。それに、かなりの人だ。原宿と変わらない。
それでも、坂道は坂道だった。遅れる人が出てきたので20分くらいして休憩。少し汗も出てきたが、停まると涼しい。道を外れれば山は深い。青葉が出て色鮮やかだった。当然二人組は遅れている。洩れ聞けば、きのうは飲みすぎたようだ。まあ、急ぐ気もないらしい。それは、高校生も同じらしかった。
これはペースの問題なんだな。別にぼくらは急いでいるわけではない。それについて行こうかな、と思ってるのが卑弥呼とこけし。会長が先導で、ぼくとジョガーが並んでいる。海保は高校生に付いている。それはそれで役には立ってる。しんがりは重要な任務だ。野球部は放っておいてもいい。いったい、何が目的なのだろう。二人で映画でも観ていればいいじゃないか。そうも云いたくなる、彼らを見てると。
でも、ぼくは彼らに敵対的であったわけじゃない。それは少し気に障るけど、直接不満を言ったり非難したことなんかない。実際、話す機会もあんまりないんだ。だから遠目で、彼らを見ていたのに過ぎないんだ。
会長が野球部に一緒に歩くよう勧めた。それで、こけしと卑弥呼が先頭になった。ジョガーは駅の所で待ってるから、と先に行ってしまった。そこまで二、三十分らしい。ぼくは、一瞬どうしようかと思ったけど、卑弥呼と並んで行くことにした。ペースはかなりゆっくりになって、ほとんど一団になっていた。
「あの人変わってるわよね」
こけしが、バタバタと歩きながら云った。ジョガーのことだな。彼女は七分の細いパンツにTシャツ、ジャケットという格好で、飛ぶように行ってしまった。
「いつも走ってる」
うーん、なんとも言いようがない。ぼくにあえて答は求めていないようだった。卑弥呼はこの手の話に口を挟まない。なにか云われれば、あのあいまいな笑みを浮かべるだけだ。きっと、こけしも、ただ言ってみただけなんだ
「確かに」
と云ったのはセカンドだった。みんな一斉に振り向いた。彼は髭も濃いけど、声も低くしぶい。
「いつも駈けてる」
ファーストは会長と並んでる。その前を高校生と海保が歩いていた。駅までの道はかなり急だった。息が上がりそうになりながらも、やり過ごすと、ほとんど平らな道になった。これが、リフトやケーブルカーの料金なのだな、と妙に納得した。後で聞いたらケーブルの勾配は日本一であるらしい。いつの間にか先頭に立っていて、遠くで手を振っているジョガーが見えた。
近寄りながら、ひとり言のように呟いた。
「けっこう、きつかった」
膝を伸ばしながら歩いていた。ジョガ―はぼくの言葉には反応しないで、遠くを見ていた。展望台の前だった。
ようやく落ち着いたらしく、息を整えながらみんな歩いてきて、そこに集まった。見渡せば、山々に町のパノラマが広がっている。
「上に上がるとレストランがあって、その無料展望台がスポットなんだ」
会長がみんなを見回して言った。
「夜景が素晴らしいんだけど、みな迷うらしいよ」
なんかよく分からないけど、会長に従って歩き始めた。確かにここに夜来ようとしたら、一度にはこれない気がした。迷う、というのはわかる気がする。
三階になるのだろうか、すごく広いスペースが展望台になっていた。あんだけ人がいたのに、ここにはまばらな人しかいない。絶景というのだろうか、夜景ぜったい素晴らしいだろうなと、思う。
彼女と二人でこんな景色を眺められたら、なんて素敵なんだろう。きっと、会長はその経験があるんだな。会長の彼女は、いなくなったんだよね。どこかへ行ってしまったのか、亡くなったのかわからないけど。ええっ、なんて言っていたのかな。町で彼女に似た人を見かけるだったっけ。
ピンと来たんだよね、会長は恋人を失ったって。それが、ひどい痛手になっている。
「彼女と来たかったなー、みたいに考えてるんでしょ」
いつの間にか隣に来て、ジョガーがからかった。
