幸福チップ実現委員会
幸福チップ実現委員会の会議室ではスーツ姿の男たちが円卓を囲むように座り、誰もが神妙な面持ちで委員長の発言を待っていた。
会議室は白を基調としたデザインで設計されており、壁紙はもちろんのこと、中央に置かれている長机やリノリウム張りの床も潔癖さを感じられるほど、真っ白に染められている。
会議室の白さとは対照的に、机を囲むレザーの椅子とそこに座るスーツの男たちは、黒色で統一されており、部屋の中では、まるで異物が紛れ込んだかのように異質な存在感を放っていた。
委員長は深く皺の入った顔を上げ、ゆっくりと辺りを見渡す。誰も彼も酷く疲れた顔をしているが、委員長のことを余程信頼しているのだろう、委員長を見つめる目には不思議と力が入っている。
誰もが委員長に注目する中、委員長がゆっくりと立ち上がると、スーツ姿の男たちも次々と立ち上がっていく。
「幸福チップ実現委員会! 理念復唱!」
委員長のバリトンボイスに男たちの表情が引き締まる。
「一つ! 世界の平穏と幸福を目指し、人類に貢献する組織であること!」
「世界の平穏と幸福を目指し、人類に貢献する組織であること!」
「二つ! 世界に蔓延る苦悩と悲哀を取り除き、幸福な未来を実現すること!」
「世界に蔓延る苦悩と悲哀を取り除き、幸福な未来を実現すること!」
「三つ! 自然環境と調和し、環境に配慮した施策を心がけること!」
「自然環境と調和し、環境に配慮した施策を心がけること!」
委員長の言葉に続けて、男たちが理念を復唱し終えると、委員長は満足した表情で再び椅子へと座る。男たちも委員長に続き、席に着く。
「諸君、緊急の呼び出しにも関わらず、早急に集まってくれて感謝する。諸君を集めたのは他でもない、我々にとって実に喜ばしい情報を入手したからだ。今日は記念すべき日となることを心から信じてやまない。間口、早速、報告を聞きたい」
「わかりました、幸田委員長。私、間口のほうから報告させていただきます」
間口はコホンと、咳ばらいをすると円卓の中央にホログラムが映し出される。ホログラムにはグラフや表といった統計データが浮かんでおり、間口が手元を操作すると統計データの内の一つが大きく表示される。
「御覧の通り、我々の技術の結晶である幸福チップの導入が全国民へと行き渡りました」
間口の自信に満ちた発言に周囲が感嘆の声を上げる。
「手術が難航していると聞いていたが」
「はい、それはチップの小型化により解決いたしました。従来のチップの大きさですと頭蓋骨を切開して脳へ埋め込まなければなりませんでした。しかしながら、近年開発されました極小チップにより耳から脳へチップを移植することが可能になりましたので、手術時間の大幅な短縮、並びに早い回転率を実現することができました」
「素晴らしい成果だ。確認だが、統計データに載っていない国民がいるということはないか」
「それはあり得ません。幸福チップは住民登録も兼ねておりますため、チップを埋め込まれていない人間はそもそも国民としてカウントされませんから。先日のご報告通り、非国民並びにレジスタンスの制圧も既に終わっております」
「幸福チップに不備はないか」
「問題ございません。何度も治験を行い、ありとあらゆる身体的ダメージ並びに精神的ダメージを受けても幸福な状態を保つことができることを確認済みです」
「レジスタンスも哀れだな。幸福チップのおかげで不眠不休で戦える軍隊に適うはずがないということを最後まで理解できなかったようだからな」
「ええ、全くもってその通りです。そもそも彼らは道徳を理解していない野蛮人共ですから。子供を人質に自分達の意見を押し通そうとするなんてもってのほか――」
今まで快活に話をしていた間口が突然、口を紡ぐ。間口の表情にはしまったという焦りの表情が見える。
「……いいんだ。幸田事件のことを口にしてもらっても構わないよ」
「しかし、委員長……あの事件は……」
「そう、私の妻と娘がレジスタンスによって殺された。しかし、その残虐な事件のおかげで、幸福チップ実現委員会が民意を得られたのだ。委員会にとっては決して目を背けてはいけない事件だよ」
幸田事件とは、幸福チップ実現委員会の委員長である幸田の妻と娘が委員会と敵対するレジスタンスによってさらわれた事件のことである。
当時のレジスタンスは幸福チップ実現委員会の生み出した幸福チップが如何に間違った幸福をもたらすのかを示すために、幸福チップの最初の被検体となった幸田の妻の目の前で娘をいたぶり、最後には惨たらしく殺してしまう映像を世界中に生放送で公開したのだ。
