01.婚約破棄
「お前との婚約は破棄させてもらう」
静かに、とても冷たく。
婚約者であった男、ワルター・スタントンは私に向かってそう言った。
「……それで、貴方はどうするつもり?」
「イナと結婚する」
そう言いながら、ワルターは妹のイナの肩を抱き寄せた。
やっぱりね……。
その様子に、悪い予感がその通りになってしまったと内心でため息を吐く。
「それだとこの家を継ぐことはできないはずだけど」
私、ルビナはアイマーン男爵の長女として生まれた。
しかし、先日父が亡くなった。
うちは元々裕福ではない。
六年前に父が体調を崩してからはその状況は更に悪化していった。
母も妹のイナを産んだ際、産後の肥立ちが悪く、病を患って亡くなっている。
うちは女しか産まれなかったから、父は私の婚約者となる相手を探し、二年前に子爵家次男のワルターがそれに決まった。
彼の家もそんなに裕福ではなかったが、次男である彼がうちへ婿入りしてこの家を継いでくれることになったのだ。
この二年間、彼は時間を見つけてはうちへ通い、体調の良い時に父から仕事を学んでいった。
少しでも節約するため、使用人は解雇して家事や父の世話、畑仕事は私が精一杯やってきた。
貧乏だけど贅沢をしなければ不自由はしない、大変だけどそれなりに充実した生活だった。
それが少しずつ、父の体調が悪化する毎にワルターの態度がおかしくなっていった。
まだ結婚もしていないのに、我が物顔でこの家に長々と居座るようになり、私に「早く飯を用意しろ」「また人参と芋のスープか。たまには肉を食わせろ」などと、文句を言うようになった。
それに、妹とワルターの距離が随分近いように感じていた。母親と同じ綺麗な金髪に菫色の瞳を持つイナは、お人形のような美少女だ。
最初は「お義兄様」と可愛くワルターを慕っているだけだと思っていたけれど、いつの間にかその呼び方は「ワルター様」へと変わり、彼も義妹に対する以上の愛情を注いでいるように見えた。
そして父が亡くなるのを待っていたかのように、本日このセリフを言われたわけだ。
「なに、お前がその権利を放棄してイナに譲ればいいだけだ」
父は長女である私の婿としてこの男を連れてきた。
しかし父が亡くなった今、彼はとんでもない手段を用いてこの家を乗っ取ろうとしているらしい。
本当に、嫌な予感というのは往々にして当たるものだ。
「書類はこっちで用意してやった。こんな貧乏男爵家を継いでやるってんだから、感謝しろ」
ワルターは初めて会った時からは想像できないほど偉そうな態度でそう言うと、私を威嚇するようにバンっとわざわざ大きな音を立ててテーブルの上に書類を置いた。
「では、その後私はどうすれば良いのですか?」
「お前はもう用済みだ。どこへでも好きに行け。まぁ、どうしてもと言うのならこのまま使用人として置いてやってもいいがな」
ワルターの腕に絡みついて、妹は私の反応を窺うようにじっと見つめてきた。
どちらが先にこの計画を企んだのかは知らないけど、イナも承知のことであるのは間違いないようだ。
母の命と引き換えのように生まれたイナを、父はとても可愛がり、欲しいと強請られたものは無理をしてでも買い与えていた。
大きくなってからは家事や畑仕事を手伝うように言ったけど、「手が荒れる」「虫が怖い」「そんな汚いことできません」と言い、何も手伝ってくれない我儘な子に育ってしまった。
ワルターがうちに来てからは、食事の後片付けを手伝ってと言っただけで「お姉様が虐めますぅ」とワルターに泣きつき、それを聞いたワルターは理由も聞かずに私を咎めた。
どの道既に貴族らしい暮らしはできていない。だったら余計なプライドは捨てて、平民として生きていくのも悪くないかもしれない。
それに、こんな男と結婚せずに済んで良かったし、こんな人のためにこれからもこき使われ続けるのは御免。
随分勝手なことを言うとは思うけど、この家から出ていけるなんて、むしろ良かった。
これからは自分の意思で、やりたいことや言いたいことを我慢せずに生きていけるのだから。
「わかったわ。サインします」
「ふん……。本当に可愛げのない女だ」
これでこの人たちと関わらずに済むと思うと、むしろ清々しい気持ちになってくる。
だからあっさりと書類にサインしてやると、泣いて縋るとでも思っていたのか、ワルターはつまらなそうに鼻を鳴らした。
そんなことは気にせず、出ていくために荷物をまとめようと自室へ足を向けた時、「待て」というワルターの重たい声が私を呼び止めた。
「この家から何一つ持ち出すことは許さない」
「……は?」
この人、何言ってるの?
「どうして貴方にそんなこと言われなきゃならないのよ」
「お姉様、出ていくのでしたら全部置いていってください。まぁ、元々お姉様の物はそんなに多くないと思いますけど」
ワルターの隣で、イナまで私にそう言った。
亡くなったお母様のドレスも、アクセサリーも、高価なものはすべて妹に「いいなぁ。お姉様だけずるいです。私も欲しいです」と強請られ、奪われてきている。
それでも私だって妹が可愛かったから、可愛く強請られればあげていた。そうすればイナは「ありがとうございます、お姉様!」と嬉しそうに抱きついてきてくれた。昔は可愛い妹だった。
私はいつも安物を身につけ、畑仕事をして汚れていた。
家でお人形のように綺麗に座っていた妹が羨ましかったのは、私の方だというのに。
だけど、イナは私のことが嫌いだったらしい。
私のものはなんでも欲しがった。
私からすべてを奪うのが目的だったのか。
――婚約者すらも。
「……いいわ。何もいらない」
既にこの家の主面をしているワルターに、私は震える手をぎゅっと握りしめて家を出ようと玄関へ足を進めた。
「待てよ」
しかし、もう一度ワルターの重苦しい声が私の体を引き止めた。
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