01. 猫になってしまった
すうはあ、と深呼吸する。
それから、意を決して、目の前の重厚な扉をノックした。ああ、胃が痛い……!
「王宮魔法師ティア・ノーウェルです。マイゼン師長閣下の使いで、書類をお届けに参りました」
「……入りなさい」
扉に負けない重々しい声が、入室許可を出した。
失礼いたします、とひと声かけて、扉を開ける。一歩中に足を踏み入れた途端──矢のように鋭い一瞥を浴びせられた。
ものすごく視線が刺さってる。物理的にザクッと刺さってる気さえする。
回れ右で逃げたいのを我慢して、部屋の主に書類を差し出すと、彼は「そこに置いてくれ」と、書類入れの箱を冷やかな目で示した。
目の覚めるような美丈夫だ。白金の髪に、切れ長のフロストブルーの瞳。鍛え上げられた長身は鋼の如し。
まるで抜き身の剣のような鋭い印象を与えるこの御方こそ、わが国の誇る騎士団長ルパート・ラスフ閣下であり。
私の上司、ギウス・マイゼン魔法師長とは、犬猿の仲であるとして非常に有名な人物だった。
◇◇◇
「師長~~!ラスフ閣下の所に私をお使いに出すの、やめてくださいよ~!毎回、胃が痛くって痛くって……!」
「ティア、お前は俺の副官だろ。それが仕事じゃねえか」
上司は飄々と笑っている。私は彼をじとっと睨んだ。
「師長……閣下とご自分の関係に、私を巻きこんで面白がってますよね。性格わる」
「何の事だか」
上司はわざとらしく肩をすくめてすっとぼける。私は「くっそう……」と呻いて、こんなブラックな職場なんか捨てて近々転職してやるからな!と心に誓った。
──私の上司、ギウス・マイゼン魔法師長、並びにルパート・ラスフ騎士団長は、昔から致命的に仲が悪い。
馬が合わないとかそういうレベルではなく、二人が顔を合わせたらブリザードの幻覚が見えるくらい、寒々しい関係なのだ。
始まりは、二人が王立学院の同期だった頃にまで遡る。
二人は騎士科と魔法科でクラスこそ違っていたが、どちらも成績優秀で将来を嘱望されていた。
しかし毎年行われる無差別対抗戦では、マイゼン師長がラスフ閣下を押さえて、連勝していたらしい。
うちの上司はえげつない魔法を駆使し、ラスフ閣下から勝利をかっさらっていたのだという。
そのえげつない魔法とは……いや、よそう。ラスフ閣下の名誉のために。
とにかく手段を選ばないマイゼン師長に、ラスフ閣下は、当然激怒した。以来、二人は因縁の仲。
学院を卒業した後もずっと険悪で……というより、ラスフ閣下がうちの魔法師長を、たいへん嫌っていらっしゃる。
とはいえ、それはそれ。これはこれ。個人と組織は別だ。
才能に恵まれた二人は、卒業後、それぞれに所属した組織でトントン拍子に出世し、若くしてトップに上りつめた。今や、騎士団長と魔法師長という、王国の双璧として名を轟かせている。
仕事は仕事として割りきって、一応二人は協力してはいる。でも、仲の悪さは依然変わらない。
馬が合わないのは仕方ない。でも、壁の間に挟まれる私の身になっていただきたい。
ラスフ閣下は、マイゼン師長と会議以外では絶対に口をきかないし、部下の私が書類を持っていくと、毎回おそろしい顔で睨まれる。
私の寿命は確実に縮んだ。男だったら絶対ハゲてた。女でよかった。
そして、私の心労は、ラスフ閣下の事だけにとどまらない。
「マイゼン師長、魔法実験室でこっそり魔物を飼ってますよね!?禁止だって言ったでしょうが!!」
「そーだっけ?」
「ええ、五回も釘を刺しましたとも!あと、先月の実験失敗による爆発の始末書がまだですよ!!」
「はっはっは、完全に忘れてたぜ」
軽い。軽すぎる。
