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02. 猫の日常

 


 静かにドアが閉まる音で目が覚めた。

 窓の外が明るい。朝だ。

 いいにおいがして、思わず鼻をひくつかせる。


「……起こしてしまったか。鍛練のついでにお前の食事を貰ってきた」


 すたすたとこちらにやってきた閣下は、動きやすそうなシンプルなシャツとスボン姿で、腰に剣をさしていた。

 実直な騎士団長は、早朝の鍛練を欠かさないという話を聞いた事があったけれど、それがあってこそ、鋼のような強靭な肉体を維持しておられるのだ。私は改めて感動した。

 ストイックで本当に格好いいですね!


 閣下は私の籠のそばにコトリと小皿を置いてくれた。

 ──温めたミルクだぁ!

 急に空腹を感じて、籠からぴょんと飛び出し、皿に顔を突っ込む勢いでミルクをいただく。

 夢中になってミルクを飲む私の背中を、ラスフ閣下は優しく撫でてくれた。

 食事を終えると、閣下に「顔がミルクまみれだぞ」と苦笑され、布で猫顔を拭ってもらった。


 おかしいな。今は子猫だけど、中身は成人女性……のはず……


 何やってるんだろ……と、自己嫌悪で悶絶している間に、閣下はさっさとシャワーで汗を流し、かっちり身だしなみを整えて、「さあ仕事に行くぞ」とふんわり私を抱き上げた。




 ◇◇◇




「この子、名前とかつけないんですか?」

「いや、つけると元の飼い主が現れた時に悪いかと思ってな」


 出勤してきた副官殿に撫でられながら、私はご機嫌で喉を鳴らしていた。

 副官殿は子供の頃に猫を飼っていたそうで、猫の扱いがなかなかお上手だ。今度は、紐の先に丸めた紙を結んだ即席のおもちゃで遊んでくれた。


「ほら、捕まえてごらん」

「にゃあ!(とりゃ!)」


 紙玉を捕まえてガシガシ蹴りながら齧る。

 子猫の体に引きずられて、だんだん猫の本能が強くなってきた気がする。でも楽しいからヨシ。


 働かなくていいし、かわいがってもらえるし、ゴロゴロしてても怒られない。猫最高。

 もう一生猫でいいとか思ってしまった私は、くそ上司に負けず劣らずのダメ人間に成り下がってしまったようだ。でも、猫でいるのは楽しい。


 てしてしと揺れる紙玉に猫パンチを繰り出していると、「中尉、そこまでにしておけ。仕事だ」と閣下が冷徹な仕事人の顔になった。


 副官殿は慣れているのか、不機嫌そうな閣下に全く動じないどころか、「焼きもちですか?」とくすりと笑った。

 びょおおお、とブリザードが吹いて、室内の気温が低くなった気がする。発生源は勿論、あの御方だ。


 鋭い殺気に怯えていると、「ほら、この子が怖がってますよ」と副官殿は笑いを噛み殺しながら閣下を嗜めた。

 長椅子の足の後ろに隠れた私を見て、閣下はスパッと殺気を消した。

 殺気の出し入れ自由とか、器用な人だな。


 彼はそっと私に手を差しのべ、「おいで」と小さく囁く。


「…………にゃあ(はい)」


 ラスフ閣下の足元にそろりと近づいて、すり、と体を寄せる。閣下は安心したようにほっと息を吐いて、「悪かった」と優しく頭を撫でた。

 たまに怖いけど、この人はやっぱりいい人だと思う。




 二日目ともなると、ラスフ閣下の執務室にもすっかり慣れてきた。私……というか子猫の適応力すごい。

 本棚の隙間や棚の下に潜り込み、一人かくれんぼして遊んでいると、


「……こちらにおいで」


 閣下は仕事が一区切りついたのか、穏やかな低い声で私を呼んだ。執務室を探検中だった私は、構って貰えるのが嬉しくて、ぴょんぴょんと閣下の膝に飛び乗る。

 閣下は私を抱いて椅子から立ち上がり、窓際に歩み寄った。

 この執務室は王宮の庭に面していて、たいへん眺めが良い。暫し一人と一匹でそこから綺麗に手入れされた庭を眺めていた。


 室内には私と閣下だけだ。

 副官殿は予算の折衝で席を外している。


 予算かあ……そう言えばそんな時期ですねえ……

 私は遠い目になった。


 予算交渉は副官の担当で、毎年この時期になると胃薬が本当に手放せなかった。

 傍若無人な上司のせいで、財務関係の方々から随分突き上げられ、肩身の狭い思いをしたものだ。


 しかし今年は誰がやるんだろう。今の私はこんなんだから、予算交渉なんて不可能だ。

 大丈夫かなぁ……と戦々恐々としていると、私のふわふわの背中を撫でていた閣下がポツリと呟いた。


「最近、彼女を見ないな」


 彼女って誰のことだろう。

 不思議に思い、閣下の視線を辿ると、その先にあるのは中庭の端に置かれた小さなベンチだった。


 ……なんだか見覚えがあるような。

 よくよく見ると、そのベンチは、たまに仕事を抜け出し休憩を取っていた場所だった。

 上司の無茶振りで胃がシクシクした時は、だいたいあそこでぐんにゃりしていた気がする。


「…………彼女は時々、あのベンチに座って胃薬を一気飲みしていた。だが最近あそこにも来ない。

 仕事が辛すぎて辞めてしまったのかもしれない」


 訥々とした、独り言のような語りかけに、私は「にゃー」と首をかしげた。


 …………あそこで胃薬を一気飲みする女なんてそうそういないだろうし、私の事を言ってる……のかな……?

