3 魔術師・テロリスト
セーラーカラーが特徴の高校の夏服に袖を通し、戸締りをして外に出ると五月のさわやかな空気が永遠を迎えた。燦々と青空に輝く太陽の光は暑いくらいだけれど、空気は冷たく心地よかった。飾り気のないボーイッシュなリュックを背負って永遠が自転車のサドルに跨ると、ひときわ風が強く吹いた。
この気持ちのよい晴れの日に、ひとつだけ残念なことがあるとすれば、かすかな血の匂いと独特の硫黄の香り。硫黄とは本来、無臭らしい。だからこれは正確に言うならば、硫化水素の匂いだ。魔術の残り香。誰かが近辺で魔術を使ったことを意味している。
「ナイラ」
神様の名前を呼べば、彼は小鳥の姿で永遠の自転車のハンドルに留まった。気安い神様。永遠の胡散臭い契約者。
「はいはーい、ぼくに御用かな?」
小鳥が中性的な声でさえずる。
「魔術師がいる気配がする?」
「するねえ。魔術の匂いがびんびんするよお。これはもうなにか召喚しちゃってるかもねえ」
なぜ小鳥なのか違和感はあるが、いくら考えてもわからないので無視しようと決めた。
ひとつだけ確かなことは、彼はここにいて、永遠を見ているということだ。
「どうしてそんなことになるまで教えてくれなかったの」
「だってえ、せっかく君とお兄さんが団欒しているときに声かけづらいでしょ? リミットまでもう少しだし、時間ぎりぎりまで楽しんでほしいよね」
他人事のような言い方に苛立ちを覚える。しかしナイラがわざとそういう言い方をしているのは理解しているので、永遠は無言で怒りを押し殺した。いまは時間が惜しい。
「召喚の痕跡のある場所を教えて。いまから向かう」
「もう遅いのに?」
「魔術師を追う手がかりがあるかもしれないでしょう」
「うーん、ぼくのレーダー的には、北港にある工場の近くじゃないかなあ」
即座にスマートフォンを取り出して地図アプリを起動し、道順を示す。ここからさほど遠くない。
制服を汚すのは嫌だが、家に戻って着替える時間は惜しい。鞄からジャージを取り出して上に着用した。ださい。けど汚すよりはまし。
永遠は北港に向かって自転車をこぎ始めた。
現場に近づくにつれ、現実感がなくなっていく。
閑散としすぎている。平日の午前中なのに、車も人も見当たらない。永遠が不審を覚えながら、自転車をこぎ続けていると、道の端に車が停めてあるのが頻繁に目についた。工場の周囲に無造作に止められた車を覗いて確認すると、すべて無人だった。エンジンがかかったまま、ラジオを流しながら停まっている車もある。まるで突然なにかに襲われて逃げ出したような、そんな有様である。
永遠は自転車に乗りながら横目で車を確認し思案する。もしなにかに襲われて逃げ出すのならば、車を使うのではないだろうか。襲われているだれかを助けようとしたり異変をよく見ようとしたりして車を停車させ離れたのか、それとも戻る余裕すらないまま襲われたのか――
車の周囲を調べてみたものの運転手の姿は見当たらないので、永遠は予定通り製紙工場を目指すことにした。自転車をこぎ続けて二十分ほど、ようやく港と海辺に面した灰色ばかりの工場群が見える位置まで来る。
永遠はフェンスに囲まれた人気のない工場の前で自転車を止めて様子をうかがった。工場からは機械の稼働音のようなものが聞こえるが、なかに人はいるのだろうか。なんの異常もなく工場が稼働しているのであれば、永遠が侵入するのは営業妨害になってしまう。工場の巨大な設備の外装には、工場の名前と会社名がでかでかと載せられている。電話番号を調べて、営業所に人がいるのかどうか確認してみてもいいかもしれない。
どうすべきか思案していると、ふいにそれはやってきた。
あまりにも静かに、いつの間に忍び寄っていたのか、それは永遠の利き腕に絡みついた。
「永遠っ! うしろだっ!」
ナイラの警告は間に合わない。
右腕を引っ張られる。
同時に永遠は叫んだ。
「ナイラ、ステッキ!」