魔法師のトップが始末書ってどういうこと。
ラスフ閣下は部下思いで真面目な方だと評判だ。一方、うちの上司は、いい加減で悪ふざけが大好きという、完璧なダメ人間だった。
魔法の才能だけは有り余っているので、余計にたちが悪い。
そんな魔法師長の副官という役職を押し付けられて以来、私は胃薬が手放せなくなった。
私は下級貴族上がりで、図太い方だと自負している。それでもこのザマである。
神経の細い普通の貴族出身者なら一ヶ月と持たないだろう。
そういうわけで代わってくれる人もおらず、キリキリする胃を労りながら、粛々と仕事をこなす日々を送っていたが────ある日、事件は起きた。
◇◇◇
その日の早朝。
そろそろ本気で転職しよう……とぼんやり考えながら、職場であるマイゼン師長の執務室に足を踏み入れた。
「お早うございま……」
「アブラカダブラ~猫にな~れっ」
そこにいた上司と目が合った瞬間、彼はふざけた呪文を口にした。ほぼ同時に食らった魔法が、私のまわりでぼわんと白煙を上げる。
「…………にゃぁ」
魔法で防ぐ暇もなかった。
もうもうと立ち込める煙が消えた後──あろうことか、私はいたいけな茶トラの子猫に変身していた。上司は呆然とする猫を見て、楽しそうに吹き出した。
「おー、さすが俺。大成功じゃーん。てかティア、お前猫になったら大分可愛げあるな」
「に゛ゃ゛ー!!!(何しやがるてめえ!!!)」
「丁度いい、その姿で騎士団長殿をメロメロにしてこいよ。魔法師団と騎士団の関係を改善しろって陛下からせっつかれてんだよねえ」
「にゃーーにゃにゃーにゃあ!!?(なんで私があんたの尻拭いをしなくちゃならないんだよ!!?)」
騎士団と魔法師団の関係が微妙になったのは、大体こいつのせいである。上司はそれを私に丸投げするつもりらしい。彼は有無を言わさず、「決まりだ」と決定を下した。
「にゃあ!(ふざけんな!)」
「よしよし引き受けてくれるか。じゃあついでにこの書類も持ってってくれ」
「にゃーーー(イヤーーー)」
くそ上司が軽く人差し指を振る。
私の体と書類一枚がふわりと浮いて、ふっと光に包まれたかと思うと、騎士団長の執務室の前の廊下に強制的に移動させられていた。
ていうか、こんな事ができるなら私が書類を持ってく必要なんかなかっただろ!
◇◇◇
勝手に送り出されたあと、私は呆然とラスフ閣下の執務室の扉を見上げていた。
すると、私の気配を不審に思ったのか、目の前の扉がガチャリと開いた。
「……………」
「……………」
高い位置から自分を見下ろす、鋭いフロストブルーの瞳。私は蛇に睨まれた蛙のように動けない。(蛙じゃなくて猫だけど)
「…………どこから迷い込んだ?」
すっと屈んだ閣下の大きな手が、優しく私を掬い上げた。私をふわりと胸に抱き上げ、そばに落ちていた書類をもう片方の手で拾うと、閣下は立ち上がってそれに軽く目を通す。
閣下の眉間の皺が次第に深くなり、憤怒のような怒気が辺りを覆う。
閣下に抱えられた私は、それをもろに浴びた。ブルブルと震えが止まらない。こわい。
一体どんな書類を送りつけたんだ、くそ上司……
マイゼン師長を心の底から呪っていると、閣下の視線が私に移った。途端に、殺気のような怒気がすっと和らいでいく。
「……すまない、怖がらせてしまったな」
思いのほか優しい声音で言われ、閣下は書類を脇にはさんで、空いた手でそっと私の背中を撫でた。そしたら震えはピタリと止まった。
さすが真面目で誠実なラスフ閣下。生き物にも優しい。うちの上司も見習え。
「にゃーんにゃあ……(大丈夫です、でもこれからどうしたら……)」
