2 朝食風景
◇
「また死んじゃったね。時間を巻き戻そう」
なにもない世界で、ナイラの声が聞こえた。
◇
朝、階下から聞こえてくる物音に目を覚ますと、はじめにやけに重く感じる体を知覚する。あまりの重さにもう一度眠りを望む欲望を抑え込んで、安寧の布団から身を起こし、やっとの思いで制服に着替えて階下に降りる。
丁寧に髪を梳き、紺の靴下を引っ張り上げ、スカートの短さが最適かどうか何度も鏡を確認する。
「……よし」
最終チェックを終えて一階に降りる。目覚めてから三十分も経っていた。
食欲を誘う匂いがする。目覚めるときに聞いた音は、朝食を準備する音だ。
「おはよう、お兄ちゃん。今日は厚焼きベーコンの約束」
「永遠、おはよう。今日はちゃんと起きてきたな。しかも制服に着替えている。えらいぞ」
岸水家の食卓を支配しているのは、兄である鳴海だ。
身長百九十センチの高身長、身長に合わせて横幅もある非常にバランスのよい体格――飾らない言い方をすれば、縦にも横にも大きい巨躯の兄は、その外見に反してかわいらしいエプロンをしていた。永遠の姿を見て、鳴海は拭いていた鍋を置くと、エプロンを外して椅子にかけた。永遠も鳴海の向い合わせの席に腰かける。
四人座れるダイニングテーブルの上には、永遠と鳴海の二人分の食事が用意されていた。オレンジと薄いブルーの色違いのプレートの上には、厚いベーコンとスクランブルエッグとウインナーがのっている。それからお味噌汁と炊き立ての白いごはん。二人はパン派ではないので、おかずが洋食でも必ず白いご飯だ。二人はなかよく「いただきます」と声を合わせて食べ始める。料理は温かく、おいしい。いつも通りの食事風景だった。
「明日は私がご飯作る日だよね。なにが食べたい?」
「あ、親子丼とかどう? 今日、特売セールだからちょうど買って帰れる」
「もー、お兄ちゃんはただ単に卵を消費したいだけでしょー。ちゃんと食べたいものを答えてよね」
両親は仕事が忙しく、終電で帰ってきて始発で出社することが多い。嫌々ながら会社に拘束されているのか、はたまた仕事が楽しすぎて熱中しているのか。あまり両親と会話しない永遠にはわからないが、彼らが家にいる時間は少ない。食事もいつも二人きりで、他愛のない話をしながら食べる。
小学生のときは納得できなかった食事風景も、高校生ともなればさすがに慣れる。
「お兄ちゃん、今日は学校、行くからね」
「あんまり無理はするなよ」
兄が箸を止めた。心配そうな表情で永遠を伺っている。
「無理なんかしてないよ。大丈夫」
永遠は兄を安心させるために笑った。
永遠はあまり学校でのことを鳴海には話さない。だが学校へ行きたがらない永遠の様子をみて薄々と事情を察しているのか、鳴海は永遠を刺激してこない。もちろん学校へ行ってほしいそぶりを見せたり、行かなければ家から追い出すといったことも口にしたりはしない。家にいたいだけいればいい。そう言って、永遠の心の拠り所になってくれる。
「高校なんて絶対に毎日通わないといけないわけではないからな? 中卒はまあ仕事に困るからおすすめはしないけど、通信制とか定時制もあるんだから」
「でも、社会に出たときに、毎日朝起きて出かけるような生活習慣つけてないと苦労するでしょ? いつかは慣れなきゃいけないでしょ?」
「まあ、それは、そう……だけど」
「それに私、留年したらきっと学費だしてもらえないもん。ううん、学費どころか、家から追い出されるかも」
「永遠を追い出すなら、俺も永遠についていくから大丈夫だよ。金はおれが働くから心配しなくていい。もっと永遠が通いやすい学校へ移ればいいから」
「なにが大丈夫なの。そんなことしたら、お兄ちゃん、せっかく付き合っている綾乃さんとの関係もだめにしちゃうでしょ」
「永遠は家族だから綾乃とは比べられないよ。もちろん綾乃のことは大切だけど、比較する対象にならない」
「わたしを甘やかしてばかり、構ってばかりじゃ、お兄ちゃん婚期逃しちゃうよ」
「……自分で解決できない問題を人と協力して解決するのは悪いことじゃないからな。永遠、遠慮なく相談してくれていいんだぞ」
永遠はもう十分鳴海に甘えているし、甘やかしてもらっている。
「シスコン兄貴に甘やかされすぎている件について。シスコン兄貴が過保護すぎる件について。シスコン兄貴が妹離れできない件について」
「早口言葉みたく言うな。俺を必要としているのはお前のほうだろ」
「ふーん、どうかな? 私だってお兄ちゃんが知らないところではちゃんと大人な顔をしているんだよ? っていうか、お兄ちゃんほら、今日も綾乃さんが迎えに来るんじゃないの? はやく食べて学校行ってよ」
ピンポーン。
そのとき、タイミングよくチャイムが鳴った。こんな時間にチャイムを鳴らす人間といえば、一人しか思いつかない。
「綾乃さん! 呼んでくるね!」
永遠は跳ねるようにして駆けて行き、勢いよく玄関を開ける。
そこには予想通り、琴吹綾乃が立っていた。
「おはよう、永遠ちゃん。ちょっと早く来ちゃった。まだ朝ご飯中だよね。外で待っていたほうがいいかな」