映像には娘がいたぶられているにも関わらず、幸田の妻は脳に埋め込まれた幸福チップの力により涙一つ流さず、娘が死んでも尚、笑顔であり続けたという。そして、妻本人が痛めつけられていても、やはり笑顔は絶えず、最後の死ぬ瞬間まで笑い続けていた。
レジスタンスはこの映像を流すことによって、幸福チップが如何に現代の倫理観からかけ離れたものであるか示す目論見があった。確かにその目的は達成され、レジスタンスに賛同する人間は一定数存在したという。しかし、レジスタンスのあまりの残虐さに嫌悪感を抱くもののほうが多く、結果として、世間は幸福チップ実現委員会を支持するようになった。
また、幸田夫人が娘の死に直面した際に、慌てて駆け寄り、優しく抱きかかえた姿も印象的であった。幸田夫人の行動により、幸福チップを埋め込まれたとしても、決して人間性が失われたわけではないのだということが世間に示され、幸福チップ実現委員会の活動が本格的に世間に認められるようになったと語る専門家もいるほどだ。
凄惨な事件が起き、妻と娘を失ってなお、決して心を折ることなく、委員長として委員会を牽引してきた幸田委員長がスタッフ全員から全幅の信頼を得ているというのは言わずもがな、世間からの評価も高い。幸田委員長が委員会を率いているからこそ、市民は安心して幸福チップを埋め込むことができるのだ。
こういった経緯から、幸福チップ実現委員会の隆盛を語る上で幸田事件は最も重要な出来事の一つであると言われている。
「皆、これまでよく頑張ってくれた。皆の働きがなければ、決して大いなる目的は達成できなかった」
「そんな……やめてください、幸田委員長」
頭を下げる幸田委員長に皆が慌てた様子を見せる。
「幸田委員長がいたからこそ、私たちはここまでやってこれたんです」
「むしろ、感謝するのは私たちのほうです」
幸田委員長が顔を上げると、彼の目にはスーツの男たちが皆、立ち上がって幸田委員長に対し敬礼をしている姿が映っていた。その様子を見て、そうか、と一言呟くと、彼もまた、立ち上がる。
「それでは、皆、幸福チップを移植しに行ってくれ。既に手配済みだ。これで、皆が不幸という概念を感じることはない」
「……委員長も一緒に行かれないのですか」
「私はもう少しここに残るよ。人類最後の不幸は私でないといけないからな」
「そうですか……それでは」
男たちはもう一度委員長に敬礼をすると、順番に会議室から出ていく。そして、最後の一人がいなくなると、幸田委員長は一人、椅子に座り、天井を見上げ始める。
「不幸を知らなければ、幸福を定義できない……だから、私たちは最後まで幸福チップをつけることができない、か」
彼は委員会を発足したときにスタッフに告げた言葉を思い出していた。委員会関係者が幸福チップをつけるのは最後の最後と決めていた。なぜなら、委員会が不幸を根絶しようとしたら、不幸を認知できなければならないからだ。
幸福チップをつけてしまうと、チップの作用により、不幸という状態が強制的に排除され、不幸を感じ取れなくなってしまう。そうなってしまうのは委員会に従事する人間として非常に不味い。だからこそ、幸福チップはつけられないのだ。
幸福チップがつけられない限り、自身は幸福にはなれない。それどころか、より不幸を身近に感じてしまう。幸福チップをつけている人が見せる笑顔に何人ものスタッフが耐えられなくなり、幸福チップの移植を申請したほどだ。
幸田委員長は彼らの要求を呑んだ。幸福チップを移植したいものには移植させたが、代わりに重要なポストからは外された。幸田委員長にとって、不幸を感じられないものは委員会に必要ないからだ。
そうして、委員会の上役は最後まで幸福チップを移植しないと決めた者たちだけが残った。皆、幸田委員長に心酔し、不幸を感じてまでも、その大いなる目的のために着いて行こうと決めた者たちだ。
その彼らも、全国民に幸福チップを移植するという目的を達成した今、幸福チップを移植しようとしている。後、幸福チップを移植していないのは幸田委員長のみとなった。
「私には罪がある。決して許されない罪だ」
幸田委員長の罪は二つある。
一つは妻を幸福チップの最初の被検体にしたこと、そしてもう一つは妻と娘を殺したことだ。
幸福チップが開発された時、彼は研究所の所長だった。彼の生み出した幸福チップは脳に電気信号を送ることで、辛い体験を瞬く間に消し去ることができる。いじめも親族の死も失恋も、個人に降りかかるであろうありとあらゆる不幸を幸福チップでなかったことにできるのだ。彼は幸福チップが必ずや人類に役立つものであると信じてやまなかった。