「いいな、とは思うけど彼女いませんし」
「やっぱりね。そんな感じするよ」
へー、そうですか。ぼくは、無視して周りを見渡した。卑弥呼がぽつんと、一人だったので寄って行った。
「会長って、彼女いないんですか」
卑弥呼はぼくを見て、にこっと笑った。
まさか、それはないよね。わたし、私みたいな感じだったから、びっくりした。ぼくは、彼女の眼が離せなくなっていた。目を少し押し開いて、無言で問いかける。
それから、目を流して会長を見るふりをする。パッと目を戻して、彼女の目を見た。それから、うん、と口を引き締める。彼女は、目蓋を一度ゆっくり閉じて、目を逸らした。
それって、はい、でも今は話したくない、って云う意味なのか。見当違いだったりするからなー。
そのまま、彼女の見ている方を眺めた。あれって、新宿。砂浜にうち上げられた砕けた貝殻のように、青い空の下に、広がっている高層ビル群。小さいけど、確固として妙に現実感がある。ちょっと卑弥呼のこと忘れて見入ってしまった。
「やっぱり、すごいね。夜、来たらよけい感動するだろうな」
卑弥呼の方に声をかけてみた。
そのとき、「行くよー」って海保が呼んだ。
海保の手提げの中には食料と飲み物が入ってるはずだ。山頂に着いたら宴会かな。会長もなにか下げてるし、いままで気付かなかったけど、そんな気がしてきた。
ファーストはペットボトルの水を飲んでる。少しお腹もすいてきたな。出かける前に、こけしが水筒の麦茶をくれた。
しゅっぱーつ。
これからが観光のメイン、いままでは眠気を覚ます準備運動。門をくぐれば、高尾山薬王院の参道になる。赤い燈篭がずっと続いている。両側は新緑の木々が並んでいた。たぶんその奥は深い森になっているのだろう。
緩やかな坂をだらだらと上りきると、さっきの門とは違ってどっしりとした門が現れた。みな一団となって、わいわい云いながら進んでいく。
大きな声を出しているのはファーストだった。出だしの坂のときは、青い顔をしていたが、今はだいぶ元気が出てきたらしい。きのうの酒の話をしているようだ。みんな大きな声で笑った。
ぼくは先頭になって、ジョガーと並んでいる。彼女はあっちへ行ったりこっちへ来たり、たしかに飛び回っている。道は広いので、ぼくらも広がっていた。門のところは階段になっていて、行き違う人がいる。外国の人も多いな。 日本の山は神聖なものと思われていて、そのものを信仰したり、そこに籠って修行をすることによって、霊験を得る修験道が仏教と結びついて発展している。もちろん高尾山もそのうちの一つで、本堂には薬師如来と飯縄大権現が安置されている。まさに神仏混淆、このほうが落ち着く気もする。高尾山薬王院は成田山新勝寺、川崎大師平間寺と並んで真言宗智山派の三大本山になっている。
でも、この「いづな」権現はなかなかの曲者だ。
イイヅナはキツネの一種。北国にいて、全長14~26cm、尾長1.6~3.5cm、体重6~25g。雌は雄よりやや小さい。夏は背側が茶色で腹側が白色。冬は全身純白になる。ご多分にもれず絶滅危惧種。
もちろん、ぼくは見たことはない。
ただ聞いたことはある。「いづな使い」こっちでいえばキツネつきかな。でも、いづなは家に住みつくらしい。別名は管狐。関東にはオサキがいるのでこちらには少ない。西日本には犬神がいるし、住み分けをしているようだね。
霊能者や信州の飯綱使いなどが持っていて、飯綱を操作して、予言などを行うのと同時に、依頼者の憎むべき人間に飯綱を飛ばして憑け、病気にさせるなどの悪いこともするらしい。昔は管狐を持ってるとされる家は「くだもち」「クダ使い」とか呼ばれて忌み嫌われた。管狐はオサキが勝手に行動するのに対し、主人の「使う」という意図のもとに管狐が動くことが特徴。管狐は主人の意思に応じて他家から品物を調達する。味噌が好きで、これに憑かれると人は味噌ばかり食べるようになり、病気の人は食欲が出て、憑かれると管狐の思いを話すようになる。管狐に竹管から出してほしいとせがまれて竹管から出すと、持ち主の近隣に、農作物を不作にする、病人を出す、機の調子を悪くするなどの悪事を働く。
