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30.私たちの関係

「いってらっしゃいませ」


 翌日は、クレスと顔を合わせるのが少しだけ気まずかった。

 気にしないようにしても、どうしても昨夜のことを思い出してしまう。

 昨日のクレスはとても色っぽくて……まだ思い出すと顔が熱くなってしまう。


 だからあまりきちんと目を見られず、必要以上の会話は控えて淡々仕事をこなし、お城へ出かけるクレスにそっと頭を下げて視線を落とした。


「……今朝は随分かしこまっているんだな」


 そんな私の態度に耐えかねたのか、家を出る寸前になってとうとうクレスが聞いてきた。


「いえ、貴方は私の雇い主ですから。やはり公私はきちんと分けなければと思って」


 私たちは最近、少し距離が近すぎた。だから昨日のようなことになったのよ。だから、私は勘違いしそうになっていたのよ。


「……しかし、前にも言ったが君は俺の恩人だ。特別なんだ」

「その件ならお礼もしっかりといただいたので、やっぱり私はただの使用人です」

「いや、あの程度で礼を返せたとは思っていない。俺は君のことをただの使用人だとは思っていない」


 あまりにも真っ直ぐな視線ではっきりと言い切られ、胸の奥がドクンと跳ねる。

 クレスは昨日のことを覚えていないのだろうか?

 だとしたら、昨日はやっぱり酔っていたのね。


「……それは、どういう意味かしら」


 けれど、そんなふうに熱い視線を向けられると、やっぱり勘違いしてしまう。

 さすがに今は酔っていないだろうし、私のことを特別な〝女性〟として見てくれているのかもしれないって……。勘違いしてしまう。


「その……。できれば君とは対等な立場でいたいんだ。この家の主は確かに俺だが、その代わりに君は俺ができないことをしてくれている。俺はとても助かるから、それに見合った礼を払っているだけだ」

「……」


 クレスは一度言い淀んで唇を舐めたあと、とても抽象的な言い方をした。

 それを不満だと顔に出してしまったのだろうか。私の顔を見て慌てたように続けた。


「それが気に食わないのなら、面倒を見てくれなくても構わない」

「……それは、私を解雇するということ?」


 そこまで言うなんて。少し意外で、思わず聞き返した。


「違う。君をこの屋敷から追い出すつもりはない。仕事なんかしなくてもいいから、ここにいてほしいということだ」

「……――」


 けれど、思っていたのとは真逆の返事が返ってきて、思わず言葉を飲み込んでしまった。


 どうして……?


 それではまるで、婚約者か恋人のように、とても親しい間柄だわ――。

 恩人だからと、未婚の女性にそこまでしてはいけない。お返しの方が大きすぎて、勘違いしてしまうわ。


「……私は、ただの使用人ではないの?」

「ああ、そうだと言っている」

「では、私はなんなのかしら?」

「それは……」


 私の突っ込んだ質問に、クレスは考え込むように視線を下げた。

 少し困ったようなその表情が答えのような気もした。


 彼のことを困らせたいわけではないのに。


「冗談よ。じゃあ私たちは〝友人〟ってところかしら?」

「……っ」

「引き止めてしまったわね。今日もお勤め頑張ってきてね」


 努めて明るく笑って、彼を押すように見送った。


 ごめんなさいね。貴方の困った顔が見たかったわけではないのよ。

 所詮私も、そこらにいる普通の女と変わらない。クレスのように素敵な人からあんなことをされたら、期待してしまう。

 少し調子に乗ってしまったわ。



 彼の大きくて頼もしい背中に手を当てながらそんなことを思っていたら、クレスがピタリと足を止め「ルビナ」と私の名を低く呼んでもう一度こちらを振り返った。


「……?」

「……君は君だ。しかし俺の命の恩人でもあるのは間違いない。だから俺はこの命と同じ代償を以て君に礼を尽くす必要があるだろ?」

「……」


 そんなに大袈裟なことだろうか。

 クレスって、思っていた以上に真面目なのかも……。っていうか、ここまできたら天然?


「同時に、俺は俺だ。エンダース侯爵の息子であるとか、魔導騎士であるとか……本当は考えたくない。君が笑って気軽に俺と話してくれると、そういうことを考えずに済むんだ」


 つまり、何が言いたいのかと言うと……。と続けるクレスは自分でも何を言いたいのかよくわかっていないらしい。でも、なんとなくわかった。真面目だけど不器用な彼に心がほっこりと温まって、つい笑みが零れる。


「帰ったら今夜またゆっくり話そう。……その、昨日のようなことはしないから」


 最後のところはこっそりと耳元で囁かれた。彼の頬は少し赤い。


 だから、そういうところよ、クレス。


 どきりと跳ねる心臓を抑えるように自分に言い聞かせ、努めて平静を保つ。


 というか、酔っていたと思っていたのに……昨日のこと、ちゃんと覚えているのね。


「わかった」

「ん、では行ってくる」


 今度こそ彼を見送って、くるりと方向転換すると、少し離れた位置でメイド長のメリが私の方を見ながらニッと口元だけに笑みを浮かべた。

 主を見送るために一列に並んでいる他のメイドたちはなぜだかうっとりとしている様子。

 その反応に、私とクレスは今とても近い距離で会話をしてしまっていたことを思い知る。

 クレスはああいう人だから、この屋敷の使用人たちからも人気があるらしい。


 大丈夫かしら。私、虐められたりしないわよね……?


 熱を持った顔を少し俯けて、「仕事仕事!」と誤魔化しながらクレスの部屋の掃除をしに向かった。


 まだ、ドキドキと胸が高鳴っている。


 今夜、彼はゆっくりと何を話すつもりだろうか……。


 早く帰ってきてほしいような、ほしくないような。


 乙女心とは複雑だ。


 そんな矛盾した気持ちを繰り返しながら夜になるのを待っていると、それは突然やって来た。


 クレスが帰ってくる前に、夜になる前に。メリが慌てて私を呼びに来た。


 まさか、あの男は何の先触れもなく突然押しかけてくるほど常識のない人だったとは。


 さすがの私も予想していなかった――。


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