8.9.把握しているもう一人
体の芯から冷やすような空気が肺に入ってくる。
思わず布団を顔まで持ち上げてできる限り冷たい空気を吸わないように気を付けるのだが、どこからか入ってきてしまうものだ。
隙間を埋めるように縮こまり、一度大きく深呼吸をした。
まだ眠いが、何やら音が聞こえてくる。
目を開けて少しだけ上体を起こしてみれば、まな板の上に並べた魚を綺麗に捌いている八角の姿があった。
「……八角さん?」
「俺は八角の方だ」
「……え?」
まるで、もう一人の存在を知っているような口振りだった。
ばっと起き上がって立ち上がる。
「八角さん、知ってるんですか!?」
「はは、世話かけたな。悪い悪い。説明するのをすっかり忘れてた。ま、朝飯食べながら説明しようか」
振り向くと既に完成した料理を抱えており、それを用意されていた机に乗せていく。
寒さに体を震わせながら席に着けば、八角もすぐに座った。
朝支度を全く行っていないが、話を聞く方が先決である。
「んじゃ、どう説明するかなぁ~」
手を合わせながらそう口にし、頂きますと言って食事を始める。
早瀬もそれに倣った。
「昨日の事は覚えているんですか?」
「いいや、記憶はない。でも萩間のおっさんからもう一人については教えてもらってる。性格がちょっときついらしいな」
「稽古って言って鉈で攻撃されましたよ……」
「あはは、本当に苦労をかけたな。……八角は夜に出てくる人格で、昼間は僕が出るらしいんだ」
ずずーっと味噌汁を飲んで幸せそうに頭を揺らした。
彼は食事をするのが大変好きなのだろうということがなんとなくわかる。
「でもま、彼の方がある意味強いから相手としてはいいと思う」
「……夜は実践稽古ですか……?」
「じゃあ昼は体を鍛えっか!」
「スパルタ!」
「すぱぱ?」
体が持たないかもしれない。
顔を青くした早瀬ではあったが、思考体術があるかぎりできないことはないのだ。
限界ギリギリまでいじめられそうだった。
「えと、じゃあ今日はなにを……」
「水撒き」
「うっ……」
「それと薪割りと柿の収穫と水汲みと~」
「!?」
「まだまだあるぞ~!」
「俺の体……一ヶ月本当に持つんだろうか……」
げんなりとしながら朝食を食べ終えたあと、早速水撒きから始めることとなった。
昨日と同じことを昼間で繰り返し、昼食を摂り、柿の収穫から始まり薪割りをやりきって、今度は薪の材料担いで持ってきたり、水汲みを行って風呂に水を張ったりと忙しない。
仕事が増えている気がする、と思いながらも指示されたすべての作業を終えて気を抜くと、バタリと倒れてしまった。
動けない。
地面に伸びている早瀬を面白半分で八角がつっつく。
「ふごああああ」
「はははは、まだまだだなぁ。じゃあ夜まで休息。晩御飯を食べたらあとは頑張れよ!」
「う、うっす……」
これを一ヶ月?
正気か?
ようやく動けるようになった早瀬は小声でそう呟き、なんとか夕食を摂った。
働いたあとの食事は身に染みるほど美味かったが、あるところで八角の様子が切り替わる。
カクンッと首が傾いた。
それがゆっくりと戻ると、彼は周囲をキョロキョロと見渡して今の現状を把握する。
「……早瀬、いるか?」
「いますよ……」
「あ? 何をもう疲れているのだ?」
「いや……お昼は仕事してるんで……」
「その程度で情けない。ほれ、貴様が寝たあとに木刀を拵えた。これを使って今日から貴様をしばく」
「おっふ……」
「案ずるな。昨晩、萩間の旦那と会って話を聞いた。殺しはせん」
「えっ」
ぽーんと投げられた木刀を手に取ると、結構重い。
見た目もすこしばかり太く、取り回しがしにくいような気がした。
だがそれは八角も同じだ。
一度ぐるんっと木刀を回したあと『表に出ろ』と顎で促す。
早瀬は深呼吸をして覚悟を決める。
家から出て八角と少し距離を取り、振り替えった。
その瞬間には既に木刀が目の前に迫っていた。
本当にギリギリで仰け反り、その攻撃を回避する。
鼻をほんの少しかすった。
「あっっっっぶねえぇええ!」
「チッ。避けたか」
「舌打ち!?」
一息つく間もなく連続した攻撃が襲いかかってくる。
三度目の攻撃を避けたところで早瀬も反撃に出た。
逆手に持ったまま振り上げて木刀をかちあげる。
「ようやくやる気になったか」
「ええい、やってやりますよ!」
「一刻、打ち続ける。これを毎日だ。ほれ、いくぞ」
クルクルッと回した木刀を逆手に持ち、予備動作なしで飛び込んでくる。
その辺りから教えてもらいたいものだ、と思いながら迫ってきた木刀を叩き落とす。
向こうがその気なら、こちらも同じようにやるだけだ。
キッと顔を上げて木刀が弾け合ったと同時に撃ち合い始める。
八角が回転しながら攻撃をしてきたのに対して、これを両手で受け止めた。
そのあと押し上げて一歩下がり、回転しながら身を引いて足払いをするように木刀を振るったのだが、この程度では当たらない。
軽く回避されたと同時に上から鋭い攻撃が叩き付けられる。
ここで思考体術を使った。
アクロバティックな動きで地面を滑るように移動し、起き上がったと同時に木刀を下段から振り上げる。
右手から左手に持ち替えた八角は、危なげなくこれも防いだ。
「クッ……!」
「ふん、悪くない! だがもう少し大きく立ち回れ! 妖が人間程度の大きさであるとは限らぬぞ!」
次の瞬間、八角が木刀を両手で持った。
素人ながらにも『これはマズい』と思って距離を取ろうとしたが、それよりも早く動かれる。
「強土流剣術、右舷の構え。刃返し」
カコンッ。
たった一撃だったが、この一撃で早瀬の持っていた木刀は簡単に宙を舞った。
「なっ……!?」
「妖の鋭利な攻撃すら返す技だ。時が来れば教えよう」
八角はそのまま攻撃を続行する。
目を見張って驚いた早瀬は、一気に姿勢を落として地面に伏せて一撃を回避し、すぐさま横っ飛びに地面を蹴って距離を取った。
と、思わせて、すぐさま切り返して八角に蹴りを打ち込む。
ドッ……!
初めて一撃が入った……と思ったが、しっかりと手で防がれていた。
早瀬は苦い顔をする。
「ダメか!」
「いや、良い。得物を手放しても戦う意思を持っているならば、土壇場でも生き残れるだろうよ。戦場で武器を手放しても待ったは利かぬからな」
「……覚えておきます」
「この一撃に免じて木刀を取らせよう」
八角が手を放す。
早瀬は一つ息を吐いてから、飛んで行った木刀を回収して再び片手で構えた。
今度はあの攻撃を受けないようにしなければ。
「行きます!」
「よし、来い」
再び木刀が激しく打ち合った。