 ……でも、自惚れだったらめちゃくちゃ恥ずかしい。

 胃薬を貰いに来る王宮の勤め人は少なくないよ、と医局のおじいちゃん先生が言ってたから、やっぱり違う人かもしれない。

 だって私がここに書類を持ってきた時なんか、いつもすごい顔で睨まれていた。

 うちの師長とは険悪だから、そのお使いで来る私も嫌われていたように思う。だから、閣下が私なんかを気遣うはずがない。


 今は猫だからかわいがってくれるし、閣下に優しい所がたくさんあると分かったけれど、人間に戻ったらまたあの関係に戻る。

 それはちょっと辛いような気がする……

 だったらずっと猫でもいいかな、なんて思ってしまう。


 さっきの閣下の切なげな声が、ずっと耳の奥に残って木霊している。それが私のふわふわの胸をチクリと刺した。



 ──あんな風に、閣下に気にかけてもらえる女性が羨ましい。

 一瞬、おこがましくもそう思ってしまった。



 …………いやいやいや。

 何考えてるの私。

 不意にわき上がった想いを打ち消し、私はぶんぶん首を振った。


「どうした?」

「にゃー(何でもありません)」


 閣下の顔をまともに見れない。

 もぞもぞしだした私をひと撫ですると、「さて仕事に戻るか」と閣下は私を下ろし、机に向かって書類の決済を始めた。


 それを眺めながら、後ろ足で頭の後ろをかいて欠伸する。昼寝の時間になったようだ。

 うん。さっきのは寝て忘れてしまおう。


 いそいそと籠に入って丸くなる。眠りに落ちる前に、ふと、うちの予算繰りは大丈夫なのかな……と気になった。

 うーん全く何とかなる気がしない。

 でも知らない。何とかならなかったらマイゼン師長のせいだ。




 ◇◇◇




「あらかわいいわね。どなたの猫なの?」

「ラスフ閣下が拾ったんですって。元の飼い主を探しているそうよ」

「へえ、閣下って猫好きだったのね。意外だわ」


 閣下と副官殿が執務室に不在の間、私は侍女さん達の休憩室に預けられていた。

 彼女達は良家の子女がほとんどで、美人さんが多く、立ち居振舞いも洗練されている。さすが王宮の勤め人として選ばれた方々だ。

 そして皆さんお優しい。私が猫だからだけど。


 一通り遊んでもらって、撫で回されて、温めたミルクと干し肉を柔らかくしたものをいただく。

 皿に顔を突っ込んであむあむ言いながらお肉を噛んでいると、侍女さんの一人が「ラスフ閣下って素敵よね。あなたが羨ましいわ」と私の背中を軽く撫でた。


「でも、いまだに婚約者もいらっしゃらないのはどうしてかしら。上級貴族のご令嬢方がこぞってアプローチしていらっしゃるのに」

「すでに騎士団のトップになられたし、無理に政略結婚をなさる必要がないのよ」

「だとしたら私達にもチャンスがあるって事かしら?」


 一人が冗談めかして言うと、別の侍女さんが人差し指を立ててちっちっと左右に振った。


「たぶん無理ね。どなたか想いを寄せている方がいらっしゃると聞いたわ」

「あら、そうなのね」

「残念だわ」


 くすくす笑い合ってる侍女さん達は、閣下の婚約者になりたいと本気で思ってるわけではないのだろう。これはいわゆるコイバナだ。

 お年頃な彼女達はとてもかわいい。

 同じ王宮内なのに、殺伐とした魔法師団とは別世界が広がっている。


 それにしても、ラスフ閣下は、城のお嬢さん方にたいへん人気があるようだ。こわいお顔しか見たことなかったから少し意外。

 そしてここでも想い人の噂が。やっぱり閣下には好きな方がいらっしゃるらしい。




 ◇◇◇




 仕事終わりにラスフ閣下の私室に連れていかれ、ご飯を貰った。

 お腹いっぱいになって長椅子の上で寛いでると、お風呂上がりの閣下が髪を拭きながらこちらにやってきた。


 私は顔を上げて固まってしまった。

 閣下は上半身に何も着ておられない。彫刻のような裸体があらわになっている。

 お風呂上がりの肌はしっとりしていて、なんだか見てはいけないものを見たような気がする。

 閣下は美しい白金の髪を肩辺りまで伸ばしているが、濡れた髪をそのまま流しており、非常に色っぽい。


 そりゃ侍女さん達にも大人気ですよね……

 思わず両手で顔を隠してると、「何をしてる」と笑った気配がして、大きな手で抱き上げられた。


「今日は一緒に寝るか」


 低い声が、私の胸を問答無用で撃ち抜いた。残りライフがもうゼロだよ………!

 私は閣下の手を必死に抜け出し、籠の中に隠れて寝たふりを決めこんだ。


 ……今の私は猫。ただの猫だから。

 自分にそう言い聞かせる。

 子猫だから閣下は無防備な姿で優しくしてくれるけど、人間の私がうっかり勘違いして好きになったら困るのは私自身だ。


 そうして、少し気持ちが静まった頃。


「……おやすみ」


 一人長椅子に残された閣下の声は、どことなく残念そうだった。



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