しかし、幸福チップには問題があった。幸福チップはその性質上、どうしても脳にチップを埋め込まなければならず、人体への悪影響を否定できないとして、国から許可がどうしても下りなかったのだ。
実現のしない研究に価値はない。幸福チップは崖っぷちに立たされていた。
だから、彼は秘密裏にパトロンを募った。幸福チップの実現に賛同する人を集めて、資金と場所と人材を用意したのだ。パトロンたちは彼の理念に賛同した。誰もが不幸に見舞われて、幸福に生きたいと強く願っていた人たちばかりであった。
そしてある時、パトロンの一人から、質問が上がった。幸福チップは本当に効果があるのかと、もしあるのであれば、私は協力を惜しまないと。彼に同調し、他のパトロンたちも同じように声を上げた。
彼は焦っていた。もし、この機会を逃したら、幸福チップ実現しないかもしれない。生涯をかけて作ってきた研究が無駄になってしまう。しかも、肝心の被検体がいない。彼には被験者を募る時間もなかった。
そして、彼は思い悩んだ末、実験台として自分の妻を使うことを決めた。妻は被検体になることを拒むどころか、彼の理想に賛同し、その協力がしたいと自ら志願したのだ。
結果として実験は成功し、幸福チップの有用性をパトロンたちに示すことができた。しかし、彼の心の中には大きな罪悪感が残った。自分の妻を実験体に使うなど、決してあってはならないことだ。もしかしたら、幸福チップなどないほうがよいのではないかと、そう考えることも何度もあった。
しかし、彼の悩みと裏腹に、幸福チップはパトロンたちの手によって広められていった。政府関係者や報道陣を巻き込んで、宣伝され、遂には幸福チップ実現委員会まで発足してしまった。彼は幸福チップ実現委員会の委員長に祭り上げられ、委員会の活動を指揮するようになってしまう。
彼はもう引くに引けなくなってしまった。幸福チップと彼の理想は、大勢の支持者に共有され、もう彼自身制御することが出来なくなってしまっていた。
そして、遂に彼は重要な決断を迫られることになる。
幸福チップ実現委員会はあまりにも規模が大きく、世論から危険な新興宗教だと認定された結果、政府も見過ごすことができなくなり、とうとう国から幸福チップ開発の中止を勧告された。
幸福チップ開発の中止はすなわち幸福チップ実現委員会の解散に他ならない。支持者にとっての死刑宣告にも等しい勧告だ。
彼は幸福チップ実現委員会を何としても存続させなければならなかった。妻を被検体にするという罪を犯してしまったのだ。もう後には戻れない。
幸福チップ実現委員会存続のためには世論を味方につけなければならない。そう思った支援者たちは一つのシナリオを用意した。
人を雇い、幸福チップ実現委員会に敵対する勢力と称して幸福チップの使用者に対して過激な暴力行為を行えばいい。そうすれば、世論の非難の目は敵対勢力に向き、幸福チップ実現委員会から目を逸らすことができる。言ってしまえばただの自作自演であるが、本格的な対策を取るための時間稼ぎになる。
そうやって、支援者たちは幸田を説得すると、彼は何日も悩んだ末、遂に自らの妻と娘を差し出すこととなった。
しかし、支援者たちは、単なる時間稼ぎにするつもりはなかった。委員会には世論が味方になるような決定的な出来事を望んでいたのだ。
そうして、悲劇は起こる。
彼の娘が死に、妻が殺される、世にも凄惨な幸田事件が引き起こされてしまったのだ。
幸福チップ実現委員会が生き残り、代わりに妻子が亡くなった幸田は悲しみに暮れるも、決して委員長の座から降りることはなかった。彼にはもう幸福チップ実現委員会と幸福チップしか残っていないのだから他に選択肢がなかったのだ。
そして今、彼はその委員長の役目を終えようとしている。幸福チップを実現し、自分以外の全国民に搭載した。後は、最後に彼自身が決めていたことをするだけだ。
「私は人類の幸福のために、妻を殺し、娘を生贄にした……」
彼は自らの座っていたレザー椅子に手を突っ込むと、中から自動式の拳銃を取り出した。 彼は拳銃の安全装置を外し、自らのこめかみに銃口を突きつける。
「私は、決して幸福にはなってはならない……なってはいけない人間だ」
彼が引き金を引くと、銃声が会議室に響き、一人の死体が床に転がる。
最後の幸福チップ未使用者がいなくなり、そして、全国民が幸福となった。