また、天狗に使われていて、これを飼い慣らすことができれば、大金持ちになることができるといわれている。
さて、飯縄権現とは、信濃国上水内郡の飯縄山(飯綱山)に対する山岳信仰が発祥と考えられる神仏習合の神である。
多くの場合、白狐に乗った剣と索を持つ烏天狗形で表される。白狐には蛇が巻きつくことがある。一般に戦勝の神として信仰され、特に上杉謙信の兜の前立が飯縄権現像であるのは有名だ。
うーん、歴史があるな。
ぼくは、烏天狗を睨みながら考えていた。
競走してたわけじゃないけど、ジョッガーと先頭を歩いていて、気付いたらもうみんなは後ろの方になったので、待つことにした。それで、烏天狗とご対面。この権現堂は色鮮やかで、けっこう派手だよね。狛犬みたいに烏天狗は腰に手をやって辺りを睥睨している。
ぼくも、腕を組んでその前に立っていた。むかし天狗ちょっと怖かったな。鼻でっかくて、尖っているし、団扇で飛ばされたり、子供はさらわれたりした。
ぼくの実家は長野だけど町だったし、家には仏壇も神棚もなかった。それは郊外の祖父母の家へ行けば、墓参りとか正月とか夏休みとかに、目にはするものだったけど。あんまり拝んだりしたことなかったな。
父親の兄が早く亡くなったということは聞いていた。その人はぼくに似ているらしくて、仏壇の中の写真は、ぼくが見ても似てるかなと思うけど、祖母はよくその話をした。
ぼくが東京へ行くんだと話したら、もちろん誰かから、前に聞いていたんだろうけど、少し涙目だったけど、神妙な顔をして、頑張るんだよ、と手を握ってくれた。
それで、田舎の辻には道祖神というのかな、いろんな石の神さまが祀られていた。そこはいつも誰かが掃除してるみたいで、きれいだったし、野花が飾られてたりした。由来とか由緒とか知らないけど、たぶん村の人を守っているんだと思う。
ようやく、みんなようやく到着。ちょっと休憩だね。あとも少しで頂上だから。顔が上気してる感じ。高校生は色白、赤ン坊みたいなほっぺだね。
あ、そうだ。
思い出したけど、卑弥呼と会長付き合ってるのかな。
こけしも知らないんだよね。感じでわかる。隠してるわけじゃないだろうから、そんなに進展してないんじゃないかな。
こうやって眺めてたら、気付かなかったけどみんなバッグ持ってんだね。野球部でもセカンドバッグみたいの持ってるし、会長はツアコンバッグかな、四角ながっちりしたやつ。海保はでかいスポーツ用。こけしは大きめなショルダー、女の人はポシェットみたいなやつ。
何も持ってないのぼくだけだ。通学するする時でも、
ぼくは書類袋みたいのに詰めて、最小限の荷物しか持っていかなかったし、今日も必要なものはパンツのポケットにみんな入れてきた。忘れるといけないからいつも数えるんだ。ハンカチ、携帯、財布、キーホルダー。基本四つで、今日はちっちゃなデジカメ。とりあえず、気にいった風景、撮っておこうかなって。
それを、海保に見つかって、記念写真、撮ってよってなった。嫌なんだよね。ぜったい誰か目つぶってたとか、横向いたとか、うまく写ってないとか言うし、そんな技術、自分にないし、あったとしてもそのためにはけっこう準備がいるんだよ。そんなにじっとしてるの絶対イヤなくせして、うまくできてないと文句いうんだよね。でもしょうがないから、天狗の前に並んでパチリ。
人の邪魔にならないように横からまた撮った。そしたらジョガーが撮ろうかって云うから、大丈夫、タイマーつけて三枚連射でパチリ。
これで駄目なら諦めてよ。
