1.6.渡り者
ツギメはゆったりとした歩調で歩いていく。
先程見た蛇人間がいた方向へと向かっているらしいが、あの姿はやはり見えない。
それに少しほっとしていると、ツギメが話しかける。
「人間様のお名前はなんと仰るのでしょうか」
「あ、ああ……。旅籠守仲……」
「旅籠様でございますね!」
「あの、気になってたんだけど、なんで人間“様”なの?」
「それは異形たちにとって、とてもありがたい存在であるからです。それに、旅籠様はまだ見ぬ知恵を授けてくださる“渡り者”様ですゆえ!」
「……渡り者……?」
よく分からないのに単語が出てきたので首をかしげる。
彼女たちにとっては馴染み深く、そして尊敬の念を抱いているように思えた。
ツギメはすぐに説明してくれる。
「渡り者というのはですね。えっと、私もあまりよく知らないのですが、別の狭間……? から来た特別な人間様のことを、そう言うのです」
「な、なるほど……。転移してきた人間ってことね……」
「あ、そうですそうです! 以前こちらに来た渡り者様も、同じようなことを申されておりました!」
ツギメが今口にした言葉は、旅籠の興味を強く誘った。
やはり、自分以外にもこの世界に連れてこられた人間がいるらしい。
それこそ……自殺志願者だろうが、同じ境遇を辿った人がいるなら前例はあるはずだ。
旅籠は既に落ち着きを取り戻しており、冷静に物事を考えることができるようになっている。
ひとつだけ、絶対に聞かなければならないことを聞いてみた。
「元の世界に帰る方法ってある?」
「もちろんございますよ! 渡り者様は、最終的にはそのお話を必ずするのです」
「ああーよかったぁー!」
帰る方法がある。
それが分かっただけでも大収穫だ。
あの気持ち悪い神に手違いだかなんだか知らないが、死んでくれと言われて死ぬやつが何処にいるものか。
絶対に生きて帰ってやる、と再び決心すると、なんだか勇気が湧いてきた。
「帰る方法があるならなんでもいいや! できるだけ早く帰りたいんだけど……」
「う、ううん……」
「……えと……?」
ツギメは渋い顔をしている。
どうやら帰る方法は確実に存在はするらしいが、その難易度は非常に高そうだ。
恐る恐る、詳しく聞いてみる。
彼女は申し訳なさそうにしながら、説明してくれた。
「渡り者様がここ、異形の地から生きて戻ることができた前例は……ございません……」
「……マジ?」
「まず渡り者様が帰る方法は、人間様が治めている領地にある富表神社の鳥居をくぐらなければならないのです」
「……なるほど……?」
どうやらナテガの言っていたことは嘘ではないらしい。
それはいいとして、どうして渡り者が元の世界に帰った前例がないのか。
「……えと、なんで……生きて帰れないんだ?」
「妖です。ここ、異形の地は妖の支配領土で、私たちはその民草なのです」
「妖……妖怪、ってことだよな。……待って、人間の領地って……何処」
「異形の地を横断し、妖の領土を横断し、山を九つ越えた先に鬼が納める領土が一部細長く伸びておりまして、そこを横断した場所が人間の納める土地です」
「くっそ遠いな!!」
「場所が遠いのは最もなのですが……なにより、妖は人間様を喰らうのです」
思考が停止した。
聞き間違いか、と思ってもう一度聞いてみたが、帰ってくる言葉は全く同じだった。
「あ……妖は……特に渡り者様の血肉を大層好みます……。ゆえにこの異形の地に落ちてきた渡り者様は……皆同じくして……妖に喰われました……」
「…………マ?」
詰んだ。
この言葉が、旅籠の頭の中を支配した。
帰る方法は存在しているが、その前に人間を食うという妖の領地を横断しなければならない。
この時点でほぼ不可能なのではないだろうか。
それに今までここに来た人間が誰一人として生きて帰っていない。
異形の地に来て生活をした前例はあれど、人間のいる領地に足を踏み込めた前例はないようだ。
気力が削ぎ落され、膝から崩れ落ちた。
ずぅん……という暗い空気が旅籠を纏っている。
「そんな……」
「あわわわ、旅籠様! お、お気を確かに……!」
「ど、どうすりゃいいんだよぉ……。ぬ、抜け道とか……」
「……山々を乗り越えるのには、相当な労力がかかります……。それにこのやり方も、昔試しているのです」
「そ、そっか……」
試して尚、妖の領地を抜けることはできなかった、ということらしい。
今までこの地に降りてきた人間は、あの手この手で人間の領地を目指した。
とある者は変装したが匂いでバレて食われ、とある者は抜け道を探して山に入ったところ帰ってこなくなったが、一年後、服だけが見つかったという話もある。
どのように妖の領地を横断しようとしたとしても、結果は捕まり、捕食される。
ツギメはそんな渡り者を、数多く見てきたのだ。
彼女の経験則から言わせるならば、渡り者が元の世界へ戻ることは決してできない。
口ではそう言わないが、半ば諦めているようではあった。
「妖って……強いの……?」
「この世にはいくつかの種族が存在しております。その中で最も力を有しているのが妖です」
「マジかよぉ……」
旅籠は更に深く落ち込んだ。
あんなくそみたいな気持ち悪い神に言われたことを現実にしたくない。
帰りたい。
是が非でも、何としてでも生きて帰って嘲笑ってやりたい。
だがしかし……現実は、酷く残酷だった。
「しょ、少々気分を変えるために、話題を変えましょうか! 渡り者の皆さまのほとんどは、種族のことを聞きたがるのです」
「……ああ、うん……」
「それを説明いたしますね!」
努めて明るく振舞うツギメは、一つ一つ丁寧にこの世界に存在する種族……というより、勢力について詳しく教えてくれた。