「お前の飼い主が見つかるまで、俺が保護するから心配するな。悪いようにはしない」
私のたどたどしい猫語に、閣下はこちらの気持ちがわかるかのように慰めてくれた。
やっぱり根はいい人なんだろうなぁ。目つきと雰囲気はちょっとこわいけど。
「閣下、お早うございます……って、どうしたんですかその猫」
「部屋の前にいたから保護した」
「へぇ、かわいいですね」
ラスフ閣下の副官、シャフト中尉が出勤してきた。彼は私を見て目を丸くした。とりあえず猫語でご挨拶する。
「にゃあー(お早うございます)」
閣下は私なんかのために、早速柔らかい布を敷き詰めた籠を用意してくれた。
私はその中で大人しく丸くなっている。
ちなみに籠は長椅子の端っこに置かれている。執務中の閣下がよく見える位置だ。
ということは、向こうからも私がよく見える。子猫の私が悪戯しないように見てくれているのだろう。
でも中身は成人女性なので、そんなことはいたしません。
「人慣れしてるから、どこかの飼い猫が逃げ出したんだろう。飼い主が見つかるまで俺が預かる。見つからなかったら俺が飼うつもりだ」
「なるほど。……なんかこの猫、あの娘にそっくりですね。情が湧きましたか」
くすりと笑った副官殿を閣下がじろりと睨み付ける。
「お前はさっさと仕事しろ」
「ええ、失礼いたしました」
副官殿はさっさと自分の定位置につく。でも私は今の会話がちょっぴり気になった。
ふうん、閣下には想い人がいらっしゃるのだろうか。
堅物だと評判の閣下が、部下とくだけた話をしているのも何だか意外だ。私が来る時は、いつも怒った顔をしているのに。
騎士団の方々のプライベートに触れる機会はほとんどないけれど、上同士はいがみ合ってても同じ人間なんだよね……
新鮮な気持ちになりつつ、私はくあーっと欠伸して、本格的に昼寝を始めたのだった。
騎士団長が会議や訓練に出る間は侍女さんに預けられ、私は無事に猫としての一日目を終えた。
そして夜は閣下の部屋で寝ることになった。
ルパート・ラスフ騎士団長はどこまでも職務に忠実な御方で、緊急時にいつでも騎士団の対応ができるようにと、城の一室を借り上げて寝泊まりしていらっしゃるのだ。
もちろん城下に邸もお持ちだが、ほとんど帰ってないらしい。
突然ふらっといなくなっては、魔物の卵や人食い植物の種を持ち帰るうちのくそ上司とはえらい違いだ。
というわけで、私は閣下に抱っこされて城の廊下を歩いていた。
厳しくて有名な騎士団長が、子猫を抱っこして無表情で廊下を歩いていると、どうしても周りは気になるようで、チラチラと視線を集めている。でも、わざわざ閣下を呼び止めて、事情を問い質す猛者はいなかった。
「着いたぞ、ここだ」
閣下のプライベートルームだ。ちょっとドキドキしながら中に入ると、案外シンプルでものが少ない部屋だった。
閣下は片手に持っていた籠を下ろし、その中に私をそっと入れてくれた。
「にゃーん(ありがとうございます)」
私は籠の中でコロンと丸くなった。
私はもう、完全に開き直っていた。これのどこが魔法師団と騎士団の友好に繋がるのかさっぱりわからないが、傍若無人な上司にさんざん振り回されていた私は、もはや限界を突破していた。
一種の休暇だと思って、猫生活をのんびり満喫してやろう。そう思ったのだ。
仕事?知ったことか。猫にした張本人が私の分まで働けばいいんだ。フフン。
昼間、侍女さんにたくさん遊んで貰い、疲れてたのもあって、目を閉じるとすぐさま眠りに落ちていく。
「おやすみ」
シャワーから出てきた閣下が、大きな手で背中を優しく撫でてくれた。私はうとうとと微睡みながら、小さくゴロゴロと喉を鳴らした。