03. 猫語は人に通じない
その後、数日はそんな感じで過ごした。
閣下は私の飼い主を探してくれているようだ。でも、飼い主なんて見つかるはずがない。私は、子猫に変えられた人間なのだ。
忙しい閣下の手を煩わせて、申し訳なく思うと同時に、少しずつ不安が大きくなってもいた。
一つは、猫の体になったせいか、知能が駄々下がりになってる事。人間らしい理性的な思考が、脇に追いやられて、これじゃいけない、とハッとする事が増えた。
しかも、段々不味いとも思わなくなってきてるのが、とても怖かった。
「こら、靴を齧るな。これはダメ、いいな?」
「……にゃー」
執務室を探検している最中に、うっかり目に入った大きな軍靴。それがあまりに齧りがいがありそうだったので、つい飛びついてガジガジやってしまった。
足元の私をそっと抱き上げたラスフ閣下は、フロストブルーの瞳で私を覗き込み、これはダメだぞ、と注意した。
別にひどく怒られたわけではないし、怖くもなかったけれど、私はやっちまったと青ざめた。
閣下のお高い靴を、私なんかの給料で弁償できるのだろうか。いや、閣下はこの猫が私だとは知らないから、人間の私が弁償するのはおかしいんだけど。
とにかく、ひたすら申し訳ない。
そもそも中身は成人した人間なのに、靴をガジガジするのを我慢できない時点で……
ぶわーっと自己嫌悪に陥って、すごすごと籠の中に入っていく。
今朝はミルク皿に上半身を突っ込んで侍女さんに丸洗いされたし、ひらひらした物体なんかを見ると、うずうずして飛びかかってしまう。
そのうち、王宮の調度品で爪を研いでしまいそうだ。さすがにそれはまずいなんてもんじゃない。
そこでふと我に返った。
そういえば、いつ魔法が解けるか聞いてないな。
……私はちゃんと人間に戻れるのだろうか。
あのくそ上司、もしかして私を猫に変えた事すら忘れてるんじゃないだろうな……普通にありえるから困る。
実際問題、猫生活はものすごく幸せだし、閣下や周りの方々は優しいし、ずっとこのままでもいいかな、と一時は本気で思った。
でも、やっぱり私は人間だ。
そろそろミルクだけではなく人間のご飯が食べたいし、ゆっくり一人でお風呂に入りたい。それに、このまま猫で居続けたら、努力して手に入れた魔法の知識や魔法師の資格まで失いかねない。
それはあまりに勿体ないし、情けないのではないか。
もう一つの不安は──
ラスフ閣下と一緒にいればいるほど、人としての私は閣下を好きになりそうで、それがとてもこわかった。
閣下は誠実で優しく、こんなちっぽけな子猫を拾って大事にしてくれる。好きにならない方がおかしい。
でも閣下には想う方がいる。本気になったら辛いのは私だ。
閣下の元を去るのは寂しいけど、今ならまだ引き返せる。全部なかった事にして、忘れてしまえるはずだ。
色々手遅れにならない内に、マイゼン師長に早急に人間に戻して貰った方が……
そう思ったら、いてもたってもいられなくなった。
「……閣下、ただいま戻り……うわっ」
副官殿がドアを開けた隙を狙って、私はラスフ閣下の執務室を飛び出す。
「子猫が逃げました!」
「俺が追う!」
二人の慌てた声を聞き流しながら、私は全速力で走り出した。
◇◇◇
後先考えずに飛び出してきたけれど、猫視点だと道がわかりにくいし、すれ違う方々が「わっ!」「きゃあ!」と驚いたり、「猫だわ、かわいい!」と目を輝かせて私を捕まえようとする。
それを何とかすり抜けて、城の廊下をひたすら駆け抜け、ようやくマイゼン師長の執務室に辿り着いた。その頃には、はあはあと息が上がっていた。
にゃーにゃー鳴きながら入口をカリカリ引っ掻いていると、突然ドアがガチャリと開いて、私の体がふわりと宙を浮いた。
そのままふよふよと室内に招き入れられ、私の茶トラの体は、執務机に肘をついてだらしなく座っている上司の前でピタッと静止した。
「よお、ティア」
くそ上司──マイゼン師長が指をすっと横に動かすと、後ろでドアがひとりでに閉まった。相変わらず、器用に魔術を使いやがる。
「お前、なんか毛づやが良くなってないか?いいもん食わしてもらってんだろ」
「にゃあにゃ!にゃにゃにゃーーにゃ!(ちげえよ!あんたのブラック労働から解放されたからだよ!)」
「んー何言ってるかわっかんねえなー」
「にゃあにゃにゃーにゃにゃあ!!(さっさと人間に戻せくそ上司!!)」
必死で猫語を捲し立てるも、相手に伝わってる様子は微塵もない。
こいつどうしたらいいの?猫パンチでタコ殴りにする?