あとはワイワイ言いながら最後の坂を上って行った。奥の院はお不動さんなんだね。今いる伯母の家の近くにも大きなお不動がある。あんまり信心深くないんだけど、神社やお寺行くの好きなんだよね、姉に変な趣味とか云われるけど、今日みたいな感じさ、どっかの山行ったりして、樹があって、古い社や堂があればそれでいいんだ。教えとか、救いとか、ご利益なんかは、あんまり関心ないんだけど、それを信じてた人たちや寺社の栄枯盛衰というかな、歴史には興味があるんだ。
ま、たしかに漫画やゲームの影響もあるんだけど、歴史が好きになったから、単純にそれを専攻することにした。父親は何も言わなかったが、伯母の旦那によると、いま居候しているところの主人、かれは大手の建築会社の副部長で、何の部かは知らないけど、いつも高級そうなスーツを着て出社する。
伯母にそのことで、ぼくのことを、せいぜい小役人だな、って言ったんだって。超ショック。
見返してやろう、みたいな気はないけど、こけしが言った、ぼくちゃんと双璧のパンチだな。副部長が、どれだけのものか知らないし、小役人が悪いとも思わないけど、そういうことの基準があることも理解しておかなくてはいけないよね。まあ、これから誰かが嫌というほどわからしてくれるのかもしれないけど。
ところどころの案内板や、もらったパンフに書いてあったんだけど、江戸の市民にとってお参りは今でいう観光旅行なんだね。メッカの巡礼みたいに伊勢参りは特別な行事になる。それに富士山信仰と不動参り。倶梨伽羅紋々じゃないけど、絶大の人気があったね。江戸っ子の気性に合っていたのかな。
とうちゃーく。
最後の坂を登りきれば頂上だった。かなり広い、それに人一杯。ディズニーランドのショーの後みたいな感じかな。人はあっち行ったりこっち行ったり、その中でたくさんのベンチと、広場があって、そこにシートを敷いて宴会だ。
頂上ってあんまり見晴らしよくないんだよね。目線の所に樹があったりするんだ。まあ、みんなずるずると座って一休憩。座りながら荷物を開けて広げ始めた。
ビール、ビールとセカンドが言っている。野球部にはこの楽しみがあったね。
えっ、だれがクーラーボックス持っていたんだ。
冷えたビールが一ダースぐらい出てきた。それに紙パックの日本酒と焼酎。ジュースにお茶、氷。おつまみ、おにぎりに稲荷寿司。ここらへんはコンビニ寄ってたからね、だいたい想像はできた。
ビールは会長の秘密のバッグに入っていたらしい。簡易カップにそれぞれ注いで、かんぱーい。楽しくなるね、ウキウキしてくる。
みんな一息入れてわいわい話し始めた。ぼくはビールに混じってた缶酎ハイもらって飲んでた。だいたいいつも端っこ座るよね、それであんまり動かない。隣にジョガーが来てつまみとか取ってくれる。ちょっと届きにくくはあるんだけど、親切だな。なに飲んでんだろう。それになにか考え事してるみたい。ちょっと姉みたいな感じなんだよね。すぐからかうし、上から目線っていうの、そんなに不愉快じゃないけど。芯から嫌味じゃないの伝わるし、たぶん照れ屋なんだと思う。
考えると男女逆転じゃない、ぼくはそんなにヤワじゃないけどな。
「なんか、付いてる」
ジョガーが訝るように訊く。
うん、横顔見すぎてた。じっと見てたわけじゃないけど。
「いや」
洒落たことでも言い返そうとしたけど、口ごもってしまった。
「君のお母さん最近亡くなったでしょ」
何なに、そのこと誰にも言ってないよ。
「君の肩ごしに見えていたから」
え、えっ。どういうこと。
急に頭の奥でからんからん、と何かが鳴り出した。
まず、落ち着かなくてはいけないな。
ぼくはジョガーの顔をボーッと見ながら、ほとんど思考停止になったいた。
からん、からんと、ゆっくり、砂漠を渡る風のように、遠くの方で、なにか鳴っている。
「きみのこと、よろしくって言ってたよ」
これって、当たり前の展開なの。
「……」
「驚かした?」