刹那、永遠の左手にはステッキの柄。考える隙もなく、永遠は右腕に絡みついた触手にステッキを振るう。それはたいした抵抗もなく、ぷちんと千切れる。すぐさま永遠は身をひるがえして、それと対峙する。
それはぬらぬらと油のような液体を垂らす、紐のような――手だった。
手を伸ばしているのは人間の女のような形状の灰色のなにか。腕はなく、肌は灰色、ワンピースの裾からは腕とみられる複数の手が長く伸びていた。
敵意を感じる。魔術師の異界から呼び出した「化身」だろう。
永遠の意識が一瞬にして切り替わる。
それは再び永遠に触手を伸ばす。永遠はステッキをすばやくそれを刺突の構えにし、触手を刺した。
「ぼこっ、ぼ、ぼこ」
それはぼこぼこっと、水面から空気がわきだすような不快な音をだした。
ナニカはあっさりと触手をひっこめた。警戒からか、永遠から距離をとった。力を失った紐のような腕が、でこぼこのコンクリートに湿った音をたてて落ちる。
「ナイラ、こいつなに?」
「雑魚。あちらの世界の残り香が薄いよ」
「たいした敵ではないのね。わかった」
永遠は右手の無事を確認すると、ステッキを構えなおす。
周囲にはまだ匂いが強く漂っている。どうやらナイラには強弱が嗅ぎ分けられるようだが、永遠にはすべて同じような硫黄の匂いにしか感じられない。ただひたすらに臭い。生命維持の本能が警鐘を鳴らす匂いだ。
「長居は無用。早々に片づけてしまいしょう」
呼吸を整え、踏み込む。下段からの刺突。
「……っ」
敵は永遠の攻撃を身を捻って躱した。ずいぶん軽やかな動きだ。まるで骨などないような。ひらりと捻った体のまま、敵は海に落ちた。
「あっ、逃げるなっ」
思わず叫んだ。
生ぬるい潮風に髪をかき乱されるままにして、潮騒の向こうを眺めていたが、敵は戻ってくることはなかった。
永遠はステッキを消し、しばらくその場に留まって様子をうかがうことにする。
ブゥゥゥウウウウン
塀に腰かけ、しばし陽に焼かれていると、街のほうから風に乗って警報が聞こえた。
同時に工場からけたたましいアラーム音が響く。
工場で無事だった人間が通報したのかもしれない。まもなく警察が工場に駆け付けるだろう。永遠は事態を察して、自転車に跨り来た道を戻った。道の途中、数台のパトカーとサイレンを鳴らす救急車とすれ違う。
永遠を見て、後続の一台のパトカーが車を道の端に寄せた。パトカーの中の警察官に呼び止められ永遠は自転車を止める。
車の窓から渋い表情の警察官が顔をだした。
「そこの君、ちょっと待って。さっき警報が鳴ったのが聞こえなかったのかい」
「聞こえましたけど寝坊しちゃったから学校に急いでいるんです」
永遠は額の汗を拭って答えた。
もちろん汗などひとつも掻いていない。だが警察官から見れば逆光のはずだから、あまり細かなところは見えないだろう。
「学校かあ……。学校なら仕方ないか。気をつけなさい。なにかあったらすぐに避難するんだぞ」
警察官は釈然としない顔つきだったが、面倒なことを言わず永遠を解放した。
「わかりました。ありがとうございます」
永遠は何食わぬ顔をしてその場を離れた。小さく息を吐く。少しだけ緊張した。
急いで自転車でその場を去る。
「警察も毎回ご苦労なことだよねえ。普通の人じゃあちらの怪物を消すのに苦労するのに」
曲がり角を曲がってパトカーが完全に見えなくなると、自転車のハンドルの小鳥がそう嘯くのが聞こえた。
「仕方ないじゃん。無抵抗だと殺されるのを待っているみたいだし、ひ弱で価値のない命だと自分で証明しているみたいだし……。そういえば、前から訊きたかったんだけど、いつから世界はこんなに異形のものに脅かされるようになったの? 前はそんなに出没してなかった気がするんだけど」
魔術師や異界の神に遭遇することが多くなった。
以前はそれほど殺し殺されるようなことは起きていなかった気がする。
