1.3.帰還方法
「お、落ち着いた……かな?」
「そっそそそれ以上、それ以上近づくな……!」
「わ、わかったわかった……」
あれから数分。
とりあえず距離を取ることに成功した私は、激しく鼓動する心臓を落ち着かせながら息を整えていた。
あんな化け物が目の前の高速で近づいてきたのだから、動揺もするというもの。
本当に心臓に悪いのでやめてほしい。
もう敬語も使う気になれず、警戒を全面に出しながらいつでも逃げられる準備を整えている。
……あの速度で走ってくるのであれば、逃げられないかもしれないが。
「えーっと、まぁ話を聞いてほしい。いいかな」
「……聞くだけ……聞く……」
「よしよし……。まずは自己紹介。僕の名前はナテガ。とりあえずよろしくね」
大きな腕を小さく振る。
顔と声は可愛らしいのに異質な形になっている腕と脚がそれを全て台無しにしていた。
人語を理解する妙な存在。
いくら自分の中の知識を総動員して探してみても、これと同じ、もしくは似たような存在の名前は思い出せなかった。
ナテガがその場に座り込み、敵意がないことを示すように両腕をあげる。
「さっきもチラッと言ったけど……。君のことを自殺志願者だと勘違いしてこっちに連れてきちゃった。あの神社の裏手に回る人間なんて、そんな類いの奴しかいないから……」
「…………で、えっと…………。私は帰れるのか……?」
「ごめん」
「……まじで?」
「本当にごめん」
この謝罪が意味することはただひとつ……。
どうやら私は、ここから元の世界に戻ることができないということ。
嘘だろ、と頭を抱えたくなる。
じゃあどうなるんだ?
私はこれからどうなってしまうんだ?
そんな不安が一気に押し寄せる。
これは夢ではないのだろうか。
そう思って思いっきり頬を引っぱたいてみたが、ただただ痛かっただけだ。
痛覚があることに驚きながらも、その痛みに耐える。
痛い。
「だ、大丈夫?」
「んなわけないだろ……。で……私は……どうなるんだ……?」
「だよね!」
だよね、じゃねぇんだわ。
私がこれからどうなってしまうのか説明してくれ。
そう詰めてみると、怪物は小さくため息を吐いた。
「これでも神様なんだけどね」
「嘘つけ」
「嘘じゃないよ? じゃないとこんな所に君を連れてきたりはできないさ。ああ、それとね。僕の力じゃ君を帰すことはできないけど、君自身の手であれば帰ることはできるよ」
「……」
本当か……?
完全に疑心暗鬼になっているが、この状況でこの化け物のことを信じろというのは無理がある。
そもそも神ならどうして間違いを起こすのか。
それ自体が可笑しな話だ。
……だが、直感的にこの怪物の気分を害してはならないような気がした。
とりあえず黙って話を聞くことにする。
「えーとね。君が今から降りる世界には人が住む領地がある。そこにある“富表神社”の鳥居をくぐれば、元の世界に戻れるよ」
「富表……? 富ノ裏じゃなくて?」
「うん。富表神社」
元の世界にあったのは富ノ裏神社。
で……今から連れて行かれそうな世界にあるのは、富表神社。
表の世界と裏の世界ってことなのだろうか?
その入り口が……あの神社?
ていうかこいつ、さっき神社の裏手に回る人間は自殺志願者ばかり、とかそんなこと言ってたよな。
私以外にも……こいつに連れてこられた奴がいるってことか?
「……なんで自殺志願者をここに連れて来るんだ?」
「あれ? 大体この話をすると喜ぶ人間多いんだけどね。イセカイテンセイダーって。でも君は違うんだね」
「興味ねぇよ……」
興味ないと言えば嘘になる。
そういったことを考えたことがないわけではないのだ。
だが、この段階で喜ぶことはできそうになかった。
普通の姿の神に言われたならともかく、こんな化け物に言われても喜べない。
まて、話を反らされそうだ。
もう一度聞いておこう。
「で? なんで自殺志願者をここに?」
「ああー、うーん……」
ナテガは可愛らしく小首を傾げた。
何か思案しているようだったが、しばらくしていると考えるのが面倒くさくなったのか、大きく項垂れて嘆息する。
次に顔を上げた時、ナテガの顔は不気味さを携えていた。
口角は上がり、瞳孔は小さくなり、狂気を帯びている。
ぞわりとした気配が体全身を突き抜け、怖気だつ。
「恐怖が欲しい」
「……は?」
「自殺志願者じゃない人間を呼ぶと、次に呼ぶ人間に制限が掛かっちゃうから嫌だったんだよね。あ~正確には今の世界に未練がない人、かな。まぁ~別に問題はないんだけどさ。すぐに死んでくれればそれでいいから」
「……なにを……」
「ほらあれだよ。あっちで死んでもこっちで死んでも同じでしょ? じゃあさじゃあさ」
大きな腕を動かし、ぱん、と手を鳴らす。
満面の狂気の笑みを浮かべつつ、可愛らしく小首を傾げた。
「僕の世界の養分になってよ」
ナテガがそう口にした瞬間、脚を何かに掴まれた。
足元を見てみれば黒い手ががっしりと脚を掴んでおり、下に引きずり込もうとしている。
それは一つや二つではない。
十か二十か、はたまたそれ以上か。
無数の黒い腕が、服や脚を掴んで引っ張りこもうとしていた。
「わああああ!? わ、わ、わああああ!?」
「あ~君が降りる場所は異形の地ね。そこならすぐに死ねるから~」
「はぁ!? ふざっけ……がッ──!」
黒い手が顔面を掴んできた。
頭、肩、腕もすべて掴まれて動けなくなる。
抵抗しているがその力は想像以上に強い。
そのまま、引きずり込まれた。
ナテガはその様子を、満面の笑みで見送ったのだった。