「おはようございます! 綾乃さん!」
永遠は綾乃を招き入れる。兄の恋人。体躯が大きいため、乱暴者という印象を持たれやすい兄に似合わない、華やかな外見の女子大生である。手間をかけて巻いてある茶髪、清楚なデザインのワンピースに、ジャケット。綾乃の着ている服はみんな仕立てがよさそうで、どこかのブランドのものだと思われる。綾乃はいつもさりげなく華を振りまいていて、まるで雑誌で紹介されている理想の大学生の姿そのままだ。
いいなあ、と羨望の眼差しを向けてしまう。
「綾乃さんのお洋服、今日も素敵だね」
「ありがとう、永遠ちゃん。今度永遠ちゃんとお買い物に行きたいな」
「私はいつも暇なので、綾乃さんが暇なときに誘ってください!」
綾乃はなにか香水でも使っているのか、ふんわりと甘いにおいがする。
人生を謳歌している若い女性の見本象のような綾乃の姿は、永遠には眩しすぎる。永遠もいつかそんなふうになりたかった。自分にそんな未来がないことは、よく分かっているつもりだけど、綾乃を見るたびに羨ましくて妬ましくなってしまう。――否、妬ましくなんか思っていない。醜い感情は日常では封印している。永遠は翳りを悟られないように綾乃に笑いかけた。
永遠が先導しつつ、綾乃は慣れた足取りでリビングまで来ると、ソファに腰かけた。リビングとダイニングは繋がっているため、ダイニングの食卓にいる鳴海は綾乃の姿に目をとめた。
「綾乃。おはよう」
「おはよう、鳴海。そういえば英語のレジェメ、今日までだけどできているよね? 提出する前に確認しあおうよ」
「それなら昨日のうちに完成させた」
「見たい」
「うーん、たしかファイルに入れたはず……あ。ゼミ室に忘れてきたっぽい」
「じゃあ取りに行かないとね。早めに出る?」
「いや、先輩に連絡してみる。届けてほしいって……。あそこまで昇るのめんどうなんだよね」
鳴海がなにやらスマートフォンをいじっている間、綾乃は物憂げな表情になった。
「鳴海のゼミ室はずいぶん居心地がいいみたいだね。こっちは先輩たちの仲が悪くて居心地が悪いよ。あの先輩たちがいなければ、課題ももっと進むのになあって思う」
「いや、うちのゼミも先輩は鬱陶しいよ。こっちに構わなくていいから、自分のことに集中してくれって感じ」
「え、でも可愛い後輩を構ってやるって感じなんでしょ? いいじゃん?」
綾乃は物憂げな表情を一転させて、からからと明るく笑った。傍に大好きな人がいると、それがどこでも、どんな状況でも明るい気分になれるらしい。鳴海もごはんを口に運びながらも、綾乃のほうを向いてにこにこしていた。
二人とも永遠のことを忘れている。
仕方ないので永遠は食べ終わった食器を片づけながら、二人に口を挟んだ。
「綾乃さん、お兄ちゃんをはやく学校に連れて行って。さっきまでお兄ちゃんは、わたしの世話をやきすぎだって話をしていたの。後片付けとかはしておくからはやく行って、レジェメとやらを仲良く見せ合いっこして」
「え、でも、永遠は」
「わたしのことはいいの! 綾乃さんを優先して!」
見せつけないで――と言いそうになり、言葉を飲み込む。
「永遠ちゃん、どうかしたの? なんか気分悪い?」
「……やっぱり、今日は学校なんて行かなくてもいいんじゃないか」
異変を察してか、気が付けば綾乃が永遠のすぐそばに来ていた。
鳴海も心配そうにそう言う。鳴海の温かくて大きな手が永遠の額に触れた。
永遠はかぶりを振った。
「いや、なんでもないよ。心配しないで。はやくお兄ちゃんたちは学校行って。戸締りとかはやっておくから心配しないで。ね、ほら、はやく」
綾乃と鳴海が目配せしあった。
「わかった。でもなにかあったら、早めに相談しろよ」
「そうだよ、永遠ちゃん。なにか悩んでいて、鳴海に相談しにくいことだったら、私に言ってくれてもいいんだからね。私は永遠ちゃんのこと大好きよ。妹みたいに思っているから、なにかあったら頼ってね」
「心配してくれてありがとう。お兄ちゃん、綾乃さん、私も二人のこと信頼してるから」
永遠は食器を洗っている間に鳴海の支度が終わり、二人は家を出て行った。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
見送りが終わって、静かな家にひとりきりになる。食器を洗いながら、物思いにふけった。
永遠は二人がいつどこで出会ったのかも、どのようなイベントを重ねて、交際に発展したかも知らない。二人で会っているとき、どこに行っているのか、なにをしているのかも聞かない。綾乃と鳴海の関係が良好なものなのかもわからない。でも永遠の最初の世界の記憶では、綾乃は鳴海の亡骸の前で慟哭していた。歳を重ねても綾乃は鳴海のことを忘れなかったし、忘れようとする素振りもなかった。事故で命を奪われるまで、綾乃は鳴海の命日に必ず線香と生花をあげに家を訪ねてきていた。永遠はそんな綾乃の愛情を信じている。
永遠の願いは一つだけだ。兄に幸せになってほしい。それだけ。
だから、少しの嫉妬くらい目を瞑れる。