ぼくは、正気に返ったみたいに手に持っていた缶を口に運んだ。なんだか今まで飲んでいた飲み物と違う味がする。ジョガーに気の利いたことなんか一生言えないような気がした。
「そんなタイプと違うよ」
ちょっと弱弱しく、ぼくは抗議した。母はぼくが小さい時は世話焼きぽかったかもしれないけど、中学に入ってからは、ぼくが避けていたというか、ほとんど会話らしいこともしないし、どうなってたんだろ。
照れみたいのもあるし、構わないで、みたいな感じかな。別にけんかしてるわけじゃないけど、疎遠というとおかしいし、同居している家族なんだから。いま考えれば、絶対自分の方が変なんだけど、当時はそれが当たり前のように思っていた。
母の方も、どう扱ったらいいかわからない、みたいな感じで、ときどき、あんたの家政婦じゃないんだから、みたいなことは言っていたけど。愛情の交換って、ひどく薄かったな。まあ、それは後悔してることもあるんだけど。
「親だもの…」
ジョガーは最後まで言わないで、ぼくの肩の上の方を見た。この子ってちょっと変だね。嫌いじゃないけど。
「母のこと知ってるの」
「ううん、途中からかなー、行っちゃたよ」
「そうか、ぼくには見えないけどね」
「私は、ちょっと目がいいんだ。アフリカの狩人みたいにね」
ああ、それで飛ぶように走っているのか。
音はすぐ止まった。
それから、ぼくは高校の文化祭のとき、クラスで新宗教の研究発表をした話をした。話題はなんでもよかったけど、ジョガーと話がしたかったんだ。彼女の目を見て、手を振ったり、頭を掻いたりして、ぼくは話し続けたんだ。すごく気持ちが良かったな。ジョガーも楽しんで、聞いていてくれたような気はしたんだ。
それは、ある宗教団体の青年部の幹部だという子が、石川君だけど、宗教について、特に新宗教をテーマにしようと提案したんだ。カルトに対する好奇心や懐疑やら、入り混じった関心を多くのものが持っていて、クラスでそれを取り上げることにした。日本の宗教の歴史の中で、新宗教を考えてみようと、青年部のいいなりにならないためにも、みんなかなり熱心に調べたり、質問に行ったりした。
神社系の信者数は9500万人になると届けられていた。これが日本で一番の宗教なんだろう。数字は正確さを欠くとしてもダントツの一位であることに間違いはない。日本全国に八万の神社がある。初めて知ったけどその頂点は伊勢の神宮であるそうだ。教科書でこの神宮は天皇家の神社と習った気がしたんだけど、変ったんだね。敗戦によって国家の宗教だったのが廃止されたんだよ。それでふつうの宗教法人、神社本庁になった。
ぼくなんか、この宗教が一番わかりにくい。天皇や国との関係もはっきりしないし、核持ち込みじゃないけど、秘密にしておこうみたいなことがありそうだし。一神教に対抗して日本の良さみたいな感じで、八百万の神を持ち上げるけど、明治以降、原理主義みたいな神道になって行ったんじゃなかったっけ。それをまた懐かしがってる人もいて、神の国みたいなことを言う政治家もいるんだ。
「それで、その石川君はどうしたの?」
そうか、青年部は影が薄くなっちゃって、大した指導力は発揮できなかったんだ。一応、宗教的関心を喚起したということで自己納得したのかもしれない。ごり押ししても無駄みたいな、判断力はあったから。浮いちゃうのもまずいしね。
そのあとは、柳沢君の独壇場だったな。
「かれは、剣道部の主将で、強面なんだけど教会の日曜学校へ行っていて、ボランティアでいろんな活動をしているんだ。結局、最後は彼の音頭でアフリカの子供に薬を、みたいなことになっっちゃたよ」
「チャリティーか」
「偽善のようても、抗えないものがあるよね」
「困ってる人、助けたい気持ち、みな持ってるから」