一応、猫に変えた部下の事は記憶の片隅にでもあったようだが、何でもいいから人間に戻してくれないかな!
「にゃあー!(降ろせー!)」
机の上でふわふわ浮いてジタバタしている茶トラをひょいと両手で捕まえた上司は、シャーッと毛を逆立てている私の猫顔を覗き込んだ。
「てか、なんで戻ってきたんだよ。騎士団と魔法師団の関係改善に努めろと言っただろうが。それが成就しないと元には戻れねえぞ」
上司は「まあ、もうちょっと頑張ってみろよ。な?」と意地悪くニヤッと笑って、私の頭をワシワシと撫でた。
「にゃにゃ!(気安くさわんな!)」
「いって!てめえ泣かすぞ!」
何が「もうちょっと頑張ってみろ」だ。
非常に腹が立ったので、私を掴んでる骨ばった手をガジガジ噛んでやった。甘噛みじゃなく本気でな!
とその時、ドアがバターン!と勢いよく開いた。そしてものすごい剣幕で飛び込んで来たのは──ルパート・ラスフ騎士団長閣下。
マイゼン師長とは目も合わさぬほど仲が悪い、我が国が誇る高潔な騎士だった。
「──その猫を返して貰おうか」
地底を這うような閣下の声には、ものすごい殺気が籠っていた。
「あ?こいつは俺んだぞ」
くそ上司はしっかりと私を胸に抱え込み、俺のもんアピールした。
だいぶ大人げない。さっきまで私に齧られてたくせに。
「……猫の飼い主を探していると通達が出ていたはずだ。知らぬわけでもあるまい。本当の飼い主なら、何故名乗り出なかった?」
「はっ、忙しかったんだよ。そんなもんいちいち見てられっか。こいつが自分でここに来たのが、俺が飼い主である何よりの証拠じゃん」
「…………そういう事じゃない。飼っていた猫が消えたのに、探そうともしなかったのはどういう了見だと言ってる!」
「こいつは好き勝手に出歩くから心配いらないんだよ。実際大丈夫だったろ」
フン、と鼻で笑った師長の言葉は、私が人間であるという事情を知らなければ、ペットを愛する全人類の神経を逆撫でしかねないものだった。
当然、ラスフ閣下の眉間の皺はいっそう深くなった。
「……貴様はあまりにも無責任だ。その猫は俺が預からせてもらう」
「へーえ。お前よっぽど気に入られたんだなぁ」
上司は私に向かってニヤッと笑って、私を床に下ろす。
「まあ、お前はもうしばらくあいつと一緒にいた方がいいな」
ほら行きな、と上司が促す。
ちっ、結局人間に戻してくれないのかよ……!
恨みがましく師長を睨みつけながら、私はとてとてと閣下の足元に移動した。
師長はまだ、私の魔法を解くつもりはないようだ。それなら指示に従った方がいい。
閣下にまた迷惑をかけるのは忍びないが、こいつの機嫌を損ねたらろくな事にならないからな……!
「にゃーん……(うちの上司がすみません……)」
「いい子だ。帰るぞ」
「にゃにゃーにゃ……(またお世話になります……)」
閣下は壊れ物を扱うように、私をそっと抱き上げてくれた。
「……邪魔したな」
「おう、さっさと帰れ」
「その前に一つ聞きたいんだが。彼女……ティア・ノーウェル副官はどうした。最近姿が見えないが」
急に自分が話題に上ってドキッとした。
師長はこっちをチラッと見て、私にだけ分かるように小さく口角を上げた。本当に意地が悪い男だ。
「あいつは休暇中だぜ。それが?」
「いや、お前の副官が嫌になって、ついに辞めてしまったかと思っただけだ」
「何言ってんだ、俺ほど部下思いの上司はいねえぞ」
くそ上司はふんぞりかえって世迷言を口にした。
めったくそ殴りたい。
「……靴を齧った事を叱りすぎただろうか。悪かった」
執務室を出て、廊下を歩く閣下はいつになく落ち込んでいた。
タイミング的に、私が靴を齧って閣下が叱ったから逃げていった、と解釈してしまったようだ。
いやそれは誤解です、私が悪いんです!とにゃーにゃー言ってたら、少し気分を持ち直したのか、ラスフ閣下は小さく笑った。
「……あの男が本当にお前の主人だったとしても、あんな奴の事はさっさと忘れろ。俺がお前の新しい主人だ。ずっと大事にすると約束する」
低く優しい声で囁かれて、なんだか違う意味でドキドキした。
いや、私は猫……猫だから……とひたすら自分に言い聞かせる。
だから閣下といるのはこわいんだ。