1 最悪なはじまり
それが恋ではないかと指摘されたのは、中学一年生のときだった。
「みんなは好きな人がいるの?」
宿泊研修でのありきたりな女子の報告会。深夜布団にくるまり、巡回に回る教師に気づかれぬようこそこそと話し合う。研修施設は綺麗に掃除されていてもどこか古い住居のにおいが染みついていて、なかなか寝付けない。みんな眠気のこない時間を持て余していた。
「私は沢渡君が好きだよ」
「沙耶ちゃん、人気者同士お似合いだね」
同級生の一人がそう口にする。
嫌味っぽい言葉だが、二人の容姿を見てみればなるほどそれは現実に対しての評価だった。
梶間沙耶。沢渡紅蓮。どちらも子役やモデルとして活躍していてもおかしくない、優れた容姿をしている。おまけに話術も達者で、クラスの中心人物の二人だった。
永遠の番が回ってくる。永遠は声をか細くしながら、言った。
「私は恋愛感情はほかの人に感じたことがないよ」
「えー、うちらの年齢で? それはおかしいよ。だれひとりいないの? いいなって思う、男の子」
言外にお前は女色ではないかという響きがあった。永遠はなおさら焦って、心の中にある男性の像を思い出そうとした。男性。だれでもいいから、男性。
「えーっとね、お兄ちゃんが好き……かな」
だからその名前を出してしまったのは、計算してのことではない。
「え」
「いっしょにいていちばん愛情を感じる人、うん、お兄ちゃん」
運動会のお弁当は兄が作ってくれて、制服のワイシャツには兄がアイロンをかけてくれて、家を掃除してくれるのもすべて兄だった。私の世界は小学生のときから変わらず兄によって整地されて、私は兄の愛情の上で生活をしていた。
「近親……」
誰かがふざけるような声で呟く。
それで永遠はどうみられるのか事態を把握した。
「永遠ちゃんはお兄ちゃんが好きなんだね」
沙耶がそう言ってくれて、その場の空気が和んだ。
けれど。
永遠に対する陰口は、そのとき、ネタを得たのだ。
◆
「世界はとうの昔に壊れている。だからこそ、この際、もっと壊して愉快に都合よく作り変えたっていいでしょう、なあんて。許すわけないでしょ」
少女はまどろみのなかで、独白する誰かの声を聴いた。
体は温かい柔らかさに包まれて、ただ思考だけが現実の枷から外れて浮遊している。ふわふわと浮かぶような心地。気持ちがいい。
独白の内容などに興味はない。誰かが言ったように聞こえたが、誰かではなく自分の心象が現れた幻聴だったかもしれない。いずれにせよ、この心地よさにはすべてのことが些事に思える。
ただこの感触が愛おしくて、守られているようで、ここから離れがたかった。
幼児のように何も考えず、ここで生きていたい。
「主人公はあなたじゃないんだから。この世界は私のための世界なのよ」
ぼんやりしながらこの世界に「主人公」はいるのだろうか、などと益体のないことを考える。
――「主人公」
――あるいは「世界の中心人物」
――もっと尊大な表現を用いるなら「神様」
キリスト教では、神は世界を作った。だが君臨することはなかった。神は人間に「光あれ。地に満ちよ」と祝福を与えながらも、人間が地に満ちやがて地に数を増やしすぎたゆえの国家間の闘争が活発になるにつれ忘却された。
神は人の数だけいる。宗教は人の数だけあっていい。
古今東西、人間が生まれてから、幾億年――この何十億という人間が生きる世界にはいまだすべて知ることはできないほど膨大な数の宗教があり、それこそ邪教として掃討された宗教も含めれば何千という神様がいたはずなのに、神の姿を見たり声を聞いたりするのは特別な人間として決まっている。呪術師、神官、巫女、聖人、聖女――限られた特別な人だけが神を知覚できる。
それって、とても不思議なことではないだろうか。みんなが神を知覚できれば、神は忘却されることもなかったはずである。神様、忘れられてかわいそう。いま世界の主人公はどこでどうしているんだろう?
