第十九話 豹変したあの人はもう来ない
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私はベアトリス・リンゼー。窓のない部屋に閉じ込められている。ここに連れて来られて一体どれほどの日にちが経ったのか分からなくなってしまった。
漆喰の壁、小さなテーブル、そして小さなベッドがあるだけの部屋。
テーブルの上に乗せられたランタンの炎が小さく灯っていたけれど、今は油も切れてしまって真の闇の中に沈んでいた。
初めて訪れた王都リジェの王宮、見上げるほどに素晴らしい建築物、青空を突き上げるような鋭い純白の尖塔たち。華麗な王宮の中にある、花壇の一つもない、芝生だけが広がる小さな中庭で、クリス様の忘れ物を届けに来ていた私が、
「まあ!あなたヒロインじゃない!」
と、声をかけられてから、私の運命はガラリと変わってしまったのだ。
実の父親がブリタンニア王国のジョアン第六皇子である事を知り、王家の血を引く私を、隣国メロヴィングが利用したいと考えていること知った。
「私は未来が予言できるのよ」
と言って笑った、可憐なベネディッタ様の笑顔が思い浮かぶ。
娼館で生まれ育ったベアトリスにとって、自分が主役だと言い張るベネディッタと話をしても、なんだか現実感のない非常にふわふわした話だなと、そんな風にしか感じられなかった。
そうしている間に、メロヴィング人が現れて、ヴィトリアと入れ替えられる形でカルダスへと行くことが決定した。最後まで一緒にいてくれた侍女のベラも、もう居ない。
公爵家でも下級メイドとして働いていたベアトリスにとって、公爵令嬢としての振る舞いを続けることは難しく、人と顔を合わせて話をすることが苦痛でしかなかった。
相手が平民であれば幾らでも誤魔化しが効くというのに、貴族相手だとそれが上手く出来ない。
王都の主要な貴族はすでに新大陸に移動しているため、今、ルシタニアに残っているのは木端に分類される貴族のみ。フォルハス公爵令嬢の顔を知っている者はいないだろうが、それでも重くのしかかる緊張の日々。
「そんなに気にする必要はないんだよ」
そうベアトリスに言ったのは、テレサ夫人を頼ってカルダスの領主館へとやってきた歴史学者のモウリーリョだった。
インディナの宗教を専門にするモウリーリョの話す言葉は難しいものだったけれど、貴族然とした扱いも話し方も必要としない学者を相手にするのは、ベアトリスにとっては息抜きの一つになっていたのかもしれない。
公爵家で働いている間も、息抜きに話をする相手は沢山いた。モウリーリョも扱いとしてはその中の一人に過ぎない。
まさか・・まさか・・あれほど可愛がってくれたテレサ夫人を殺してくるなどとは思いもしない。
「だって・・僕が愛しているのは君だから・・」
血まみれのナイフを持ったモウリーリョは、部屋中に鶏の血液を撒き散らしながら言い出した。
「神の慈悲をここで願うから大丈夫だよ、儀式は整った。君はこれで僕のものになる」
今まで無害そのものだった歴史学者は、ペリグリンという婚約者が現れたことで豹変をした。
「一緒に逃げよう」
彼はそう言って、血まみれの手でベアトリスの手を握りしめたのだった。
彼の瞳孔が開いたように見える目がとても怖くて、
「怖い・・・」
と思わず口に出したのがまずかったのだろう。そのまま意識を失ったベアトリスが次に気がついた時には、この部屋に閉じ込められていたのだ。
モウリーリョは何度も何度もベアトリスを凌辱した。食べ物を持って来てくれるものの、その度に体に手を伸ばされるので恐怖を感じてしまう。
窓の一つもない部屋には空気が通る穴はあるようだけれど、出入りする入り口が巧妙に隠されていてベアトリスには見つけることが出来ないのだ。体も洗えぬままに汚されるだけ汚されて、ベアトリスの意識が濁るようになってくる。
あれほどベアトリスを渇望したモウリーリョも、ある時出かけたまま帰って来なくなってしまった。彼が置いて行った水もなくなった。ベアトリスはここで、死ぬのかもしれない。
「ああ・・私の人生って一体なんだったんだろう・・・」
モウリーリョが来ても地獄、来なくても地獄。赤の他人が私の元へ来てくれたら、少しは救いがあるのかもしれないけれど、敵国のスパイは絞首刑。結局死ぬ運命にあるのだろう。
ああ・・喉が渇いた・・・
「ねえ!ねえ!お兄ちゃん!ここ、硬くて無理だから壊してもいい?」
「ああ、別にいいんじゃないか?」
「じゃあ壊しちゃうから!お兄ちゃんは後ろに居てね!」
突然、壁の向こう側から誰かの声が聞こえて来た。漆喰の壁がみしみしと音を立てている。バラバラと音を立てて漆喰が剥がれおち、ぐずぐずと音を立てながら壁が歪んでいく。
「あああ!」
悲鳴と共に壁が崩れて、一人の男が部屋の中に転がり込んできた。真っ暗な中に差し込むランタンの光から、まだ、外が暗いのだと理解する。
「お兄ちゃん!人がいたよーー!」
「ケイショ、よくやった、よくやった」
大の男の頭を、犬のように撫で回しながらやってきた黒髪の男は、切長の瞳で睨みつけるようにしてベアトリスを見ると、
「まさか、本当にいやがったとはな・・・」
と、呆れた声をあげたのだった。
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