永遠はナイラと契約し、目的を果たすために時間を逆行しているが、逆行する前の世界とは「世界の設定」が違うことが度々ある。
この世界では魔術師がらみの異常な事件が起きると、サイレンを鳴らし警戒を促す。
物語の導入風に言い直すなら、「近年、奇抜な事件が多々観測され、政府は国内で頻発するそれらの異常を警戒しはじめている」というところだろうか。
集団昏睡事件や、狂気的な虐殺事件、犯人を目撃したという人間が発狂というしかない状態になり自殺を図ったという異常なニュース。ネット上では「怪奇事件の犯人を撮った」としてアップされた動画が注目を集めた。動画には未知の醜悪な怪物が映っており、作り物かそうではないか議論になったものの、なぜだか一度見ると怖気がとまらないという感想は共通していた。動画のコメント覧には、怪物を見て一時的に錯乱状態に陥ったという書き込みも寄せられた。自分たちが知らないなにかが、見えないところで蠢いて、生活を脅かそうとしているという不安を多くの人が抱いていた。ひと昔前であれば、オカルトといわれたそれが、与太話ではないようだと信じられはじめていた。宗教を信じる人間は世界の終末は近いと説き、現実的な人間は政府に解析や研究、そして対策を求めた。政府は要請を受けて調査した末に、集団によるテロの可能性があると発表した。
集団がなにを目的に暗躍しているのかはわからない。どういった原理で混乱を引き起こしているのかもわからない。わからないことだらけで民衆の暴動が起きそうなほどだったが、ひとつだけ政府は原始的な緩和策を講じた。
それが、異常があった際の警告音。サイレン。一回の警報は屋外へ出ることを推奨しないという意味だ。屋外にいる人間は屋内へ入れという意味の合図でもある。
サイレンの音は日本全国各地域で配備されており、各地域で異常が起きた際に鳴らす仕組みになっている。
「前は警報とかもなかったでしょう?」
かつて永遠はサイレンのない日本で産まれ、生きていた。以前の世界でどれくらいの人数の魔術師が活動していたのか知らないけれど、ここまで大きな日本全国を脅かすほどのテロを起こすほど人数がいたかは疑問である。
「前っていつ?」
「もうとぼけないでよ。えーっとね、一回目の繰り返しのときとか」
「たしかになかった気がするなあ」
要領を得ない返答。
「はっきり答えてよ。私がお兄ちゃんを救うために繰り返しているのって実は世界を壊す行為だったりするの? だから異形は増えたとか?」
「いや、永遠は関係ないでしょ。ただ世界の修正力が効いているんだと思うよ。異形を弾き飛ばそうという世界の意思かな。異形が増えた理由はわからないけど、前の世界より魔術師が多いんでしょ。たぶん」
「それならいいんだけど……」
表面上では納得しながらも、永遠はどこか釈然としないものを感じた。ナイラは神で、永遠の契約者だ。しかし永遠に平然と嘘をつく。こいつは信用ならないと、嘘つきの勘が告げている。
「ねえ、ナイラ。あの工場以外には、なにか強い痕跡とか感じないの?」
「んー、いまはあんまり感じないなあ。あの警察のいうとおり、外に長居はよくないと思うよ。目立つし。それに今日は学校行くって言ってなかった?」
「私とお兄ちゃんの会話を聞いていたの? 聞き耳は不快だって前に言ったでしょ」
「仕方ないって割り切ってよ。契約者の安全を守るためだよ。ぼくは昼夜眠らず三百六十五日、永遠の周りに目を光らせているんだからそのくらい許してほしいなって」
「気持ち悪い。ストーカー」
「せめて24時間警備保障って言って」
ナイラの軽口に付き合うのは時間の無駄だ。
「予定通り、学校に行こうかな……。なにか異変を感知したら、すぐに教えてよね」
「わかったよお」
自転車で来客用に開いている門を通過し駐輪場に自転車を停める。
小鳥はさえずりながら、飛び立っていった。
昇降口の時計で時間を確認すると、時刻は一時限目のはじまりを示していた。