1.14.Side-??-ようやく来たこの瞬間
異形の地は総じて薄暗いのが特徴だ。
常に曇天で分厚い雲が太陽の光を完全に遮断している。
これをいい天気だ、という者は誰一人いないかもしれないが、男はこの天気が好きだった。
いつこの地に運ばれた種が開花したのか分からないが、湖には様々な植物が茂っている。
よくこんな日の差さないじめじめしているところで花を咲かせるものだ、と感心する。
これすべて含めてこの場の絶景。
小さな変化に素早く気付く。
ここに長年居座り続けているからこそできる芸当だろう。
男は水の上を歩き、睡蓮の花を摘む。
こんな芸当ができたところで、何の意味もないのだと悟りつつ、大きく息をついた。
摘んだ睡蓮の花をぺっと投げ捨て、陸地へ歩く。
しばらく歩いたところで、遠くからこちらに歩いてきている影を見つけた。
こんな所に客人とは珍しい。
最後に誰かと喋ったのはいつのことだっただろうか。
急に興味が湧いて背を伸ばす。
だが、こちらに近づいてきている人物を見た瞬間、落胆した。
知っている人物だったからだ。
「……面白くねぇなぁ」
面倒くさそうにしながらも、話を付けに陸地へ向かう。
あいつが来るときは、決まって渡り者が訪れた時と相場が決まっているのだ。
つまらない奴に興味などないと何度言えばわかるのか。
腰に携えた藍色の鞘を持つ日本刀の位置を整える。
全身ずぶ濡れの和服を着た男は、長い髪を乱雑に後ろへ掻き上げた。
水滴が湖にぼちゃぼちゃと落ちる。
男は目付きが悪く、目元には隈が深く刻み込まれていた。
分厚い羽織は水を吸って黒に近い色になっていた。
元の色合いは藍色なのだろう。
重くなったはずの服を一度も絞ることなく、男は客人に声をかける。
「何の用だ。ジャハツ」
「お久しゅうございますな、落水様」
「落水だ」
「ああ、そうでございましたな」
カラカラ笑いながら深々と頭を下げる。
こいつは会う度にこんな挨拶をする。
わざと間違えているのは目に見えて分かっているが、つっかかるのも面倒なためそれ以上は言わない。
本当はもう間違えるな、と言いたいところだが指摘したところでまたわざと間違えるだろうし、会話が長くなるのは御免だった。
こちらとしては、さっさと話しを終わらせたい。
嘆息し、ジャハツが口を開くのを待った。
だが大抵、彼女がここに来る時に話すことは決まっている。
「渡り者様が来られました」
またか、と思った。
落水がここに来て何度目の報告だろうか。
ジャハツは渡り者がこの地に召喚される度、こうして俺に報告してくる。
だからなんだと言うのだ、というのが本音だ。
どうせ今回もいつもと同じ根性なしだろう。
無駄だとわかっていて協力する俺はもう存在していない。
淡い期待を膨らませるだけでは、渡り者にも失礼だろう。
どうせ渡り者は、異形の地を越えられないのだから。
「渋い顔をされておりますな」
「何度来たとて俺が口にする言葉は変わらぬ。それに……」
「目的が違う。そうでございましょう?」
落水が言う前に、ジャハツは先を読んで言葉を発す。
機嫌が悪くなり、さらに深く眉に皺を寄せた。
分かっているなら何故また渡り者が来た、と報告をしに来たのか。
協力してくれないのは分かっているはずなのに。
だがジャハツの目を見ると、彼女の瞳に希望が宿っていることが分かった。
失われていた淡い期待が再び落水の胸の内から蘇る。
「……まさか……」
「落水様が渡り者様を無視し続けて七年。その間にも渡り者様はこの異形の地に降りて参りました。されどこの七年、落水様がお認めになられる渡り者様は現れませんでした」
そうだ。
俺は渡り者の脆弱さ、度胸のなさ、根性、やる気、感謝の念など全てが欠けた渡り者を嫌っていた。
帰りたいなら勝手にすればいい。
助けを求めるならまず自分が動け。
何故に己から動かず、他人に頼って己だけが助かろうとするのか。
そんな奴らに協力してやろうとは、俺はどうしても思えない。
だが……もし、今回やって来た渡り者が、今までの渡り者とは違ったのなら……。
「その……渡り者は……。俺を導いてくれるのか?」
「そこまではわかりかねます。されど渡り者様は、二口を倒そうとしております」
「……! 己で……」
「いかがですか?」
ジャハツのその問いには、幾つかの意味が込められていた。
一つはこの渡り者であればどうか。
一つは彼であれば協力してやってもいいのではないか。
一つは貴殿はこれからどうするか。
もしこの異形共に強い希望を抱かせる渡り者なのであれば、協力することは厭わない。
だがその渡り者には、幾つかの試練が待ち構えている。
それを乗り越えることができなければ、今まで見てきた渡り者となんら変わりはしないだろう。
だから落水は即答できなかった。
小さく首を横に振る。
ジャハツは目に見えて落胆した。
「左様ですか……。ではワシはこれにて……」
「待て」
「……およ?」
てっきり完全に断られたと思っていたジャハツは、呼び止められて豆鉄砲を食らった鳥のような顔で落水を見る。
彼が誰かを呼び止めるなど、初めてのことだったからだ。
「条件がある」
「……なんでございましょうか」
「二口を一匹でも渡り者が殺せたならば、望み通り協力してやってもいい」
「おお! 誠ですかな!?」
「二言はない」
その言葉を聞いて、ジャハツはとにかく喜んだ。
ようやくこの時が来たのだと笑う。
異形がついに立ち上がるこの瞬間に立ち会えたことに……。
そして、最大の戦力が加わってくれる可能性に、喜びを押さえつけることはできなかった。
居ても立っても居られず、すぐに踵を返す。
「では早速お伝えして参りましょうぞ!」
「ああ」
するとジャハツの足元から巨大なムカデが立ち上がり、ジャハツを頭に乗せてこの場を去っていった。
あれは怪蟲だ。
異形が最も操るのを得意としているのが、あの巨大なムカデである。
いくつもある足を動かしながら走っていくその姿を見送ったあと、落水はその場に座り込んだ。
長らく待っていたこの瞬間。
可能ならば絶対に手放したくはないが、渡り者がどれだけの度胸があるか分からない。
これだけは絶対に把握しておかなければならないのだ。
今後、渡り者である旅籠が直面する試練のために。
そして、落水が本来の目的を達成するために。
「期待しているぞ、渡り者よ」