ぼんやりと、そこまで考えて――岸水永遠の意識は覚醒する。
「うっ」
頭に鈍い痛み。咄嗟に手で頭を抑え、指に伝う生ぬるい感触で戦闘中だったことを思い出す。ほんの短い間だが意識をどこかに飛ばしていたらしい。周囲を見回せば、そこは立体駐車場で、空気は張り詰めている。永遠の傍には永遠の作った小さな血だまりと、得物である鉄のステッキが転がったままで、じゅうぶん惨状といえた。
一式十万近くした趣味のゴシックロリータの衣装はぐちゃぐちゃに汚れてしまっている。お気に入りのブランドのものだったが、もう二度と着ることはできないだろう。
この世界は、もうすぐ終わる。
階段を上る足音が響く。
「お兄ちゃん、来ちゃだめ……っ! お願い……!」
永遠はこの先の展開を知っている。運命を知っていて、もはやこの体では避けられないことを悟っている。だが諦めるわけにいかないこともわかっていた。永遠が諦めたら、誰も助からない。永遠も、永遠自身を助けられない。ここで諦めるなんてことはできない。
失血のしすぎで寒い。もう死が近い。震える手でステッキを握る。覚束ない足取りで、立ち上がり、階段を目指す。駆ける。
「はあああああああっ」
渾身の力をいれて叫ぶ。ステッキをまだ見えぬ敵に向け突進する。
まるで示されたように、深紅の外套を纏った男が上階から現れる。緩慢な足取り。警戒なんてしていなさそうな動き。手負いの獲物なぞ本気でかかればすぐに殺せるという侮りが透けて見える。
ステッキを振るう。
子供がじゃれついてくるのを適当にいなすように気だるげに彼は半身をそらして、永遠の攻撃を回避した。
「……っは!」
永遠は即座に腕を引き戻す。
男が外套の裾に隠していた剣の切っ先を永遠に向けたのがわかる。リーチの長さでは永遠に分がある。だが男の動きを封じるために、あえて踏み込み再び突進する。
男は身軽にしゃがみ、抉るように剣を突き出す。永遠はそれを避けられなかった。男の持つ剣の刀身は永遠の腹に深く突き刺さる。
「うっ、うぅ……」
呻く。強烈な痛みが、熱が、腹部にひろがる。心臓の鼓動を耳元に感じる。耳鳴りがした。意識が遠のきかけて、再び戻ってくる。
騒ぎの音を聞きつけたのか、階下から聞こえていた足音はやんでいた。こちらの気配をじっとうかがうように、立ち止まっている。
男は剣をひきぬいた。血が足元に大量に零れ落ちる。
永遠は倒れこみそうになるのを、必死に耐えた。
「……ぐっ、ふっ、……。逃げて、お願いだから、はやく……」
腹部を片手で抑え、もう片方の手でステッキを構え下段から薙ぎ払う。もちろん先ほどまでの攻撃より速度も威力も劣る。男がそんな生ぬるい攻撃を甘んじて受けることもなく、軽く避けると剣を永遠へと突き出した。永遠は半歩後退したが、見切りを誤り切っ先が頬に触れる。小さな血しぶき。腹部も頭部も痛い。自分の荒い息が聞こえた。立っていられなくて倒れる。
「ゆるさない、から。今度こそ、今度こそ、私は……」
思考が勝手に口に出る。感情がこぼれていく。痛みや死への本能的な忌避で、脳が正常に働いていない証左。勝手に口から洩れる言葉で意識をつなぎとめる。「私」は世界を恨んでいる。だから死んではいけない。
男は執念で生にすがる少女を嘲るでもなく、かといって憐れむでもない無感動な目で見ていた。
「……我らの神を否定するのか、娘」
意外にも、男の声は厳かな響きを帯びていた。
「神は……。神なんていないよ。誰かを都合よく贔屓してくれるものなんてこの世界のどこにもいない」
記憶と経験が呼び起こされ、神に対して絶望と憎悪があふれ出す。
男のいう「神」は魔術師の始祖を指す。すなわち、起源に近い、異空間からやってきたナニカ。
永遠が戦ってきた魔術師はたいていそれらを、こちらの世界に呼び寄せようとして、制御できずに暴走させていた。
人間一人を都合よく助けてくれる神様なんていないのは神話で散々語られている。どれだけ神を崇め奉ろうとも、世界で大規模な災害が起きてたくさんの人の命の灯が消えようとしても、神は特別な恵みの一つも与えてくれはしない。まともな感覚を持つ人間なら信仰で心を救うことができても、現実を変える力がないことに気が付くだろう。自分を救うのは自分だ。自分を殺すかどうか決めるのは自分だ。それが常識。自分で問題を解決することを諦めさせて、神頼みをさせる神様なんて人間を堕落させるだけだ。
「そんなに神頼みしたいことでもあるの?」
「――……ただ世界に神の恐ろしさを思い出してほしいだけだ」
「くだらない理由だね……。そんな理由で平穏に生きてる人たちを巻き込んで殺すんだ。つまらないね、笑っちゃうね」
「黙れ」
「そんなご高尚な理想を掲げてたって、私のお兄ちゃんの未来を奪うなんてこと許せないよ。あなたたちは考えたことあるの? その理想の下で潰れる命や幸せを、ただ平穏を望む人たちのことを。世界を救うのだのなんだのって言って、真の意味を考えたことあるの?」
「黙れ」
「黙るのはお前だよっ。やってることや言ってることの次元が低い! お前らくっだらねえんだよ!」
永遠は最期の力を振り絞り、ステッキを顕現させようとする。
今度こそ本当に、男の刃は永遠の腕を飛ばした。
「あはははははははははは!!!! 痛い、痛い、痛い!!!!」
血しぶきのなかで、永遠はのたうち回って笑った。
今日、永遠は兄と遊びに出かけた。ゲームセンターで見かけた魔術師を始末しようとしたら失敗した。ああ、つまらない。こんなつまらないくだらない世界なんか嫌いだ。魔術師の始祖なんて嫌いだ。こんな世界を作ったやつなんて嫌いだ。
みんな死んでしまえ。
「こんな世界なんて壊れてしまえばいい。世界中のみんなが死ねばいい。みんな滅べ……滅べ……滅べ!」
痛みでのたうち回りながら、脳裏に浮かぶ呪詛を叫ぶ。
いつか誰かが永遠の行動に同情して肯定してくれると思うほど、永遠は夢見がちではない。きっと永遠の不幸は世界にありふれたものだ。年月をかけて受け入れて然るべき不幸だ。でも、そんなふうに当然のようにある世界が嫌いだ。こんなつまらなさを許容してしまう世界が憎い。みんな死ね。
「ふん、大義なく我を滅ぼそうとした痴れ者。くだらぬ。時間の無駄であったわ。死ね」
「愛している人を殺す世界なんか、壊れてしまえばいい!」
喉を枯らしてそれでも叫んだ。
最後に見たのは男の刃。
憎しみに身を焦がしながら、少女は一人、息絶えた。
その瞬間、契約は発動する。