1.5.逃走中
来た道をがむしゃらになって走り抜ける。
既に冷静な状態ではなくなっている旅籠は、振り替えることもせず叫びながら足を全力で動かしていた。
先程見てしまった恐ろしい存在から少しでも距離を広げるために。
「わあああああああ! うわああああああ!」
「お、お待ちくだされ人間様! ぜぇ……ぜぇ……! に、人間様! そ、そちらはだめです……!」
なにかこちらに向かって声をかけてきたようではあるが、そんなことを気にしている余裕はなかった。
ただ追い付かれるわけにはいかない。
筋肉疲労で次第に重くなっていく脚を無理矢理持ち上げ、激しく波打つ心臓の音を無視した。
化け物がこちらに迫ってきているのだ。
声をかけられたところで冷静さを取り戻すなどできるはずもなく、ただ叫びながら不気味な森の中を駆けていった。
息が切れて足並みも悪くなってきたが、次第に後ろから聞こえてくる声が小さくなったことに気づく。
そのことに気付いた瞬間、冷静さを取り戻したので木の陰に隠れた。
大地から隆起するように伸びた大木の根は、身を隠すのには充分だ。
「はっ、はっ、はっ、はっ……!」
「に、人間様ぁ……ぜぇ、ぜぇ……叫んではなりませぬ……。ああ、一体何処へ……。人間様ぁ!」
口元を押さえ、息を極限にまで殺す。
心臓がばくばくと波打つのを押さえつけるのは辛く、酸素を求めている肺が呼吸音を激しくさせようとした。
だがそれを懸命に堪え、驚異が過ぎ去るのを待った。
自分を探す声が遠退いていく。
そこでようやく堪えていた呼吸を乱し、思いっきり新鮮な空気を吸い込んだ。
「ぜぇーーーー! はぁーー! ゲホゴホッ……。はぁ、な、なんなんだ……今の……!」
見たことのない存在。
年老いたなにかだと言うことはわかるが、あんな蛇の頭をして、人語を話せる存在など知らない。
架空の生物。
そうひとくくりにされるような姿だった。
ふと、ナテガが口にしていたことを思い出す。
あのときアレは『君が落ちる所は異形の地』と言っていた。
もし、仮にそれが本当のことだとすれば……。
「あ、あいつら……人を喰うんじゃ……」
ナテガは『そこならすぐに死ねる』とも口にしていた。
と、いうことはこの地にいる異形という存在が、人を食らう可能性は十分にある。
「こんなところ……一秒でも居られるか……! は、早く人がいる場所にいかないと……」
「お静かに」
「うっ──!!!?」
突然後ろから声をかけられた。
反射的に叫びそうになったが、手を回されて口を押さえつけられる。
女性のような声ではあったが、意外に力が強く振りほどくことができなかった。
上手く拘束されてしまっているらしい。
彼女はそのまま、旅籠に話しかける。
「突然のご無礼をお許しください。私は人間様の味方です。叫ばないとお約束になられるのであれば拘束を解きますので、どうかこの場ではお静かに……。蟲を……起こしてしまいます故……」
若干焦りを感じている口調だった。
彼女の言っていることは本当のようで、その蟲を起こしたくないらしい。
旅籠としても訳の分からない生物を起こしたくはない。
小さく頷き、叫ばないことを約束した。
相手は優しい女性の口調だし、この地に住んでいる人間かもしれない。
ちょっとした希望と、ようやくまともに話し合えそうな人物と出会ったことで気が抜ける。
脱力したこと把握した女性は、静かに拘束を解いた。
「私の名はツギメと申します」
「あ、ああ……よろし……く……?」
「このような姿で申し訳ございません。この地で最も人間様に近しい姿をしているのは、私ともう一人くらいでありまして……」
振り返りながら挨拶をした旅籠は、彼女の姿を見た。
昔の農民が着るような分厚い服を身に付けており、それはずいぶん痛んでいる。
何度も修繕して使い続けているようで、いろんな生地が貼り付けられてあった。
前の髪の毛はパッツンで、全体的に短い。
座敷わらしのような髪型ではあるが、顔は幼いというよりは中学か高校くらいの輪郭をしていた。
それだけであれば驚くことはないのだが、彼女には……目がなかった。
閉じているようにも見えるのだが、大きな継ぎ接ぎが身体中を走り回っている。
目元も同様に継ぎ接ぎが横一線に走っており、とてもではないが普通の女の人には見えなかった。
とはいえ、確かに人間に近い。
先程のこともあり、不気味ではあったが驚いて声を上げることはしなかった。
「えっ…………と……」
「大丈夫です、落ち着いてください。この異形の地に住まう異形たちは、決して人間様には危害を加えません。私もその一人です」
「さ、さっきの……蛇は……」
「ジャハツ様でございますね。あのお方は私共の村長なのです」
「……追いかけられたんだけど……」
「この森で人間様が声を上げるのは危険なのです……。あなた様を守ろうとしただけなので、どうかご理解くださいませ……。怪蟲もそうですが……妖が……」
最後の方はもごもごと濁したため、あまり聞こえなかった。
とにかくこの森では声を上げてはいけないということが分かった。
固く口を結び、可能な限り叫ばないように心がける。
だが、このツギメという人物には次第に慣れてきた。
彼女も口にしていたが、人間に近い姿をしているので先ほどの蛇よりは明らかに親しみやすい。
とはいえまだ恐ろしさが残っているので、そう簡単には近づけないが。
ツギメも可能な限り刺激しないよう、距離を縮めることはせず、逆に二歩遠ざかった。
人を怖がらせない方法をよく知っているような動きだ。
過去にそういう経験があったのかもしれない。
(私以外の、人間が来た時……とかな……)
すると、ツギメが少し明るく振り舞いはじめる。
「このような場所ではなんですから、私どもの村に来ませんか? 大したおもてなしはできませんが……」
「まっ、待って……? えと、さっき……人間に近い姿をしているのはツギメさんともう一人だけって言ってましたよね……? てことは他の住民は……」
「人間様とはかけ離れた姿をしております。ですが決して、誓って人間様には危害を加えません。見た目は……人間様にとっては、少々刺激が強いかもしれませんが……」
「う、ううん……」
正直、怖すぎる。
ジャハツという蛇人間は、まだ異形たちの中ではマシな姿をしているのかもしれない。
自分が知っている生物なのだから、まだ恐怖感は少なかったと思う。
しかし他の者たちはどのような姿をしているのか、想像がつかなかった。
よく知っている生物が人間っぽくなっているのであれば、まだ大丈夫かもしれないが……。
ツギメの姿ですら、旅籠の予想をはるかに超えていたのだ。
このような存在がいるかも……など考えたこともなかった。
だが、それ以前に……旅籠は今、生活に困窮しているのは間違いない。
知らない場所に放り投げられ、一人で生きていくなど到底無理だ。
それに、この世界を知らなさすぎた。
「……ほ、本当に……大丈夫なんですね?」
「私どもは、無害です」
「わ、分かりました……。お願いします……」
すると、ツギメはパァッと明るくなって笑顔を作る。
相変わらず継ぎ接ぎだらけの肌が痛々しいが、彼女は痛がる素振りなど見せはしなかった。
「では! では参りましょう人間様! 移動中、この世についてお教えいたしますね!」
「あ、それは普通にありがたい」
「こっちです! ついてきてください! それと私共異形に敬語は一切不要に御座います! お気軽にお声をおかけくださいませ!」
そういいながら、ツギメはテテテテ、と歩いていく。
旅籠はその後ろを付いていった。
(……やっぱここ、異世界なんだな……)