うーん、そこにも宗教の芽ってあるんだろうな。宗教って手あかにまみれちゃってて、純粋な気持ちが濁っちゃうんだよね。女の人に騙され続けて女性不信になるような感じ、経験ないけど。騙すほうも、騙される方も何か汚れているような感じだね。自分だけ、清純みたいな気はないけどさ。
ぼくは、ちょっと休憩で辺りを眺めていた。みんなリラックスして開放的になってる。お酒のせいもあるかもしれないけど、明るくて声も大きくなる。でも、天気のいい野外は空に響いていくだけだ。一団になって、声が大きいのはファーストだけど、車座っていうの輪になって座ってる。ぼくとジョガー、会長と卑弥呼が横にずれてる感じ。
卑弥呼、会長と話してるね。あんなにいつもは顔が輝いてないよ。いい表情だな。
セカンドが振り向いてジョガーに何か言ってる。
「あっち、行こう」
と、ジョガーが言って二人で輪に加わった。
セカンドとこけしの間はもともと開いていたので、その間へ収まった。高校生は長い脚をきれいに畳んで横座りしている。向かいのファーストの話を聞いている感じかな。海保は隣に陣取ってるけど、話してるのはこけしとだった。
横のグループから音楽が流れてきて、ひどい喧噪のなかにいるようになった。景気がいい感じではあるんだけど。ぼくは、フラフラ立ちあがって、靴を履いて歩きだした。確か来る途中にトイレ見た記憶があった。
女子の方はかなり並んでいた。土産物屋や食堂も何軒かあるから、山頂というよりは、町の中の公園と考えたらいいのだろうか。あとで、蕎麦でも食べようってファースト言っていたね。まだ日は高いけど、暮れるのはあっという間だから。
ここ来たことあるかもしれない。突然、そんな気がしてきた。もやもやとして、根拠はないんだけど、情報としても記憶に残っているわけではないけど、何かこの情景が、デジャヴュのように感じられる。
じっさい誰かと一緒に、当然家族と旅行にでも来たのだろうか。それなら姉や父に聞けばわかるかもしれない。
自分の写ったアルバムの風景としても記憶にはない。
まあ、確信はないけど、似たような景色もあるはずだし。それと間違えてるかもしれない。昇仙峡とか。あそこには二度目だったんだけど、思いだせなくて、姉に、ここに似たとこあったよね、みたいに聞いたら、前に一緒に来たじゃない、って云われてもピンとこなくて、なんかの拍子に記憶が甦ってきたんだ。馬車だったかな。それは絶対見た覚えがあった。
記憶なんてそんなもんだ。小さい時の記憶は思いださないと忘れちゃうんだ。何度か思い出し、そのたびに確認していくと、その記憶は定着する。たとえば、怖い思いをする。それは、ちょっと経っても覚えてるんだ。だからそれをまた確認する。ああ、怖かったな。でも、思い出すときに話を作っちゃうことがある。記憶が薄れちゃうから、その時感じたことを記憶に混ぜちゃうんだ。だから、事実と記憶とはだんだん離れて行ってしまう。正確に言えば、そういう場合もある、ということなんだろうけど。男の人と女の人の記憶のメカニックが違うという記事読んだことあるし。これは、ぼくの考えだけど、歴史的事実なんかでも同じことだね。事実とは何か、みたいな命題にもなる。
そんなこと思いながら戻ってきたら、みんな片づけ始めてる。遅くならないうちに帰ろう、ということになったみたい。
新宿について、飲み直しだ、とファーストは騒いでる。高校生と意気投合したかな。得意の陰謀論始めてたし。
どうかなとは思うけど、けっこう面白いんだよね。真実を突いてるんじゃないかと思わせる節もあるんだ。節穴という言葉もあるけど。
帰り道は下りだし、のんびり歩いているようでも、来た道だし、すごく早く着いたような気がした。帰り道って予測つくだけ安心するのかな。ジョガーは、やはり先行っちゃった。ぼくは海保と並んで最後を歩いていた。
女の人はまとまって、会長の後に付いている。その後、野球部。
「なにか、きっかけ掴めたの」
ぼくは、からかう調子にならないよう、気をつけながら海保に訊いた。